55.5
帰ってきたついでにいくつか荷物を持ち帰りたい、と壱己が整理を始めたので、ベッドに座ってぼんやりと待っていた。この部屋も私のアパート同様もうすぐ引き払われるのかと思うと、なんとなく感慨深い気がする。
「そういえば壱己のベッドって、うちのよりちょっと大きいよね。セミダブル?」
「うん。学生の時は安さ重視でちっこいの使ってたんだけど、寝る時窮屈なのやっぱ嫌でさ。就職して引っ越した時、買い直したんだよな」
ふぅん、と私は生返事をしてごろんと横たわった。私のベッドとは違う、壱己の部屋の匂いがする。
「ねぇ、新しいベッド買うんじゃなくてこれを運んだら駄目なの?」
「あー…俺も思ったんだけど、調べたらベッドの搬送って結構高いんだよ。二万とかかけてわざわざ使い古し運ぶくらいなら、もっとデカいやつ新しく買った方がよくない?」
「ふぅん…」
寝転がったまま、壱己の部屋をぐるりと眺める。就職して少ししてから、壱己は学生時代に借りていたアパートからここへ引っ越した。前に住んでいたアパートは古くて、数年後に建て替えが予定されていた。いずれ引っ越すなら早目に会社の近くに移ろうと思い、1LDKのこのマンションを選んだ。この部屋には何度も来たことがあるけれど、こうして一つ一つの家財をじっくり見たことは、そういえばあまりなかった。モノトーンのシンプルな家具。必要なものは揃っているけれど、無駄なものは少ない。壱己らしい部屋だ。
「…この部屋に来たことある女の子も、いっぱいいるんだろうね」
不意に頭をもたげた俗っぽい憶測は、心の中の独り言のつもりだった。無意識に声に出していたことに気付いて、はっと慌てて口を引き結ぶ。
何かの機器のケーブルをぐるぐる纏めていた壱己がぴたっと動きを止めて、まんまるに見開いた目をこちらに向けてくる。私は逃げるように壁側に転がって背を向け、さっと毛布を被った。
「…今、何つった?」
「何も言ってない」
「さっきも言ってたよな。元カノがどうこう」
「言ってない。記憶にない」
「なぁ。お前それ、もしかして妬いてんの?」
壱己は膝立ちでベッドに乗り込んできて、私の毛布を引き剥がす。
私は布団を力一杯引っ張って取り返そうと奮闘しながら、内心ひどく戸惑っていた。
妬く?嫉妬って意味?いや、そんな馬鹿な。何で私が壱己相手に嫉妬なんてする必要があるんだ。
でも言われてみれば確かに、今まで全く頭になかった壱己の昔の恋人たちの存在が、気になり始めてはいた。最近になって、急速に。
「なぁ灯里、そうなの?」
「…そんなわけない」
否定する言葉と裏腹に、全身の血が頬へ集まって熱くなるのを感じる。
「すげぇ顔赤くなってるけど」
「そんなことないもん。嘘つき」
「あ。駄目だ。今のでもう勃った」
「だからそういうこと言わないで…!」
思いがけないプレゼントに喜ぶ子供みたいに無邪気に笑って、壱己は私の体に覆い被さる。
「部屋に来た事あるのは灯里だけだよ」
「嘘。絶対嘘」
「本当だよ。数は多くても長続きしなかったの、知ってるだろ。その程度の仲の相手に家は教えない」
「自慢気にしてるけど、元カノ達の立場になったらこのクズって話になるからね。聞かれたら刺されるかもよ?」
目一杯の力を込めて壱己の体を押し返すけれど、やっぱり力では敵わない。
「灯里、今日はこっちで寝て、明日帰るか。もう行ったり来たりも面倒だろ」
「え?うん、まぁ…」
いいよ、と言いかけた私の口を、壱己の唇が塞ぐ。
「寝るって言っても寝かさねぇけど」
「もう。そういうことばっかり…」
「灯里、キスして」
「なんでよ。したければ勝手にすればいいでしょ」
