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案内された部屋に着いてほどなくして、夕食が運ばれてきた。
急な思い付きだったから部屋を用意して貰えるだけでも充分だと思っていたのに、老舗の温泉宿に予約の電話をすると、ちょうど当日キャンセルが出たところで部屋は取れる、希望があれば夕食もつけられると言われた。車を借りるより快速電車を使った方が早そうだ。急いで駅まで移動して電車に乗って、都心から一時間半の距離の温泉地に向かった。
目まぐるしかったけれど何とか目的地に着いて、最寄駅から宿まではタクシーで向かった。お風呂に入る時間はなかったけれど浴衣に着替えて、ようやく落ち着いたと思ったらすぐに食事の時間だ。
どっしりした純和風のローテーブルに広がる凝った料理の数々を前に、私はほんの少し萎縮していた。これほど豪華な食卓に、私は相応しくないんじゃないかという気がしてきた。
「今気付いたんだけど、私、修学旅行除いたら旅行に来るの二十年ぶりくらいかもしれない」
「まじか」
「うん。元々家族旅行も滅多になかったし」
「そうか、お前、友達もいないもんな」
「うん。彼氏もあれっきりで旅行行くような関係じゃなかったし、一人旅の趣味もないから」
「だよな。したらこれが人生初の個人旅行か」
「そうなるね」
手酌で注いだビールのグラスに口を着ける私を、壱己は憐れむような目で見つめている。
「…もっとちゃんと計画して連れて来た方が、良かったな」
「え?なんで?充分だけど。身分不相応だなって思ってたくらいだけど」
「何だそれ」
壱己は不意をつかれたみたいに、ふはっと笑う。その笑顔にどことなくあどけなさを感じて、私は少し、どきんとした。そういえば昔、壱己がこんなふうに屈託なく笑うとクラスの女の子たちがざわついていたなと思い出す。そのくらい、壱己の顔面は上出来なのだ。
「それならさ。新居は駐車場付きの物件にしよう。車買って、色んなとこ行こうな」
あぁ、でも、やっぱり違う。
どんなに面影があっても、やっぱりあの頃の壱己とは違う。あの頃の私たちとは違う。
私たちが語らう未来の話は、あの頃みたいに遠いものじゃない。現実にほど近い将来の話だ。そう考えると何故かいっそう落ち着かない気持ちになって、ごまかすように、料理を口に詰め込んだ。
「…でも、そんな物件は高いでしょ」
どの車種にしようかと楽しげに悩み始めた壱己に水を差すように、私は小声で呟いた。でも壱己はそんなささやかな横槍をまるで意に介さず、ご機嫌なままだ。
「都心から少し離れればそこまでじゃないよ。俺もお前も普段そんなに金使わないじゃん」
言われてみればそうだ。私は使う機会がないだけだけど、壱己も案外堅実というか、それほど物欲が強くない。それに、経理の業務上壱己の給与額を見る機会があるから知っているが、壱己は昇給ペースが早くて基本給が同期の私よりだいぶ高い。その上残業や出張も多いから、総支給額で見るとだいぶ差があるのだ。今まではそれを見てちょっとずるい、と思っていたけれど、一緒に生活するとなればむしろ安心材料になる。いやでも、油断は出来ない。例え収入が多くとも、無駄遣いをしていたらあっという間になくなってしまう。経理の仕事をしていながら浪費を許し、二馬力にも関わらず貯金がみるみる目減りしていくなんて事態は、あってはならない。
「家賃とか光熱費は一人の時より割安になるよね。食費はどうなんだろう。壱己、家計簿とかつけてる?二人のお給料合わせたらどのくらい貯金に回せるかな。家賃にもよるけど…」
「何でこんなとこで急に職業病発症すんの?もっと夢と希望に溢れた話しない?」
壱己は呆れた顔で、瓶ビールの中身をどばどばグラスに空けた。食べるのが早い壱己はもうすっかり完食して、酒瓶を空にすることに専念している。
「…でもまぁ、ようやく俺との暮らしに意欲を見せたな」
ぽつりと呟く壱己は、不安そうでいて嬉しそうで、でもやっぱり、どこか心許ない複雑な表情でいた。
