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そんなことをしていたから、ベッドを買う為に出掛けるのが昼過ぎになってしまった。本当は壱己が車を出して隣県の大きなインテリアショップに行く予定だったけれど、予定を変更してもっと近く、都内にある専門店を訪れた。
「品揃え多いね。でも高い」
「長く使う物だから多少高くても気に入った物の方がいいだろ」
リゾートホテルにありそうな籐のベッドに壱己が腰掛ける。壱己も私もそこまで個性的な趣味はないから、なんだかんだ言って結局シンプルな物を選ぶんだろうけど、天蓋付きの豪奢なベッドや機能的なロフトベッドは、見ているだけでも楽しかった。
「こらっ。お店の物で遊ばないの!」
不意に耳に届いた大きな声に、私と壱己は同時に振り向く。見ると、幼稚園児と小学校低学年くらいの男の子の兄弟が、展示してある二段ベッドに乗ってふざけ合って母親から叱られていた。
子供達は一瞬しょんぼりと反省したような顔を見せたけれど、二段ベッドの梯子を降りるなり、またきゃあきゃあとはしゃぎ始める。どこかから父親が戻ってきて、怒った顔の妻を宥める。手を引かれて離れて行った。子供達は聞き分けがなくて、でも明るくて無邪気だった。眉を吊り上げて叱っていた母親も、手を繋いで歩き出した途端に笑顔になる。なんだかんだ言っても仲が良くて幸せな家庭なんだろうなと思った。
家族三人が揃っていた頃の記憶を、私はあまりはっきりと憶えていない。こんなふうに賑やかで精彩に富んだ日々を、送っていた頃もあったのだろうか。
幼い頃の私は、母のことも父のことも、多分ちゃんと好きだった。世の子供たちがすべからくそうであるように、叱られても放っておかれても、無条件に親の存在を求め、心のどこかで頼りにしていたと思う。
でも私は母が家を出た後、彼女に会いたいと思ったことは一度もなかった。
「…自分の子供って、可愛いのかな?」
遠ざかっていく名も知らぬ家族の背中を眺めながら、私は無意識にそう呟いていた。
「そう思える人間ばっかりじゃないだろ」
淡々とした壱己の返事に、私ははっと口を噤む。壱己の前で言うことじゃなかった。今もうっすらと残る壱己の体の傷跡。私は何度も、今朝だって、それを見ているのに。
「でも、俺は欲しいけどな。子供」
「えっ⁈そうなの?」
さらりと知らされた壱己の願望に、私は心底驚いた。壱己は「うん」と平然と頷いて、ごろんと展示品のベッドの上に仰向けになる。
「まぁどうしてもって訳じゃないけど、出来ればってくらいだけど。お前との子供なら、いたらいいなと何となく思う」
壱己は何気なく言うけれど、結構すごいことを言われているような気がする。私は結婚の意思すらつい最近まで固まっていなかったのに、壱己はそこまで考えていたのか。
「な…なんで?」
「何でだろうな。自分でもよくわかんないけど、少なくとも子供作ってお前を繋ぎ止めようとかそういう打算とは違う。どっちかっていうと本能的な欲求って感じがする」
わからないなりに、壱己が正直な気持ちを語っているのは、見ていてわかった。
「いつか、歳とって二人して隠居してさ。子供が家を出た後、お前と二人で『あいつ元気でやってるかな』みたいなこと言い合って、のんびり過ごしたい」
「…そんなことまで考えてたの?」
私は唖然としながら、展示品に寝そべってすっかり寛いでいる壱己を見下ろす。
「うん。俺の理想の老後」
理想というには地味だけれど、なんとなく理解出来る気もした。
この世のどこかに確かに存在している大切な人を想いながら、静かに穏やかに寄り添って、流れる時間を共有する。地味だけれど、そんな晩年を送れるのは、多分、ほんの一握りの幸運な人たちだ。
「…何だろな。もし自分の子供が産まれたら、嫌ってほど可愛がってやりたい。子供ってさ、本来は無条件に大事にされるべき存在じゃん。ちゃんと大事にしてる大人も世の中にいるんだって事を、実証したい…?そういう気持ちも、どっかにある」
もうとっくに後ろ姿も見えなくなっているのに、壱己は未ださっきの家族が居た方に視線を向けている。
ひどく胸が痛んだ。壱己、それは本能なんかじゃない。
自分が求めてやまなかった、だけど決して与えられなかったもの。過去の自分が失くした希望を自分自身の手で取り戻したい。それはどこかに必ずあるのだと、教えてあげたいんだ。あの頃の、幼かった自分に。
「…でも、難しいことだよ。誰にでも出来ることじゃない」
私の母も、父も、壱己の両親にも出来なかったことだ。そうでない人がいると頭ではわかっていても、私はどうしたって、自分が見てきたものを基準にしてしまう。私にとってもそれはずっと手の届かないもので、自分がかつて持ち得なかったものを、自分で獲得して与えることが出来る、私はそんな大層な人間じゃない。