いつもそうしてる癖にと呆れるけれど、すぐにまぁいいかという気持ちにさせられる。壱己は私よりもずっと私の身体に詳しくて、どこをどうすれば大人しくなるか、よく知ってるんだ。
「我慢しないで声出していいよ。どうせもうじき引っ越すんだ。聞かせてやろうぜ」
「絶対出さない」
反抗しながら、私は壱己の頭をそうっと抱え込み、胸の中に引き寄せる。私より固くて短い髪の、尖った毛先が肌をくすぐる。そのうえ声を出さずに笑っているものだから、漏れる吐息も肌にかかって、余計くすぐったい。
私はこの髪の、この肌の手触りしか知らない。他の人は知らない。
「俺はずっと我慢してたよ。本当はこういう時、いつもうっかり言いそうになってた。言いたかった」
「何よ」
「好きだよ、灯里」
「…馬鹿」
ねぇ壱己。馬鹿なのはどっちだろうね。
この手はきっと、何度も他の女の子を抱いたんだろう。それでも結局、私がいいとあなたは言う。私は私で、この歳まで壱己だけ。初めて肌を重ねた日から今日までずっと、他の誰のことも受け入れられないままだった。
本当に馬鹿なのは、どっちなんだろうね。
♢♢♢
どんな夢を見たのか覚えていないほど深く眠り、目を覚ますと壱己の腕の中にいた。
私が身動きをするとその振動に気付いた壱己は、ぐずるように眉間に皺を寄せる。でもまだ瞼を開けずに、私がちゃんと隣にいるか手探りで確かめて、見つけると抱き寄せてぎゅうと抱き締めて、安堵の息を吐く。
壱己がまだ目を開けないから、私は思う存分、寝顔を眺めることが出来る。考えてみれば、こうして壱己の寝顔をまじまじと見るのは、今まであまりないことだった。実家に入り浸っていた頃はよく私の部屋で昼寝をしていたけれど間近で見ていた訳ではなかったし、つい最近まで泊まりは無しと決めていたから、寝顔を存分に見る機会はなかったのだ。
未だ眠りと覚醒の狭間をさ迷うその顔は、いつもより幼く見える。普段の粗野な態度とかけ離れたあどけなさに、ちょっと可愛い、と笑みが溢れてしまう。それをごまかす為に壱己の胸に額を擦り付けると、ようやく壱己は薄く目を開けた。
「…灯里、おはよ…」
「おはよう。ごめんね、起こしちゃった?」
「んー…や…なんか、さむい…」
壱己はぼんやりした声で唸って、布団を引っ張り上げ顎の先までしっかり被る。壱己より下の位置にいる私は完全に布団に潜ってしまって、ちょっと息苦しい。
「私、先に起きるね」
「…やだ。まだ駄目」
体を起こそうとしたのを止められたかと思うと、今度は壱己がもぞもぞ下がってきて、私の胸に顔面を埋める。昨夜私は寝間着がなくて、壱己のスウェットを借りていた。ズボンはウエストが大き過ぎて使い物にならなくて、でもトップスだけでも丈が長くてミニワンピース程度に太腿まで隠れたから、充分かなと思ってた。でもやっぱり充分じゃなかった。ワンピースはガード力が低い。壱己は裾から手を突っ込んできて、太腿の内側に手のひらを滑らせてくる。
「起きる前に一回だけ、しよ」
壱己が服の上から胸の膨らみをぱくりと食べる仕草をした。厚手のスウェットの編地の隙間から、壱己の呼吸のあたたかさがじわりと伝わってくる。
「駄目。昨日散々したでしょ。それに壱己は絶対一回じゃ終わらないもん」
「ケチ」
「子供みたいなこと言わないで。出掛ける時間遅くなっちゃうよ」
「子供はこんなことしないだろ。…なぁ灯里」
「…ん…」
「濡れてきた」
「………」
私が抗えなくなるやり方を、壱己はちゃんと知っている。下着を押しのけて私の中に侵入してくる壱己の指が、駄目だと拒む私の言葉を上辺だけのものに変えていく。
「灯里。いい?」
「……一回だけだよ」
「うん。一回だけな」
壱己は私の強がりを見透かしたように、喉の奥で小さく笑った。




