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 社会人になると、一週間が過ぎるのなんてあっという間だ。二回目のモニタリングの日はすぐにやってきた。

 今日は天河さんの方が先に来ていた。第二試験室のドアを開けた瞬間ぱっと目が合ってしまって、私は慌ててお辞儀をして目を逸らした。

 「ごめん、さっきまで別のモニター試験が入ってたんだ。片付けるから少しだけ待っててくれるかな」

 中身は何なんだろう。私にはまるでわからない薬品類の瓶を、天河さんは淀みない手付きで整然と箱に収めていく。

 「…そっか。天河さんが携わっている仕事はこれだけじゃないだ」

 頭の中に浮かんだ独り言が、自分でも気付かない内に口から出ていた。言った後ではっとして口を手で覆う。

 一人で複数の業務を抱えるなんて、ごく当たり前のことだ。それに実年齢は知らないけれど、天河さんはどう見ても歳上だ。部署が違うとはいえ上司か先輩にあたる人に、失礼な物言いをしてしまった。

 けれど天河さんは全く意に介する様子なく、穏やかな表情のまま作業を続けている。

 「うん、開発部は既存商品の品質向上と新商品の開発を並行して受け持つのが慣例なんだ。あとは既存シリーズの限定品とかね。でも僕は」

 大きくはないが重たそうな箱を両手で抱えて端に寄せ、天河さんは見覚えのある美容液のボトルを手に取り、軽く振ってみせた。

 「新商品開発こっちの仕事の方が好きなんだ」

 始めようか、と促されて、私は先週と同じシャンプー台に向かった。

 天河さんは、最初の冷たい印象とは違って、比較的よく話す人だった。語り口はゆっくりしていて単調な方だし、話す内容も所謂世間話ではなくてどちらかというと専門的な話題。畑の違う私には理解出来ないことも多かった。率直に言って、会話を楽しみたい人にとっては話していて楽しい相手ではないかもしれない。でも私は自分が何かを話すより聞いている方が楽だし、低く静かに発せられる天河さんの声は、窓の外でしんしんと降り続ける淡雪のようで心地良かった。

 髪を洗い、乾かし、天河さんがその手に美容液を垂らすと、瑞々しい花の香りが鼻腔を満たす。ここ一週間家でも使っていたけれど、改めていい香りだと思った。

 「この香りは何ですか?」

 「ミュゲの香りをイメージしてる」

 その香りの名前は何度か目にしたことがあるけれど、よく考えたらどんな植物かは知らない。

 そう言った私に、天河さんは「鈴蘭のことだよ」と教えてくれた。それでようやく、私はその白く可憐な花を思い浮かべることが出来た。

 「フランス語でミュゲっていうんだ。香料としてよく使われるけど、鈴蘭っていう花は、生花そのものから香りを抽出する事が出来ないんだ。他の香料を調合してその花の香りに近付けるしかない」

 「…難しそうですね」

 「うん。ミュゲに限らずなんだけど、納得出来る状態に仕上げるのは難しい。本物の植物にだって香りには品種差や個体差があるし、実物に忠実であればいいってものでもない。時間経過や他の成分の影響も受けるし、コスト面の問題もある。最終的には人間が個々の好き嫌いで良し悪しを判断するしね」

 天河さんは淡々としているが、そうして聞くと気の遠くなる話だ。複雑で、確たる着地点もない。きっちりした数字で片付く経理の仕事とは全然違う。

 「探索するみたいですね。暗い洞窟の中を手探りで」

 「ああ。そうかもね」

 「不安にならないですか?出口が見えなくて」

 「なる時もあるよ。でもむしろそういうところが、好きなんだ」

 少し粘度のある、とろりとした液体が頭皮を濡らす。天河さんの掌中で温められたのか、生き物の体液のような温度をもっていた。

 「──あ」

 天河さんが短い声を上げたと同時に、額につぅと液体が伝う感覚がした。その後すぐに左目に鈍い刺激が走る。

 「痛っ…」

 私は咄嗟にぎゅっと目を瞑った。垂れた美容液が目に入ったようで、そうすると余計に痛む。

 「ごめん。すぐ洗い流そう」

 天河さんはすぐに水を張ったボウルを持ってきてくれる。差し出されたその水で洗い流して、徐々に痛みは去っていった。

 「…ごめんなさい。もう大丈夫です」

 「謝るのは僕の方だよ。不注意だった。本当に大丈夫?違和感があるようなら病院に、僕も付き添うから」

 「いえ、本当に大丈夫です。もう痛くないし、部署に目薬も置いてあるので…」

 一日中PC作業の職種だから目薬は常備してある。疲れ目用だけど、ないよりマシだろう。私はそう言ったけれど、天河さんは疑っているようだった。

 「ちょっと見せて」

 床にボウルを置いて、天河さんは私の前に跪いた。片目を覆っていた手を掴んで除けて、至近距離で、じっと私を見つめた。


 ──あ。駄目だ。


 気付いた時には、もう手遅れだった。

 私を覗き込む天河さんの瞳。真っ黒な瞳孔と、それを取り囲む淡い茶色の虹彩。砂浜に取り残された貝殻のような、透き通った瞳。

 私は吸い込まれるように、その瞳の奥へ、奥に潜む夢の世界へと、落ちていった。


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