ようやく食べ終えた私が箸を置くのを見ると、壱己は机の周りをぐるりと半周回って、私の横で胡座をかいた。
遠慮がちに私の頬に手を添えて、そうっと触れるだけの、控えめなキスをする。
「俺に触られるの、嫌?」
同じことを昔、訊かれた。
それを思い出してぎくりとして、私は思わず目を逸らした。
「…何言ってるの。今さら…」
「今だからもう一度訊いてるんだよ。嫌?」
はっとした。あの時自分が何と訊いたか、壱己も覚えているんだ。私はあの時と同じように、反射的に首を横に振った。
「…ならよかった。でも、ちゃんと言って」
壱己は安堵の息を吐き、やんわりと私を抱き寄せた。
「灯里、言って」
耳の後ろに、壱己の息がかかる。
それだけで私の体は、一瞬で別のものに入れ替わったみたいに敏感になる。私だけの身体から、壱己と抱き合うための身体に切り替わる。
「…嫌じゃない。壱己に触られるの、安心する」
抱きしめられていてよかった。羞恥に赤く染まる頬を、見られなくてよかった。
「……もっと触って……」
消え入りそうな小声で私が乞うと、壱己は笑って、私の浴衣の帯をするりと解いた。
照明を落として、広縁に続く障子を閉める。周囲が暗闇に覆われたら、もう大丈夫。私は安心して壱己に身を委ねることが出来る。
「お前、浴衣似合うね」
「でもすぐ脱がせるんでしょ?」
「脱がせるまでが浴衣だろ」
「ちょっと何言ってるのかわからない」
くだらない話をして笑い合った。
壱己と体を重ねる時、私はいつも心の片隅で、後ろめたさに似た気持ちを抱えていた。でもその気持ちは少しずつ薄れていって、今はもう、どこを探しても見当たらない。
「夏になったら祭りでも行こ。浴衣着てさ」
「うん。いいね。…ねぇ、壱己」
「ん?」
「ありがとね」
「何のお礼?」
壱己は首を傾げるけれど、私は笑うだけにして、何も答えなかった。
こういう気持ちを、好きっていうのかな。
ずっと曖昧で正体がわからなかった自分の中の壱己への気持ちが、ようやくはっきりとした形をもってお腹の底にすとんと収まる。
壱己が私に向ける気持ちと同じだけのものは返せないだろうと、そう思っていた。壱己がそれだけの気持ちを私に向けることも、ただの買い被りだと思っていた。そのどちらもが後ろめたくて、壱己に対する気持ちを直視することが出来なかった。ちゃんと形を与えてあげることが出来なかった。
でも今は、壱己が私と一緒にいるのを喜ぶ度に、肌を合わせるのを求める度に、この先に続く未来を語る度に、気付かされる。私も同じことを望んでいるのだと。笑い合って抱き合って、隣で眠り、同じ朝の光で目を覚ますことを夢みる。多くの恋人たちが当たり前に過ごしているだろう、そんな夜が、今ようやく私たちにも訪れていた。
両腕を首に回して抱き付くと、壱己はすぐに応えて、背中を支えながらゆっくりと、私の身体を布団の上に横たわらせる。肌に馴染んだ指先が体の曲線をなぞる。その先から、私の体は熱を帯びていく。
まだ少し残っている頭の端の冷静な部分で、私は昼間の母との会話を思い出していた。
「彼がその後どうしてるか?…知らないわ。私は何度も連絡したけど、応答しないか出ても適当に躱されるだけで…多分、また夢が見える人を探しに行ったんだわ。私の嘘がバレた時、聞かれたの。君の嘘はところどころ妙にリアルだったけど、実際に見える人が身近にいたのかって。いたら会いに行きたいって。誰もいない、全部作り話だって言っておいたけど」
「…何で私のことを話さなかったの?」
「だって…その頃はさすがに、彼の夢に対する異常な執着心がわかっていたし。灯里の話をしたら、きっと迷惑がかかると思ったの」
母から得られたミフネ君のその後の情報は、たったそれだけだった。何の手掛かりにもならない。これから私たちはどうやって、かの人を探せばいいんだろう──。
「灯里。ほら、口開けて──」
けれど私の思考はそこまでだ。
後はもう、壱己の与える快感に押し負けて、掻き消えた。




