51
その週の土曜日、壱己と二人で私の実家に向かった。
父に会って母親の話を聞くためではない。それにはもう少し心の準備が必要だった。
今回の目的は、父親不在の実家を訪れ家探しをすることだ。提案したのは壱己だった。
「母親の私物とか実家に残ってないの?」
「残ってるかもしれない。私が実家出た後に父が片付けてなければ…」
まだ私が実家にいた頃は、母の私室は時々軽く掃除する程度で、ほとんど手付かずで放置していた。母は必要最低限の物だけ持って家を出たようだったから、私物もほとんど残されていた記憶がある。
「何か手掛かりになるような物ないかな。灯里、実家の鍵はまだ持ってるんだよな?」
「うん。最近はもう全然行ってないけど、何年か前までは置きっぱなしの荷物取りに時々行ってたし」
「週末にでもちょこっと見に行ってみるか?本格的に探すのはまた後日でもいいけど、とりあえずそのままになってるかどうかだけでも確認しときたくない?」
私たちの地元へ行くには、快速電車を使えば一時間ちょっとだ。スケジュール的にも容易に行けるし、疎遠な父親に連絡するよりはこっそり様子を見に行った方が気が楽だ。父親はまだ現役で働いているし、昔から土日は不在だった。週末なら鉢合わせずに済む筈だ。壱己もそれをわかっていて提案しているんだろう。
「…うん。そうだね。行ってみようかな」
「車出すか?」
壱己は車は持っていないが、カーシェアに登録していて時々利用しているらしい。何度か手配して乗せてもらったことがある。
「ううん。わざわざ借りなくても電車で充分…って、壱己も行くの?」
「当たり前だろ」
「当たり前なの?」
一人でこっそり行って確認だけしてさっと帰るつもりだったのだけど。
「せっかくの休日に一人でお留守番なんて俺が可哀想だろ」
「遊んでくれる友達いないの?」
「少なくともお前よりはいるな。でも今はオトモダチより重要な案件があるからさ」
そんな軽口を叩きながら、ほとんど空き巣に近い、隠密の帰省を決めた。
電車の窓の外、流れゆく景色が少しずつ変わり、懐かしい場所に近付いていく。懐かしいといっても慕情は沸かない。むしろ憂鬱な気持ちが強まってきて、私はひっそりと溜息を吐く。
地元にはいい思い出があまりない。出来ることなら近寄らずに生きていきたいと思っているのを壱己も知っているから、一緒に行くと言っているんだと思う。少しでも私の気が楽になるように、と。
実際、壱己がいてくれた方が気が紛れるし、心強い。でも壱己は私以上に、思い出したくないことがある筈だ。目を背けたくなるような記憶が、沢山ある筈だ。
それでも一緒に行ってみようかとさらりと言える壱己は、本当に大人になったのだと思う。たくさんのことを、ひとつひとつ乗り越えてきたんだと思う。私がいなくとも、ちゃんと一人で。
こてんと壱己の肩にこめかみをぶつけて、もたれる。壱己は何かの調べ物をしていたタブレットから目を離して、私の肩に手を回す。重さと逞しさを備えた腕。いつもは子供みたいなことばかり言うし、するけど、本当はすごく強い、大人の男なんだ。大丈夫、というようにぽんぽんと頭を叩いたその大きな手に、ひどく安心した。
実家の最寄駅のホームに降り立つ。見慣れた駅名標は記憶にあるよりずっと傷んでいた。錆色の汚れがまた私の胸に影を落とす。やっぱり行くのをやめようか。
往生際の悪い私の逡巡に気付いた壱己が、ひょいと手を取る。私の手をぎゅっと握って、そのまま目的地へと先導して連れて行く。
数年ぶりに訪れた実家は、燻るような寂寥感を纏っていた。小さな門扉の取手は持ち上げただけで軋んで、キィと悲しげに鳴いた。なんだか衰えたね、と、私は心の中で声を掛ける。
