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 帰宅してすぐに、疲れたと床に座り込んでしまった私を見て「明日は息抜きをしよう」と壱己が言った。

 「ベッド買いに行くんじゃないの?」

 「行くけど、その後さ。お前の好きなとこ行って好きな事しよう。色々考えることあって、疲れてるんだろ」

 「その考え事の中には壱己が引っ越しだの結婚だの勝手に進めようとしてる件も含まれてるんだけど」

 「そうか。じゃあ尚更、責任取って気晴らしさせてやらなきゃな」

 壱己は私の背後に被さるように座ると、両腕をお腹に回して肩に顎を乗せた。

 「何したい?」

 「頭空っぽにしてひたすら寝たい」

 「不精者」

 でもそれもいいなと笑いながら、壱己は私のコートを脱がせる。そういえば着たままだった。

 「休日にお前と一日中ベッドの中でダラダラするの、やってみたかったんだよな」

 コートを放り出すと、今度はニットの中に手を突っ込んでくる。着替えさせてくれるんだと有り難く思ったのは、ほんの束の間。何だ、脱がすだけで、着替えさせてくれる訳じゃないんだ。

 外から帰ってきたばかりの壱己の手はひんやりと冷たい。素肌に触れた途端、肌がひゅっと縮み上がった。

 「ちょっと」

 私が文句を言おうとすると、壱己は悪びれもせず笑ったままごめんと言って、首筋に唇を当てた。

 「大丈夫だよ、灯里。お前はただ自分がどうしたいか決めるだけでいい。後は全部俺に任せて、安心して俺の横で寝てりゃいい」

 壱己の声が、耳のすぐ傍で響く。なだめるように頭を撫でられ、ほどけるような安心感と滲むような気恥ずかしさを同時に感じた。近頃の壱己はおかしい。全力で私を甘やかそうとしてくる。

 「…ねぇ。私と壱己って、今、どういう状態なの?」

 「どういう質問だ、それ」

 「その、付き合ってるとか、彼氏とか彼女とか、そういう…」

 父に向かって結婚を前提にとかなんだか口上を垂れていた気もするけれど、面と向かって確認したことがない。今更だけど聞いてみたくなった。聞いてから、何で自分のことなのに壱己に確認するのだろうと情けない気持ちになった。それによく考えてみれば、好きだとも結婚してとも結婚を前提に付き合ってとも言われている。でも私はそのどれに対しても、ちゃんと返事をしていない。

 「あぁ、まぁ言ってみれば婚約者ってとこだよな。近い内に結婚するしな」

 「婚約者…」

 なかなかインパクトのある単語だ。まさか自分が使うことになるとは思わなかった。

 「…あのね。もし万が一、私と壱己が、本当に結婚したとしたら」

 「もしでも万が一でもねぇけど。確実にするけど、何」

 「浮気とかする?」

 私の質問に壱己は目を丸くした。すぐに眉間に深い皺を寄せて、お腹の中の空気を全部出し切るような、重い溜息を吐いた。

 「すると思うか?俺が何年お前を追っかけてきたと思ってんだ」

 「…だって、気持ちは変わるでしょう」

 私の両親も、壱己の両親だって、最初は好き合って結婚したはずだ。それでも他の人を好きになって、傷付けては捨てていく。世の中はそんな話で溢れている。

 どういう経緯かは知らないけれど、母は父だけではなく、家族を捨ててまで求めた人ともほんの短い期間で別れた。そんなものだ。人の気持ちなんて、そんなものなのだ。好き合って結婚する、それは建造物で例えれば完成したばかりの状態。出来上がった時が頂点で最も美しく、そのあとは傷んで、壊れていくしかない。人の気持ちだって同じようなものだ。

 「気持ちは変わる、ね」

 私がそう言うと、壱己はどうしてか傷ついたような顔をする。

 「…俺だってそう思ったよ。変えられると思った。でも、変わらなかったんだ。言っただろ。俺はお前じゃなきゃ駄目なんだ。ずっと大事にしたくて優しくしたくて甘やかしたくて、でも俺にはその権利がなかった。やっとそれを手に入れたんだ。何でみすみす台無しにするような真似しなきゃなんねぇんだよ…」

 しねぇよ浮気なんか、と壱己はぶつぶつ言っている。怒ったふうに見える壱己の顔を見ていたら、何故だか胸のモヤモヤが膨らんでいった。優しくするとか浮気しないとか、私にいいことしか言っていないのに、何でなんだろう。何が不服なんだろう。自分でもわからなかった。

 「…だって壱己、今までだって彼女いっぱいいたじゃない」

 自分の頭の中にあると思っていなかった言葉が、無意識に私の口から飛び出す。お腹に巻き付いた壱己の腕が、わかりやすくぎくりと跳ねた。

 「いや、それは、だから…」

 「一途っぽいこと言うけど、実際数えきれないくらい、他に付き合ってた子がいたじゃない」

 「そ…そうだけど、それは…」

 弁解しようとする壱己を、私は遮った。


 「やっぱり私、結婚なんてしない。出来ない」


 胸のモヤモヤは涙に姿を変えて、ぼろぼろっと両目から零れ落ちた。壱己は目を見開いて、息を呑む。私は私で、自分でもびっくりした。何で私は泣いてるんだろう。

 「な…何だよ、何で急にそんな事…」

 両手に降りかかった雫に驚いて、壱己は慌てて私の体を反転させて向き合う。両肩をぐっと掴まれる。

 わかっている。こんなのは八つ当たり。

 母だ。

 私が責めたいのはこの人じゃない。壱己ではなく、母だ。

 あんなに毎日彼のことを夢に見て、文字通り夢中になっていて。恋愛をして結婚をして何年も夫婦として一緒に生活してきた父も、お腹を痛めて産んだ娘も、何の足枷にもならなかった。それほど激しい恋心でさえ、ほんの数ヶ月で消えてなくなるのだ。

