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向かい合い、相手の目を見つめる。
茶色がかっているのか、煙ような薄墨色なのか、月も星も出ていない夜闇のように真っ黒なのか。虹彩の微妙な差異まではっきりと見分けられるくらいに、じっと見つめる。そうすると間もなく、私は夢に落ちる。
足元の地面がさっと取り払われるような感覚。一瞬で世界は移り変わり、気付いた時、私は書架に囲まれている。書架は見上げるほどに高く、精一杯爪先立ちして腕を伸ばしても、一番上の段には届かない。
けれどここでの私は重力から解放された存在だから、望めばふわりと浮き上がって、自由にどこへでも、指先を辿り着かせることが出来る。
書架は壁一面を覆い、奥へ奥へと続く。図書室の奥行きは深く、どんなに目を凝らしても果てが見えない。
棚には様々な厚みの本が並んでいる。絵本のような薄いものもあれば、辞典のような重厚なものもある。
私は知っている。ここにある書物の全ては、主の夢が記されたもの。
その人が生まれてから今日までに見た夢と同じ数だけ、ここに本がある。
けれど今、私が開くべきものは、この膨大な書物の中にはない。
『おいで。こっちだよ』
頭の中で微かに響く声。その声が、私をそこに導く。
私は書架を素通りして、奥へ奥へと進んで行った。
数多の夢がひしめくこの空間で、私は本を手にして夢を読む衝動を抑えられない。
その筈だった。なのに今は、ずらりと並ぶ書物の中のどれひとつ、私の興味を露ほどにも引かない。それよりももっと強く求めるものが、この先にあるのを、知っているから。
果てなく続くかと思われた長い長い書架がようやく途切れたその先に、それはあった。
『そう。そのドアを開けて』
言われる前に、私はもうドアノブに手を掛けていた。
重い扉を押し開けたその先には、夜があった。
夜──それとも、宇宙だろうか。
真っ暗な空間に無数に散りばめられた、光る星々。時折流星のように宙を疾り、強く瞬いたり、闇に吸い込まれて消えていくものもある。上も下も、始まりも終わりもわからない。その深遠な美しさに畏れを感じて、私は息を呑み立ち竦む。
「よかった。ちゃんと来れたね」
彼はその途方もない空間で、主のような顔をして佇んでいた。私を見つけ、柔らかな微笑みを浮かべる。
「おいで。足場はないけど落ちたりはしないから大丈夫だよ」
おそるおそる扉の外へ足を踏み出した。
不思議だった。彼の言う通り足場はなく、何かを踏み締めている感覚はない。なのに落ちることはなく、足を動かせば望む方へと、滑るように進む。体験したことはないけれど、無重力状態と同じなのだろうか。覚束ない足取りで、私はゆっくりと彼に近付いて行った。
「芦屋君、よく送り出してくれたね。怒ってなかった?」
「怒る…というか、心配してました。すごく」
「そうだろうね。目に浮かぶな」
普段なら何でもない世間話が、この空間では逆に異質だった。天河さんはいつも通り、心の内が全く読めない穏やかな微笑みを口元に浮かべた。
「彼にとっては未知の世界だろうしね。白崎さんもこういう形で見るのは初めてだよね?このキラキラしたものが、夢…記憶の欠片だ。綺麗だろう?ここでは全ての記憶が、等しく星のように輝く。たとえそれが目を背けたくなるような、惨い記憶だったとしても」
私に向けて語りながらも、天河さんがどこか別のものに意識を集中させているのがわかった。
ただ佇んでいるだけに見えるけれど、一体何をしているんだろう。私の疑問に気付いたのか、天河さんは私を見下ろして口元の笑みを深めた。
「もう少しだけ待ってね。今、彼の夢を整理してるところだから。正しく編み終えたら、君にも見せてあげる」
整理して、編む。それで私は思い出した。
情報の取捨選択と再構築。錯綜した記憶を最小の部品に解体して、あるべき形に戻す。
そうか。この混沌とした世界にいるということは、まだ再構築の途中だということなんだ。
「…どうして私を《《呼んだ》》んですか?」
ここへ辿り着くまで、何度も天河さんの声を聞いた。その導きがなければ、私は見当外れの夢を読んで終わりだったと思う。
「深い意味はないよ。君のお母さんも出てくるだろうし、見たいんじゃないかと思っただけ。…いや、でも、そうだな。それだけじゃなくて、この景色を君に見せたかったのかもしれない」
どういう意味だろう。怪訝に思って眉を顰めた私を見て、天河さんは柔らかく微笑んだ。
「君と夢で逢うのは楽しかった」
天河さんがそう言った直後。
周囲の景色が、幕を引くようにさぁっと変わり始めた。
早送りで夜が明けるみたいに、暗闇が明るい光に侵食されていく。
「ほら。始まるよ」
───夜が、明ける。