鍵を差し込んでガチャリと回す。玄関も廊下も荒れてはいないし不衛生でもない。でも、どことなく物悲しい、見放されたような気配があった。
「お邪魔します」
壱己が律儀にそう言った。あの頃の壱己がその挨拶を口にしたのは、最初の数回だけだったのに。
でも、気持ちはわかる。
私も思わず同じ台詞を口にしそうになった。ただいま、と言う気にならない。昔、私たちが秘密基地みたいに使っていた家とは、まるで別物のように感じた。
私たちは真っ直ぐに二階に上がった。
階段を上がってすぐ正面にあるのが父の部屋。その奥が母の部屋で、そのさらに奥が私の部屋だ。
まずは私の部屋に行く。埃っぽかったけれど、その代わりに勝手に物をいじられた様子もなかった。
私はクローゼットを開けて、踏み台無しでは届かない高い棚の上にある小振りな段ボールを指差した。
「あの中に入ってるはず。壱己、届く?」
「うん」
壱己は腕を伸ばして、難なくそれを取った。昔使った参考書や卒業アルバムなどが雑然と詰まった小さな箱の底には、一際古いアルバムが仕舞われている。色褪せた背表紙には、栃木の県立高校の名が記されていた。
「昔、母の実家に行った時にこっそり持って来ちゃった。母とミフネ君が載ってる高校の卒業アルバム」
当時の私が何でそうしたのかはわからない。見たくもないと思っていた二人の繋がりなのに、どうしてか私は、それを手元に置いておきたい欲求にかられた。そして母の目を盗み、そっと鞄の中に忍ばせた。
「見ていい?」
言った先から、壱己がページを捲り始める。
「ミフネ君、何組?」
「何だったかな…後ろの方だった気がする」
「灯里の母親と同じクラスだよな。旧姓…」
数ページ目で、壱己はふと手を止め口を噤んだ。その理由は、私にもすぐにわかった。
ガチャっと、玄関の鍵が開く音。ぱたんとドアが閉まる音。
続いて足音が聞こえた。階段を上る足音だ。
さっと血の気が引いていく。壱己が素早くアルバムを閉じて、箱の中に戻した。
ほとんど同時に、コンコン、とノックの音が二回、部屋に響いた。
誰かなんて推察する余地もない。この家に住むのは一人だけ。入れるのも一人だけ。
父だ。
「…灯里か?」
くぐもった低い声が、ドアの向こうから聞こえる。私は慌てて「うん、そう」と返事した。
こんな時間に帰って来るとは思わなかった。連絡し辛くても、ちゃんと確認してから来れば良かった。
私だけならともかく、壱己もいる。まさかクローゼットやバルコニーに押し込んで隠す訳にもいかない。そもそも靴が玄関に置いてあるのを見ただろうし、話し声も聞こえたかもしれない。
どうしよう、と混乱していると、横から壱己が耳打ちしてくる。
「大丈夫。俺が対応するから、灯里は普通にしてて」
壱己に促され、私は立ち上がった。普通にと言われても、いつもどんな顔で、どんなふうに話してたっけ。
おそるおそる、俯きながら細くドアを開ける。部屋着の首元が目に入った。
「えっと…勝手に入って…帰って来てごめん」
「いや、それは構わないけど…」
買い物に出て帰って来たら、靴がある。なんとなく話し声も聞こえたし。別にいいけど、急に帰ってきたから驚いただけだと、父はぼそぼそ、戸惑いを露に呟いた。
なんというぎこちなさだろう。我ながら血の繋がった父娘の会話とは思えない。
「あの、実は今日、お客さん連れて来てて」
「客?そういえば靴があったな」
「うん、あの、お客さんというか連れというか…」
「断りもなくお邪魔して申し訳ありません」
