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 母は思いのほか近くに住んでいた。

 時間にして一時間強。隣県の一番大きなターミナル駅から数駅先、私の最寄駅から二回乗り換えるだけで着く。実家と方向は違うけれど、距離はほとんど変わらない。

 今まで縁のない土地だったから、その路線に乗るのも初めてだ。初めて見る電車、駅の案内板。見慣れない景色が視界に映るごとに、緊張が高まる。

 「…なんか、帰りたくなってきた…」

 「絶対言うと思った」

 私の泣き言を、壱己が鼻で笑う。

 「やっぱり会うのはキツいって思うなら、俺だけで行くよ。無理しないでどこかで待ってれば?」

 壱己はあっさり私に逃げ道を用意する。でも、私が会ってみたいと言い出したんだ。さすがにそこまで甘えられない。


 壱己が聞き出してくれた話によると、母は埼玉の都市部から少し離れた土地で、介護系の仕事をしているそうだ。年中無休、夜勤を含めたシフト制の仕事らしく、土日休みの私たちとは時間が合わせ辛い。だから午後、母の出勤前に会うことになった。

 

 きびすを返して逃げ出したい気持ちを抑えるために、壱己の手をぎゅうと握った。

 「意外と握力強ぇな」

 壱己はそう言いながらも、そのまま私の手を握り返してくれた。

 待ち合わせ場所は全国どの街にもあるコーヒーチェーン店だ。

 私たちがほぼ時間通りに到着すると、店内は満席で空席待ちの客もちらほらいる混雑ぶりだった。母がこの店のどこかにいるのか、まだ来ていないのか、全くわからない。

 よく考えたら母と最後に会ったのは十五年以上前。干支が一周して余りある年数が経っている。記憶を頼りに探しても、判別出来ない可能性もあった。そしてそれは母の方も同じだろう。

 もっとわかりやすい場所で待ち合わせれば良かった。後悔し始めた私の横で、壱己のスマホが鳴った。壱己はさっと取り出して二言三言交わすと、すぐに電話を切って入口の方を親指で指し示す。

 「灯里、来たよ」

 「えっ⁈」

 「着いたら電話するよう頼んでおいたんだ。久しぶり過ぎてお互い気付かないかもしれないからさ。一旦店出るぞ。席も空きそうにないし場所変えよう」

 壱己は私の腰に手を添えて、店を出るように促す。戸惑って壱己を見上げながら店の外に出ると、すぐに高い声が耳に届いた。

 「灯里…!」

 反射的に声のした方へ顔を向けると、こちらへ駆け寄る女の人の姿が視界に飛び込む。

 コッコッと鳴るヒールの音とともに、その人は私に抱きついた。ウェーブがかった明るい色の髪が彼女の動きに合わせて広がり、私の頬に当たる。

 「灯里…久しぶりね。大きくなって…!」

 母は私を見上げ、満面の笑みを浮かべる。その両目は、今にも涙が溢れそうに潤んでいた。


 言葉が出て来なかった。

 すがり付かれた私は、ただ戸惑い、体を強張らせていた。

 私の母はこんな人だっただろうか。

 想像していた人物とは、随分違った印象だった。壱己がちゃんと手筈を整えていてくれてよかった。私だけでは絶対にわからなかったと思う。

 母は綺麗な人だった。周りからよくそう言われていたし、娘の私から見てもそうだった。艶のある真っ直ぐな黒髪で、所謂いわゆる大和撫子的な落ち着いた雰囲気の女性。でも今目の前にいる人は、どちらかというと華美な装いを好みそうな女性だ。

 「初めまして。お電話差し上げた芦屋です」

 私の困惑を察したのだろう、壱己がやんわりと私達の間に割って入る。

 「店内が満席だったので、場所を変えようと思っていたところなんです。どこかゆっくりお話出来る場所をご存知ないですか?僕達はこの辺りの土地勘がないので…」

 普段のざっくばらんな振る舞いとは打って変わった紳士的な態度で、壱己は母に尋ねる。

 「あ、あぁ。あなたが電話をくれた方ね。そうね、それならうちに来る?狭いし散らかってるけど、どこも混んでるだろうから」

 母は取り繕うような曖昧な笑顔を浮かべて、私から離れた。化粧品の残りが鼻先をくすぐって、私はくしゅんと小さなくしゃみをした。


 新旧入り混じった戸建住宅と木造アパートと雑居ビルが混在する、建造物密集度の高い地域。その一画に、母が住むアパートはあった。

 木造三階建ての一階。壱己が学生時代に住んでいたアパートと似たような雰囲気だ。玄関を上がってすぐにユニットバスとトイレとキッチンがあって、その先に六畳くらいの部屋がある。部屋には小さなベッドとローテーブル一つとテレビが置いてあるだけだ。