 壱己がそうならないだなんて、一体誰が断言出来るというのだろう。

 「…私と結婚したって、上手くいかないことがあったら目移りするかもしれない。私はなんだかんだ言って、壱己以外の人とは触れ合うどころかまともに関係を築くことすら出来なかった。でも壱己は違う。私よりいい子をいくらでも選べる。私が本気で壱己に全部預けて頼って甘えて、その後に放り出されたら、私はどうしたらいいの?私には他に何も寄るがないの。誰もいないの。だったら最初から無い方がいい。何にも、誰もいない方がいい」

 一気にそうまくし立てた。八つ当たりだとわかっているのに、私の口は止まらなかった。

 壱己は眉間に皺を寄せたまま、私をじっと見ている。壱己がそうやって真っ直ぐに私を見つめているから、私は顔を上げられない。でも今目を合わせられない理由は、夢が見えてしまうから、ではないかもしれない。


 「……わかった。お前がそこまで言うなら…」


 壱己は不意に手を離し、立ち上がる。

 行ってしまうんだ。そう思うと、内臓をぎゅっと絞られるような胸苦しさに襲われた。身勝手な痛みだ。突き放すようなことを言ったのは私の方なのに。

 でも、違った。

 壱己は私の腕を掴んで、ぐっと引っ張って立たせた。さっき脱がせたコートを拾って強引に私の腕を袖に通し、そのまま部屋を出る。

 「行くぞ」

 「え?ど…どこに?」

 「俺の家」

 「何で?」

 「いいから一緒に来て」

 強引に私を連れて部屋を出ると、壱己は少しの時間も惜しいとばかりにタクシーを捕まえて、自分の家の住所を告げた。車内では黙り込んで一言も発さず、私も何も訊けなかった。私たちは二人して、重い沈黙の中に沈んでいた。


 しばらく家を空けていたせいか、壱己の部屋の空気もどことなく澱んでいる。すぐに壱己は部屋の奥のキャビネットを漁って、中から出したものを次々にポイポイと、私の方に放り投げてきた。私は慌ててそれらを避けて、拾おうとして、ぎょっとする。通帳が数冊と印鑑、パスポート。貴重品ばかりだ。

 「あと何かあるか。免許証とクレジットカードとキャッシュカードとマイナンバーカードとかか」

 壱己はポケットのカードケースから引き抜いて、床に膝をついた私に向けて同じように放り投げてくる。数枚のカードがフローリングの上にばらっと広がった。

 「それ、全部お前が持ってて」

 「えっ?…なん…なんで…」

 「俺の全財産と身分証全部。給与振込口座、投資用口座の通帳、実印。全部持ってて」

 「な…何言ってるの?手元にないと壱己が困るじゃない」

 「だからだよ。好きに使っていいけど、最低限、飯食えるくらいの小遣いはよこせよ。あぁ、あと保険の証券もか。受取人お前に変更しとかないとな」

 壱己は再びキャビネットを開けてごそごそ漁り始める。私は唖然としながらも、慌てて床に散らばったものを一ヶ所に拾い集める。

 「ば…馬鹿なこと言わないで。こんなことしちゃ駄目だよ。簡単に人に渡したら駄目。悪用されたらどうするの?」

 「お前はそんなことしない」

 壱己は妙にきっぱりとそう言って、私の前にしゃがみ込み、保険証券を鼻先に突きつける。

 「お前はそんなことしないし、俺もお前を裏切ることはしない。口で言っても信用出来ないなら、物理で保証するしかないだろ。それだけお前に押さえられてりゃ、俺はそうそう勝手なこと出来ない。浮気だの遊んだりだの、しようにも動き取れないだろ。お前も安心出来るんじゃないの」

 「……馬鹿じゃないの……」

 私は心からそう思った。この人、何でこんなに馬鹿なんだろう。

 「馬鹿だろ。俺は本気でお前が傍にいればそれだけでいいと思ってるんだ。他に何もいらない。金でも身分でも体でも何でも、俺の持ってるもの全部、喜んでお前に渡すよ。だからお前もこの先の人生ずっと俺の隣にいるって、約束して」

 いつまでも受け取られない紙切れをぽいと投げ出して、壱己はぎゅうと私を抱き締めた。

 「他に誰もいないのは、俺の方なんだよ」

 そう乞う壱己の声は、こっちの方が泣きたくなるほど切実だった。

 私はその背中に手を回し、そうっと撫でる。

 「…うん。ごめんね壱己。ありがとう」

 私はやんわりと壱己の腕をほどいて抜け出し、通帳を壱己に返す。

 「でもこれは全部いらない。大事な物だから雑に扱っちゃ駄目だよ。ちゃんと自分で保管して。長い期間家を空けるなら放置しないで、うちでも貸金庫でも、安全な場所で管理しなきゃ」

 「…うん。わかった」

 壱己は一転して叱られた子供みたいな顔をして、散らばった貴重品を片付けた。

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