52
私は急いで階下へ下りて、父がキッチンに入ろうとするのを阻止した。
「お茶なら私が淹れるから、二人共座ってて」
父のことは、壱己に押し付けよう。そう決めてキッチンへ逃げた。だって壱己が勝手に誘いを受けたんだから。俺が対応するって言ったんだから。
四人掛けのダイニングテーブルで向き合った父と壱己は、一方は所在なさげに視線を泳がせ、もう一方は安定の笑顔を浮かべている。どうして壱己はああも神経が太いのか。ちょっと羨ましくさえある。
電気ケトルは比較的新しいものに替わっていたけれど、食器や調味料の配置は私が住んでいた頃とほとんど変わりなかった。戸棚を開けると、見覚えのある茶筒が出てくる。もう十年以上使っていると思うんだけど、これ、中身はちゃんと新しいものなんだろうか。匂いを嗅いでみる限りは問題無さそうだけれど。
「改めてご挨拶させて頂きます。芦屋壱己と申します。灯里さんとは中学から大学まで同級生で、偶然ですが、今も同じ職場に勤めています」
ダイニングでの会話に、私は耳をそばだてる。壱己は流暢に口上を述べて、頭を下げていた。本当に外面がいいなと私は呆れる。しれっと偶然などと言っているが、敢えて同じ職場を選んだことを私は既に知っている。
「中学からずっと?…あぁ…」
「はい。その内御挨拶に伺わなければと思っていたんですが、こんな形でお会いする事になってしまって本当に申し訳ありません」
「御挨拶?というのは…」
含みのある壱己の言葉に、嫌な予感がした。父の声色にも微妙な戸惑いの色が混ざる。
「はい。灯里さんとは結婚を前提に交際をさせて頂いてます」
がしゃん、と私は手に持っていた茶筒を取り落とす。あぁ、やっぱり──絶対言うと思った。
「あ、灯里、大丈夫か」
「怪我ない?」
「だ…大丈夫…」
茶筒の蓋を閉めた後で良かった。開いていたら怪我はなくとも大惨事だ。父がこちらを向き、壱己も椅子の背に手を掛けて腰を浮かせる。
「……結婚……」
父は独り言みたいにぼんやり呟いて、しばらくの間黙った。
「はい。僕らは長らく友人としての付き合いでした。僕はずっと灯里さんの事が好きでしたが、中々彼女に気持ちを伝える事が出来ず…恋人としてお付き合いを始める事になったのは、ごく最近なんです。ですが僕は真剣で。準備が整い次第、きちんとした形で彼女と家庭を持ちたいと思っています」
壱己の言うことに嘘はない。
嘘ではないが、都合の悪い部分を大幅に省いている。何だか小綺麗な純愛みたいに聞こえるけど、私たち、そんないいものじゃなかったよね?かと言って父を相手に正直に今までの経緯を話されるのも困るから、私は何も言えない。
それに結婚のことだって何も今話さなくてもいいじゃないか。こういうものはまず私と相談してから親に報告する時を決めるのが正しい順序じゃないのか。突然過ぎるし早過ぎるしそもそもまだ私自身が本当にそうなるの?と疑っている、覚悟も決まっていないこの段階で──…
「…芦屋君、君は──昔、うちによく来ていた子だよな」
「えっ⁈」
今度は湯呑みを取り落としそうになって、私は慌てて手に力を入れ直した。
「…気付いてたの⁈」
さっきの語尾についていた「中学からずっと?あぁ…」と、妙に納得したような声はそれか。『あぁ…あの頃勝手にうちに入り浸っていたあいつか』の略だったのか。
もうお茶なんて後でいい。急いでキッチンから出て、壱己の隣に座る。青ざめる私を見て、父はさらに居心地悪そうに腕をもぞもぞ摩り始めた。
「そりゃまぁ…結構頻繁に来てただろう。近所の人から教えられたりもしたし…仕事がたまたま早く終わって帰ったら男の子が来てる様子だったから、こっそりそのまま外出したり仕事場に戻ったりして時間潰してた事も何度かあるよ」
「そんなことしてたの?な、何で何も言わなかったの」
父が壱己の存在に気付いているかもしれないなんて、今まで一度も疑ったこともなかった。
だって父は本当に何も言わなかった。思春期の娘の部屋に我が物顔で入り浸る異性がいるだなんて、気付いていたら父親としては苦言の一つも呈したくなる事態ではないんだろうか。家に来るのを制限されたっておかしくない。何も言わないどころか、自分の家に帰るのを遠慮してまで壱己を居座らせていただなんて。
「何でって…何か言う権利なんて、僕には無いだろう」
「あるに決まってるでしょう…」
眉間に皺を寄せた父の心情は、よくわからなかった。権利がない訳ない。この家は名実ともに父の所有物なのだ。
「──はい。その頃よくお邪魔していたのは、間違いなく僕です」
私たち父娘の微妙に噛み合わない会話に、壱己が割って入った。
壱己はにこやかな笑みを引っ込めて、真顔で深く頭を下げる。
「無断で頻繁に出入りしていた事、今更ですがお詫びします。若かったとはいえ礼儀を欠いた行為です。申し訳ありませんでした。ただ当時の僕達は異性とはいえ純粋に友人同士で、疾しい行為は一切…」