 散らかっている、と言っていたけれど、それほどではない。それほど物が多くないから、すっきりとしてはいる。ただ、床にお酒の瓶が数本並んでいるのが気になった。家にいた頃の母は、アルコールはほとんど摂らなかったはずだ。

 私たちは小さなローテーブルを囲んで座る。二つしかないクッションを母は私と壱己に差し出した。私たちは二人してそれを遠慮して、行き場を失くしたクッションが床にぽつんと取り残された。 

 「先日は突然お電話差し上げて申し訳ありませんでした。改めてご挨拶させて頂きます。灯里さんとお付き合いさせて頂いております芦屋壱己と申します。本日はお時間を作っていただきありがとうございます」

 壱己は正座をしたまま、丁重に頭を下げた。普段の粗野な態度を完璧に隠した壱己は、どこに出しても恥ずかしくない落ち着いた大人に見える。あることないこと話したり、自分の都合のいいように話を進める恐れはあるけれど、とにかく相手とのコミュニケーションだけは、安心して任せることが出来た。

 「お電話でお話した通り、灯里さんと結婚させていただきたいと思っています。御承諾を頂きに灯里さんの御実家に伺った際、お義父さんからお母様の御連絡先を教えて頂きまして。今は別々に暮らしておられるとはいえ、灯里さんの大事なお母様ですから。結婚前に一度御挨拶出来ればと…不躾ぶしつけながら御連絡させて頂きました」

 そういう建前でいこう、という話は、事前に壱己からされていた。あの日は父に挨拶に行った訳ではないのだけれど、結果的にはそういう流れになっていたから万が一父と母が今後接触するような事態があっても、話の齟齬は発生しないだろう。

 「びっくりしたわ、結婚なんて。灯里ももうそんな年になったのね。おめでとう」

 顔を見ずとも声だけでわかるほど、母はにこやかに対応していた。

 真っ直ぐ母の顔を見て話す壱己とは対照的に、私はじっと俯いたままだ。夢を覗いてしまうから、とかは関係ない。ただ、どんな顔をしていればいいのかわからなかった。

 母が、見ず知らずの他人に思える。

 外見の印象が変わったせいだろうか。艶やかだった黒髪は傷みの目立つ明るい茶色に変わった。透明感のある白い肌はくすんだ青白さを帯びて、それを隠すためだろうか、厚く重ねられた化粧品が、細かな皺の上に浮き上がる。年齢相応にしていればさすがに老いたなと感じる程度だっただろうに、無理をして若くあろうとする努力が裏目に出ていて、私にはそれが痛々しく思えた。もっとも、それは私が、わだかまりのある娘だから感じることだと思う。全くの他人であれば、特に何の違和感もなく通り過ぎただろう。 

 「壱己君に連絡もらえて、すごく嬉しかった。私は本当はあなた達のところに戻りたくて…でも、あの人はそれを許してくれなかった。灯里のことは、ずっと気になっていたのよ。ずっと会いたいと思ってたの」

 はらはらと流れる涙を、母はティッシュで拭った。

 その涙より、壱己のことを早速名前(ファーストネーム)で呼ぶ無遠慮さが気になった。許してくれなかっただなんて、まるで自分が被害者みたいな言い方をすることも。

 私の中に、まっくろな雲みたいな負の感情が生まれる。 

(許されなくて当然でしょう。家族そっちのけで不義の恋に溺れて、夫も子供も捨てて、無責任に出て行ったんだから。壱己を名前で呼ぶのもやめて。私と壱己が結婚して家族になったとしても、あなたはもう、私の家族じゃないんだから)


 「……え?」

 「灯里」


 母のぽかんとした声と、私を制止するようなぴしゃりとした壱己の声が重なる。

 それで気付いた。 

 私、今、全部声に出してしまっていた。

 心の中で呟いた筈の皮肉を、全部。

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