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 母に恨み言を言うために来た訳じゃない。口にするつもりなんて、本当にこれっぽっちもなかった。

 でも、声に出してしまったものはもう取り返せない。

 助けを求めるように思わず壱己の方を見ると、壱己もさすがに少し困ったような顔をしていた。それでも一瞬目が合うと、大丈夫だと言うように頷いて見せる。 

 「…申し訳ありません。灯里さん、本当はお母様に会いたがっていたんです。ただ、彼女は何も知らされていなかったんです。ある日突然大好きだったお母様がいなくなり、それきり消息もわからない状態でした。お母様が家を出た理由も家に戻る意志があった事も、灯里さんは聞かされていなくて…知ったのは、つい先日の事なんです。まだ気持ちの整理がついていない状態で、つい心にもない事を口走ってしまっただけなんです。御理解頂けますか」

 「え…えぇ、そうなの…そう、よね。わかるわ」

 あくまで穏やかに語られる壱己の弁解に、母は何度も頷いた。

 「灯里は何も話してないっていうのは、私が家に戻ろうとした当時、あの人が言っていたし…壱…芦屋君からも電話で聞いたわ。…あの頃、灯里を傷付けたのはよくわかってるつもり。私、すごく反省したの。だから何度もあの人の元へ通って、家に戻ってやり直そうとしたのよ。帰ったらうんと灯里に優しくしようって思ってた。でもあの人は…」

 母が語尾を濁したのは、同じ内容の話を繰り返していると自分でも気付いたからだろう。

 母が父のことをあの人と呼ぶのは、父への遺恨の表れだろう。家に戻るのを拒まれた時点で母は自分を被害者だと感じ、私と全くの他人として過ごした十数年の歳月の責任は、父に転嫁される。

 でも元を正せば、全て母の行動が招いた結果だ。その無責任さに苛立ち、私の口はまた勝手に動いて母を責める言葉を吐き出しそうになった。それを察した壱己が、母から見えないようにそっと私の背中を撫でてなだめる。

 「そ、それにね。家を出たのも、その、誤解っていうか、騙された、みたいなところもあって…」

 「…騙された…?」

 私と壱己はほんの一瞬、目線を交わし合う。

 母が言い淀んでいるのは、家を出る原因となったミフネ君に関する話だ。

 「騙されたって何?どういう…」

 勢いよく問いただそうとする私を、壱己が膝に手を置いてそっと制止する。

 そうだ、焦って下手な聞き方をしたらいけない。私はぐっとはやる気持ちを呑み込んだ。上手く話を聞き出さないと──でも、なんて?

 何と言えばいいのか私が考えあぐねている間に、壱己が口を開いた。

 「…お母さん。僕達も同じです。灯里さんと出会った時、僕達にはそれぞれ別の交際相手がいました。どちらも何年も付き合って、結婚の約束までしていた相手です」

 え、何それ。誰のこと?何が同じなの?

 私にはずっと彼氏なんていなかったし、壱己はいたけどすぐ別れてた。そもそも私たちが出会ったのなんてまだ中学生の時で、付き合ってる相手がいたとしても結婚の約束なんてする訳ないじゃない。

 思わずそう声を上げそうになった私に、壱己がにっこりと笑顔を向けてくる。一見恋人に向けて優しく微笑んでいるように見えるが、私にはわかる。細めた目の奥の鋭い光が『お前は黙ってろ』と圧をかけているのが、わかる。 

 「僕達は出会ってすぐに惹かれ合ってしまいました。お互い心に決めた相手が他にいたので、本来なら許されない事です。でもどうしようもなかった。何度も諦めようとしましたがそれも出来ず、結局僕達は、それぞれの婚約者に別れを告げて一緒になる事に決めたんです。…だから、自分の立場や周囲の目も省みず誰かに強く惹かれてしまったお母さんの気持ちは、僕達には痛いほどわかるんです」

 あぁ、なるほど。合点が言った。

 私たちが母と似た境遇である、同じ穴のむじなであると主張することによって、仲間意識を引き出し、ついでに話も聞き出そうとしている。

 よくもまぁそんな出鱈目でたらめな設定がすらすら思い浮かぶものだと呆れてしまうが、壱己に任せた方が巧く事が運ぶだろう。とりあえず、私は黙っておこうと決めた。

 「あ…あら、そうだったの…」

 母は戸惑いながらも、どこかホッとした様子を見せる。

 「だからお母さんが家を出たこと自体は、仕方がないと理解しているつもりです。それよりも、それほど想い合った人と別れざるを得なかったのっぴきならない事情の方が、僕達にとっては気掛かりで…別れに際してお母さんがどれだけ辛い思いをされたんだろうと、僕も灯里さんもとても心配していたんですよ。それもまさか、騙されていただなんて…」

 壱己は目を伏せて、心からの気遣いを滲ませる。

 壱己は本気だ。本気で母を懐柔しにかかっている。

 「…そんなふうに言ってくれる人、いなかったわ」

 母がぽろぽろと涙をこぼし始めたので、私はぎょっとした。

 「僕は以前の恋人とは結婚の約束をしていたとはいえ、まだ籍は入れていない状態でした。それでも周囲からは散々責められ、当時勤めていた会社も退職せざるを得ない状況に陥りました。灯里さんという心の支えがなければ、今まともに生活出来ているかどうかも怪しいくらい気落ちしていたんです。同じような立場だったお母様のご心痛を想像すると、胸が痛みます」

 横で聞いていた私は、呆れを通り越して少し感心し始めた。壱己なら毎日真面目に働かなくても、一瞬で大金を稼げるんじゃないだろうか。詐欺とかで。

 「…そう…えぇ、辛かったわ。本当に辛かったの。好きな人には去られ、戻る家もどこにもなくて。でも私の話なんて、誰も真面目に聞いてくれなくて…」

 「そうでしたか。それはお辛かったですね」

 壱己は泣きたくなるのも当然だと言わんばかりに身を乗り出し、母の話に真摯に耳を傾ける素振りを見せた。

 「よほど悪い男だったんでしょうか。お母さんの真剣な気持ちをもてあそぶような…」

 「そうね。本当にひどい人だった」  

 母はあっさりと壱己に心を開き、ミフネ君に対する積年の恨みをぶちまけようとしていた。

 あまりにも簡単だった。それほど母は、誰かからの共感や同情に飢えていたのだろうか。私は複雑な気持ちになった。

 「散々思わせぶりな態度を取って家を出るようそそのかしておきながら…彼は私の事なんて何も見ていなかった。彼の関心事はひとつだけ──私が本当に『夢を見ることが出来るかどうか』だけだったの」


 夢を見ることが出来るかどうか。


 私は耳を疑った。

 

 すっと全身から血の気が引いて、膝の上に置かれたままだった壱己の手を、ぎゅっと強く握った。

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