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62.5

 そんなに急ぐ必要はないはずなのに、今の内しかないと、壱己が急かす。

 

 「一度にこんなに何軒も回ったら、混乱して逆に決められなくなっちゃうよ」

 車の後部座席に並んで座る壱己に向けて、私は小声でぶつぶつ文句を言う。

 「しょうがないだろ。ミフネが見つかった後は、どんな用件でまた時間が取られるかわからないんだ。今の内に目星つけとかないと更新に間に合わなくなる」

 「だからって一日に八軒も見なくても。昨日も六軒も内覧行ったんだよ?もう疲れた」

 「そうか。じゃあ次の物件に着いたら俺が部屋まで連れてってやるよ。お姫様抱っこで」

 「ねぇ、何でそんなに馬鹿なの?」

 肩に回された手をばしっと振り払われても、壱己は機嫌良く笑っている。運転中の営業担当者がルームミラー越しに、何とも言えない表情でこちらの様子を窺っているのがわかる。絶対に、年甲斐もなく人目もはばからずいちゃついてるカップルだと思われてる。恥ずかしい。居た堪れない。


 数日前に天河さんから得た情報をもとに、探偵事務所に人探しの依頼をした。

 といっても、会社選びも手続きも何もかも壱己が取り仕切ってくれた。さすがに任せきりは悪いと思って何か手伝うと申し出たけれど、壱己はひらひら手を振って私を追い払おうとする。

 「俺が手配しとくからお前は晩飯でも作っといて。ロールキャベツ食べたい」

 自ら買ってきた大きなキャベツをどんと一玉手渡され、従うほかなかった。私は大鍋に湯を沸かし、キャベツの葉を一枚一枚丁寧に剥がした。

  週末が訪れ、ようやく気付いた。

 壱己がわざわざ手間のかかるメニューを所望して私をキッチンに押し込んでいたのは、ミフネ君探しのためだけじゃない。新居の物件探しも手配していたのだ。私が従順に挽肉を捏ねている間に。


 ここしばらくは、週末も実家に行ったり母に会いに行ったりと忙しかった。ミフネ君探しをプロに任せると決めて、この週末は久々に予定もなくゆっくり休めると思っていたのに、土曜の朝起きたら壱己はもう着替えを済ませて朝食の準備も万端だった。

 「不動産屋の予約入れといたからな。今日明日は新居探しに専念するぞ」

 「え…私、今週末はゆっくり家で過ごす気満々だったんだけど…」

 「こないだ温泉行ったばっかりだろ」

 「行ったけど。楽しかったけど。不満を言うつもりはないけど、あれは思いつきの弾丸旅行だったじゃない」

 「朝イチで予約したから準備しな。新居に移った後は尻にかび生えるくらいゆっくりさせてやるから」

 

 こうして無理矢理連れだされ、日が傾き始めたこの時間まで物件巡りをしている。内覧に次ぐ内覧。不動産屋の営業担当もたかが一組の客によくここまで時間を割けるものだと感心する。

 予定していた物件を全部回ってようやく不動産まで戻ってきた頃、私は疲れ果てて頭が回らなくなっていた。

 「灯里はどこがよかった?」

 「もう壱己が決めていいよ。私、全部同じに思えてきた」

 「そう?じゃあ昨日の三軒目がいい」

 どこだっけ、そこ。もう間取りすら思い出せなかったけれど、私は「うん。そこで」と頷いた。


 「ではこちらにご記入頂いて、審査に入らせて頂きます。今後の必要書類はこちらの…」

 疲れを見せない営業さんの朗らかな声が、耳の表面を素通りしていく。

 「次は引越準備だな。TVと洗濯機はまだしばらくは使えそうだな。冷蔵庫は新しくデカいの買うか」

 独り言なのか私に話しかけているのか、壱己は真面目な顔でぶつぶつ呟いていた。返事をする気力もないし放っておけばいいかと、私は黙って出された紙コップのコーヒーを啜る。

 「特に問題なければ来月の上旬には入居出来ますよ」

 来月。来月と言っても、あと二週間もすれば来月だ。

 考えてみれば、拗れていた壱己との関係が解消されたのだってごく最近のことだ。なのにもう親にまで結婚すると宣言を済ませ、一緒に住む準備を整えている。随分な急展開だと思う。


 どうして壱己は、そんなに急いでいるんだろう。


 壱己に手を引かれて歩く帰り道、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 一日の務めを終えて西の寝宿へ帰っていく太陽が、壱己の横顔を鮮烈な赤で染める。

 それを眺めている内に、唐突にわかった。


 「ねぇ、壱己。待って」


 私が急に立ち止まったから、手を引いていた壱己も引っ張られて止まる。

 「何?急に止まるなよ」

 振り向いた壱己の顔は、不満ではなくて不安に揺れている。

 「そんなに焦らなくていいよ。私もう、逃げようとか思ってない。ちゃんと壱己の傍にいる」

 壱己はぐっと唇を引き結んで、黙った。

 お互いに腕を伸ばしていて、私たちの距離は一メートルと少し。逆光に目を細める私には、壱己の瞳の奥までははっきりと見えない。

 だから今は、真っ直ぐに見ても大丈夫。

 「ごめんね。私がちゃんと言わなかったから、不安だったんでしょう。流されてる訳じゃなくて、私もそうしたいの。ちゃんと壱己の傍にいるから、だから、そんなに急がなくていいよ。無理しなくていい」

 壱己は深い溜息を吐いて、掴んだままの私の手をゆるりと放した。

 「…言うのが遅ぇよ」

 「うん。ごめん」

 「もう部屋も申し込んだ後だ」

 「うん。それはそのまま進めていいと思う」

 「後悔しない?」

 「多分。私それほど住むところにこだわりないし。でも正直言うと、どの部屋に決めたのかよくわかってないんだよね。帰ったらもう一度資料見せてくれる?」

 「……うん」

 壱己が離した手を、今度は私が拾い上げる。

 帰ったらゆっくり話し合おう。

 どんな家具を置こうか。二人とも派手な色は好きじゃない。特別おしゃれじゃなくてもいい。落ち着く部屋がいいと思う。

 その部屋で私たちは何をして、どんなふうに過ごそうか。

 早く帰って、ゆっくり話そう。

 急がなくていいと言ったばかりなのに早く帰りたくなってきて、私はさっきより大きな歩幅で歩き始めた。

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