壱己の真剣な態度に、父は慌てたように顔の前でひらひらと手を振った。
「あ、いや、そういうつもりじゃない。責めるつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、随分長いあいだ灯里の事を見ていてくれたんだなと思って…」
少し、感心していたんだ。と、父はぼそりと付け足した。
驚いたような拍子抜けしたような様子で、壱己は目を丸くした。でもすぐに視線を落として、少し迷った後、躊躇いがちに口を開く。
「…いずれお話しする事になるかもしれないので、今聞いて頂けますか。当時、僕の家庭環境は劣悪でした。正直にお伝えするのも憚られますが、僕の父親は…もう十年以上前に他界しましたが、妻子を暴力で支配する人間でした。僕にとって自宅で過ごす事は苦痛でしかなく、それを知っていた灯里さんは、逃げ場を与えてくれていたんです」
私は少し、驚いていた。いつもみたいに上っ面の愛想の良さで取り繕って、言葉巧みに丸め込んで結婚の承諾を取り付けるつもりだろうと、そんなふうに思っていた。でも壱己は今、真正面から正直に、父との対話を試みている。
「あの頃彼女が──この家が僕を庇護してくれたおかげで、僕は未熟とはいえ、道を違えず大人になる事が出来ました。感謝しています」
壱己は改めて、深い礼をする。いつも、人を食ったような態度でふざけてばかりいるのに。まるで別人を見ているみたいだった。
「……そうか」
父は眉間の皺をいっそう深くして、「そうか」ともう一度呟いた。
口を一文字に引き結び、しばらくの間考え込んでいた。何と答えればいいのか、悩んでいるのだと思う。
「…一度だけ、君と灯里が一緒にいるところを見た事がある」
えっと私は短く息を呑んだ。
「いつ…?」
思わず疑問を口にすると、父は気まずそうにちらりと私を見て「お前が中二か中三くらいの時だったと思う」と小さな声で答えた。
「朝、通勤途中で忘れ物に気付いて家に取りに戻ったんだ。そうしたら、玄関先でお前が男の子と話をしてた。近所で事件があったとかで随分焦ってて、犯人がまだ近くにいるかもしれないから一人で出歩くなとか何とか…とにかくお前を心配してる様子で、お前は、もう捕まったんだよって言って笑ってた。その時のお前…君達が、何て言うかな…ただ、善いものに見えた」
「いいものって何」
私は無遠慮に、間髪入れず突っ込んでしまう。
私も人のことは言えないが、父も立派な口下手だ。傍目からわかるほど悩んで、時間をかけて言葉を選んでいるのに、受け取る側にあまり真意は伝わらない。
「いや、何かまぁ…よくわからないけどいい関係なんだろうなって思ったんだよ。恋人とかそういう関係には全然見えなかったしな。親戚だとか、近所の面倒見のいいお兄さんみたいというか、大きな野良犬が小さな野良猫の世話焼いて仲良くしてるみたいな、そういう…」
「野良犬?野良猫?」
「…とにかく、大人が無闇に引き離さなきゃならないような悪い関係じゃないんだろうなって思ったんだよ。だから近所の人にうちによく出入りしてる男の子がいるって聞いた時も、あぁあの子かって思ったくらいで、別にそれだけだった」
父はそれ以上の追求を避けるように、ふいと私から視線を外して壱己に向き直る。
「…君も聞いてるとは思うが、うちはうちで、ひどく不自然な家庭だった。僕は元々仕事するしか能がない人間だったが、灯里が小学生の頃に妻が家を出て以来、ますます家を空けるようになった。この子はその歳で、ほとんど一人で生活していたようなものだ。本来なら僕が家にいる時間を増やさなきゃいけない状況で、親としてあるまじき行動を取っていた。辛い思いをさせている自覚はあったよ。けど他にどうすればいいのかわからなかった。情けない話だけどな。そうしている内にますます合わせる顔がなくなっていった。それでも灯里は文句の一つも言わなかった。淡々と学業に打ち込み、黙々と家事をこなした。僕の分の晩飯まで毎日きっちり作り置いてくれたんだ。それを一緒に食べる事なんて、ほとんどなかったのに。…正直に言えば、君達の関係について口を出さなかったのは灯里への罪悪感もあった。自分は何も与えてやらない癖に、娘が自分で築いた誰かとの関係まで奪うのは、あんまりだと思った。口を出さないんじゃない。出せなかったんだ」
父はふっと口元に微かな笑みを浮かべた。
「けどまぁ…その子と結婚か。結果的には、それでよかったんだな」
父が笑ったのを見たのは、何年振りだったろう
「今日、会えて良かったよ。こうしてちゃんと挨拶してくれてありがとう。真面目に生きてるとたまにはいい事もあるもんだな。まぁ、何だ。婚姻届とか新居の購入の手続きで保証人が必要になるなら、遠慮なく言ってくれ。仕事柄、不動産購入の相談にも多少は乗れる」
呆れるほど情緒のない現実的な言葉で締め括ると、父は自分でお茶を淹れに席を立った。