背後からぬっと腕を伸ばした壱己が、ドアを大きく開けた。仕事相手にするような丁寧なお辞儀をして、壱己は真っ直ぐに父と向かい合った。
「初めて御挨拶させて頂きます。芦屋と申します。灯里さんの中学時代の同級生で、今は同じ会社に勤めています。今日は僕が灯里さんにお願いした用事があって、お邪魔させて頂きました。失礼とは思ったのですが、急を要するものだったので」
申し訳ありません、と壱己はもう一度頭を下げた。
疎遠な娘の部屋から突然現れた見知らぬ男に、父は面食らっているようだった。あぁ、いや、などと曖昧な返事をしながら、壱己を見上げる。男性の平均身長に少し足りない小柄な父からしたら、背が高くしっかりした体付きで、おまけに顔面の出来がいい壱己のことは、威圧的に感じるのかもしれない。
数年ぶりに会った父は、やっぱり記憶よりだいぶ老け込んでいた。白髪が増えたし少し痩せた。でも、顔色はそう悪くない。私は少しほっとした。それから、自分がそういう気持ちを父に対して抱いたこと自体にも安堵した。元気そうでよかったと素直に思えるくらいには、父に対して家族の情を持っていたんだ。
「…その…用事ってなんだ」
父は壱己から逃れるように私に目を向ける。
私は父から受け取った視線を、そのまま壱己にバトンのように渡す。
私の方が聞きたい。用事ってなんだ、何て説明すればいいんだと、目線で助けを求める。俺が対応するとか言っていたけど、何か策があるの?
「僕が中学時代の同窓会の幹事を任される事になったんです。でも卒業アルバムを紛失してしまって、名簿の作成で困ってしまって。同じ会社にいる元同級生の灯里さんを頼ったところ実家に保管してあるとの事だったので、お借りする為にお邪魔させて頂きました」
淀みなく説明する壱己の手には、いつのまにか私たちの卒業アルバムが収まっていた。
同級生。私も以前言い訳の材料に使ったことがあるけれど、たった漢字三文字のこの関係がこんなに便利だとは思わなかった。
「そ、そうか。いや、別に詮索してる訳じゃないんだ。ただ何か手伝えることがあるならと思って聞いただけで…」
辿々しく弁解する父の姿は、何となく私との血縁を感じさせる。私も父も不測の事態に対応するのが苦手なのだ、壱己と違って。
気まずい沈黙が私と父の間に流れる。壱己だけが、堂々とした外向けの笑顔を貼り付けていた。
「…ええと…用事はもう済んだんだな?」
「あ、うん。すぐ帰る…」
言いかけた私を、父が躊躇いがちに遮った。
「……もし時間があるなら、お茶でも飲んで行かないか。灯里も久しぶりなんだし…その、芦屋君?も、よかったら一緒に」
「えっ」
思わず私は間の抜けた驚きの声を上げてしまった。だって帰ろうとする私を父が引き留めたのなんて、初めてだったのだ。
何て断れば角が立たないだろうと考えを巡らせている私を押しのけて、壱己がぐいと前に出る。
「ありがとうございます。是非、お言葉に甘えて」
私は唖然として壱己を見上げた。
何を勝手な真似を。父と私が和気藹々とお茶するような仲ではないと、知っている癖に。
「そうか。じゃあ用意するから、リビングに来るといい」
父はそそくさと階段を下りていった。
その後ろ姿が見えなくなったのを確認して、私はぐいっと壱己の腕を引っ張る。
「何考えてるの」
「俺にとっては未来の舅だぞ。無碍な扱いは出来ないだろ」
父に向けていた外面を綺麗に取り去って、壱己はにっと含みのある笑みを浮かべた。
「お誘いは謹んで受けようぜ」
「…馬鹿じゃないの」
深く重い溜息を吐いた私の腰を、壱己が慰めるようにふわりと抱いた。
この溜息は、誰の。誰のせいだと思っているんだろう。