「わかってる。だからお前との子供ならって限定してるんだよ。弱っちいお前が死ぬ気で産んだんだぞ?しかも俺の種だぞ?それなら絶対かわいいと思える。大事に出来る。自信ある。それ以外はいらない」
「…どういう反応すればいいのかわかんない…」
喜怒哀楽では表現できない複雑でむずむずする気持ちを、胸の中で持て余す。その感情の大きさに沈み込んでしまった私の肩を、壱己はむくっと起き上がってポンと叩いた。
「まぁいずれ、あわよくば、ってくらいの話だよ。さすがに気が早いって俺も思うしさ。でもうっかり今すぐ出来てもそれはそれで俺は嬉しいから、覚えといて」
その発言は、この流れで言われるとこわい。打算とは違うと言ってはいても怖い。
「ちゃ…ちゃんとしっかりしてよ⁈」
「わかってる。してる」
ぱらぱら人通りがある中で避妊という露骨な単語も使えず慌てる私を、壱己は笑った。
「な、灯里、あっちのローベッド見に行こ」
立ち上がった壱己に手を引かれ、私は重い腰を上げる。
子供が出来るって、親になるって、どういうことだろう。どんな気持ちなんだろう。
私の手を引いて歩く壱己の背中を見つけながら、そんなことを考える。
あの日と同じバッグの内ポケットには、母の連絡先が書かれたメモが入ったままだ。
母に会いたい。
母が家を出て以来、私がそう思ったことは、ただの一度もなかった。
それなのに、今になって急に、私の中にそういう気持ちが湧いた。
会いたい、と言っても、恋しく思っている訳じゃない。天河さんが父親であるミフネ君に対して、今どうしてるのかが気になる、と言っていたのと同じ気持ちだと思う。
激しい恋が終わりを迎えた後、家に戻ることも許されなかった母は、今どこでどうしているのだろう。
気になる。会えるものなら会いたいと、私もそう思い始めた。
帰宅してから率直に気持ちを伝えると、壱己は「うん」と頷いた。
「…でも、十年以上何の関わりもなかったのに、急に連絡なんてし辛くて…」
「俺から連絡してみようか?」
「う…ううん、あのね。この住所に直接行ってみようかなって思ってるの。会えなくても、どんな暮らしをしてるか家の外観とかで確かめるだけでも…」
私がためらいがちにそう言うと、壱己は眉を寄せて難しい顔をした。
「そうは言っても、まだそこに住んでるって確証はないだろ。東北だぞ。もし引っ越してたら無駄足もいいとこだ。部屋番号があるってことはアパートかマンションだろ。オートロックだったら中にも入れないし、建物を見つけても今もそこに住んでるかどうか確認も出来ない。現地に行くのは今の居住地確認してからの方がいいよ。それには本人と接触するしかない」
「あ…そっか…」
「それに俺達の本来の目的は、ミフネの消息を追う事だ。どうせ会いに行くなら、ちゃんと接触して話を聞いた方がいいと思う」
「そ…そっか。そうだね…」
壱己の言い分はもっともだ。しゅんとしょげた私を、壱己は気の毒そうな眼差しで見つめる。私が手に持っていた母の連絡先が書かれた紙を抜き取って、ノートパソコンを開いた。
「…うん。やっぱりここにはもういないな」
「えっ。何でわかるの?」
「この住所、四年前に飲食店に変わってる。敷地の広さからしてアパートだったんだろうな」
壱己はPCをぱたんと閉じて、ぽんと私の頭を叩いた。
「連絡しにくいのはよくわかる。俺だって同じだよ、自分の母親に連絡したいなんてこれっぽっちも思わねぇ。だから俺から電話入れてみるよ」
母に連絡するのはものすごく憂鬱だった。対人能力が私より数段上の壱己が代わりにしてくれるというのは心底有り難かったけれど、自分の家族の問題を人任せにするのはどうなんだろう、と私は迷う。
「…でも、気が引ける。家の揉めごとに巻き込むみたいで…」
「変な遠慮しなくていいよ。元々ミフネを探そうって言ったのは俺の方だ。俺一人で探したっていいと思ってたくらいだから、お前の母親とコンタクト取るくらい何てことない。それにさ、他人の方が逆に話しやすいって事もあるだろ。親父さんだってそうだったじゃん。あとな、この件に限らず、どんな問題でも俺の事はしっかり巻き込め。お前に関わるなら、どんな内容でも俺にとってそれは他人事じゃない。それにな、お前は決して馬鹿じゃないし事務処理能力は高いけど、問題解決能力はお粗末なもんだ。あれこれ余計な事を考えて遠回りばっかしてるから本来の目的を見失いがちなんだよ。傍で状況把握してないと、永遠にスタート地点をウロついてそうで気が気じゃない」
「え…何で後半急に私の悪口になってるの…?」
最初は優しげなことを言っていたのに何故、と戸惑う私に、壱己はにっと笑ってみせる。
「まぁとにかく、俺に隠し事はするなって事だよ。母親の事も、お前が会いたいっていうなら段取はするから、待ってな」
壱己の仕事は早かった。
翌々日には「連絡取れたぞ」と告げられて、私たちは一週間後の土曜日に、母と会うことになった。




