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母の出勤前に会う時間を設けて良かった。そうでなければ、とりとめのない話を終わらせるきっかけを、見つけられないままだっただろうから。
家を出なければいけないギリギリの時間まで、母は私たちを帰そうとしなかった。これ以上引き延ばしては遅刻だと呟きながらも、母は今の私についてあれこれ聞きたがった。
最寄駅まで一緒に歩き、別れ際、躊躇いがちに弱々しく私の手を握った。
「…あのね、灯里。私にこんな事を言う資格がないのはわかってるんだけど…困った事があったらいつでも連絡してね。頼りないとは思うけど、出来る限り力になれるように、私、頑張るから。あと、それと…」
言っていいものかどうかと迷うみたいに、母は私と壱己の間で視線を往復させる。
「…結婚おめでとう。あなたの幸せを、心から祈ってる。いつか、また…」
言い掛けて、母はぐっと言葉を呑み込んだ。そのまま小さな礼をして、ホームに続く階段に向かって駆けて行く。母が乗る電車はもう間もなく到着すると、アナウンスが流れていた。
私たちもすぐに、反対方向に進む電車に乗った。車内で何を話したのか、あまり覚えていない。ほとんど会話をしなかったのかもしれない。
乗り換えをするターミナル駅で、壱己が「一旦降りて、どっかで休もうか」と言った。私は上の空で、壱己が何を言ったのか理解もしないままに、ただの条件反射みたいにぼんやり頷いた。
私は初めて降りる駅だったけれど、壱己は来たことがあるのだろうか。すたすた迷いなく歩き進んで行く壱己の半歩後ろを、私は漂うような足取りで追った。
太陽が西に向かって沈みかけている。橙色に染まる空を見上げると、空中に張り巡らされた幾本もの電線が視界を妨げる。名も知らぬ鳥の群れが姦しく鳴きながら飛び交い、器用に細い電線に止まり足を休めては、またどこかへ去っていく。私と壱己の足元に、黒いふたつの影が伸びる。強い西陽が生み出す色濃く長い影は、動く度に形を変え、じっと見つめる内に不気味な生き物みたいに見えてきた。
具合が悪い訳でも酔っている訳でもないのに、体がふわふわして、足取りが覚束ない。紙切れのように風に流されそうになる私の手を、壱己がしっかり握って繋ぎ止める。
「しんどかったろ」
壱己の温かい手のひらから労りが伝わって、じんわり目元が熱くなる。ほんの少しだけ泣きたくなった。
「…わからない。なんだろ、思ってたのと、ちょっと違った」
「どんなふうに?」
「もっと冷血で身勝手で厚顔無恥で浅はかで、救いようのない非人道的な人なのかと思ってた」
ひでぇな、と壱己は小さく笑う。
「でもその通りな部分もあったろ。身勝手とか浅はかとかさ」
「うん。でも思ったほどじゃなかった」
少なくとも親や人としての情は、全くない訳じゃなかった。適切でも充分でもないけれど、あのひとはそれを、私が想像していたよりは、少し多めに、持っていた。
愚かなだけだったのかもしれない。
自分の中の空虚に苦しみ、それを埋めるものに没頭しただけの。
普通の、愚かなひとだった。
そしてその愚かしさは、私の中にも確実に存在しているのだ。あの人や私だけじゃなく、父にも壱己にも、きっと多くの人々の中に。
「…ねぇ。どこに向かってるの?」
頭の中を占拠する重く絡まった思考の糸の塊を放り出したくて、壱己に話を振る。
「それを今考えてる」
「決まってないの?」
「初めて来た場所だしな。どこに何があるのかわかんねぇ」
壱己は堂々とそう言う。初めて?でも壱己の足取りに迷いはない。
「目的、ないの?降りようって言っといて?」
「とりあえず雰囲気良さそうなホテルとかないかなって探してた。デカい駅だからあるかと思ったけど、意外とないな」
「なんでホテル?」
「普通に都内の方がありそうだな。もう少し歩いて見つからなかったら、駅に戻るか。それか車借りて手近な温泉宿でも行く?それもいいな…」
私の質問が聞こえているのかいないのか、壱己は独り言みたいに呟いている。
「だからなんで外泊しようとしてるの?」
「お前の脳味噌が破裂する前に、空気抜いた方がいいかと思って」
何それ?と私が眉を寄せると、壱己は目を細めて薄く微笑んだ。
「場所を変えればちょっとは気分も変わるだろ。とことん吐き出したけりゃ何時間でも付き合うし、一旦全部忘れたきゃ忘れさせてやるよ」
なるほど。簡単に言えば気晴らしに連れて行ってくれようとしていると、ただそれだけのことだった。
「壱己の『忘れさせてやる』は、なんか卑猥なんだよね…」
「そりゃそうだ。お前の頭を空っぽにする方法なんて一個しかないからな」
「でも温泉はちょっといいね。寒いもん」
「お。行くか。素泊まりならどっかしら空いてるだろ」
早速スマートフォンを取り出して調べ始める。出不精で腰の重い私は、こんなふうに思い立って急にどこかに出掛けようとするなんて、今までなかった。
「調べるなら時間かかるでしょ?どこかお店入ろうよ。冷えちゃう」
壱己はうんと頷いたけれど、目線は画面に落としたままだ。今度は私が手を引いて、壱己の安全を管理しながら駅の方へ戻る。カフェチェーンやファーストフードのお店がたくさんあった。適当に空いているお店に入ろう、と考えていると、壱己はまた独り言みたいに喋り始めた。
「大人っていいよな。自由で。気晴らしも逃避も選択も、自分の意思で出来る。一人じゃどこにも行けなかった子供の頃とは違う。どこにでも行ける」
突然何を言い出すんだろう。さっきとは反対に私の半歩後ろを歩く壱己を見返るけれど、スマートフォンに目線を落としたままだ。
「なぁ灯里。許せないものは許さなくていいし、死んでも許せないと思ってたものを許してもいいし、どっち付かずで曖昧にしたままでもいい。お前はもう大人で、自由なんだ。お前が思ってるよりずっとさ」
壱己が何を言いたいのか、私はちゃんと理解していたのだろうか。
それすらわからないままに、私はただ「うん。ありがとう」と頷いた。




