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私の母とミフネ君について調べるとしたら、具体的にどんな方法があるだろう。少し考えてみたけれど、それほど手段は多くない。
「まずは家を出た後の母親について、何か知ってることがないか親父さんに聞いてみるとかだよな」
「そうだよね…」
壱己に相談してみても、やっぱり答えは私が考えていたものと同じ。
父親とは実家を出て以来、数える程しか会っていない。それも保証人のサインが要るとか必要に迫られた時だけで、用件が済めばさっさと帰るようにしていた。気安く雑談するような仲ではないし、ましてや母親の話なんて、暗黙の了解で禁句みたいな扱いだった。
「母親のこと考えるのも嫌だとか、そこまで気にしてる訳じゃないの。でも父はそのくらい触れられたくないって思ってるかもしれないから、話題にするのは抵抗あって…」
「まぁそうだよな。親父さんからしたら自分を裏切って逃げた女だもんな。恨んでたっておかしくないよな」
何気なくそう言う壱己に、私は内心うっと心を痛める。壱己がそういうつもりで言ったんじゃないのはわかっているけど、私自身もまた、壱己を『裏切って逃げた女』だったから。
「母方の実家は?どこにあるの?昔は結構交流あったの?」
「栃木。そこそこ距離あるし、母も両親と凄く仲がいいっていう訳じゃなかったから、元々そこまで頻繁に行き来はしてなかったの。小学校入学してすぐの頃と四年生の時に会いに行ったのは覚えてる。それも四年生の時は私が行きたいって言って行った感じ」
「栃木か。近くはないけど一日あれば日帰りで行ける距離だな。高校の同級生なら、地元に何か知ってる奴いないかな」
壱己がそう言うのを聞いて、ふと思い出した。
「そういえば、夢で会った時に聞いたの。天河さんは瀬戸内の小さな島で育ったって。そこに祖父母とご両親と五人で住んでたって言ってたから、何となくミフネ君もそこが地元だと思ってたんだけど…」
「瀬戸内?栃木が地元じゃないのか」
「うん。でも詳しいことはわからない。引っ越しがあったとか、奥さんの方の実家なのかもしれないし」
「そうだな。もしミフネを探すんなら、あいつからももっと情報引っ張り出さないと難しいな」
「…それも気が重いよ」
天河さんに対しては、言葉では言い尽くせない複雑な感情がある。どこからどこまで記憶を見られていたのかわからない羞恥心や、感情の記憶を操作されていたことに対する憤り。私よりずっと強い力。その全てに、畏怖が付き纏う。
優しくされたこともあったのに、彼と過ごす時間を楽しいと感じたこともあったのに。それが全て操作された偽りの感情だったかもしれないと思うと、その時に感じた気持ちが行き場を失くして、いっそう私を混乱させる材料になった。率直に言って、今あの人に会うのは憂鬱だ。
「…天河さんと会う時、壱己は本当に一緒に来てくれるの?」
「当たり前だろ。来るなって言われても行く。お前をあいつに会わせたくないし、何なら俺一人で話つけたっていい」
「面倒じゃない?」
「面倒だよ。あいつ話は噛み合わねぇし空気読まないし、道徳心なんてあってないようなもんだろ。ほとんどサイコパスじゃん、面倒極まりねぇよ」
壱己は私の髪を手櫛で梳きながら「けどお前と二人にするよりはマシ」と深い溜息を吐く。
「お前をあいつに会わせたくない。お前とあいつは、俺には見えない、わからないもので繋がってる。気付かない内にお前を掻っ攫われそうで、俺はそれが怖い。ダサいと思うかもしれないけど、それが正直な気持ちだよ」
ふぅん、そういうものか。と、私は曖昧に首を傾げる。
同じ夢見の力を持つ者同士と言っても、私はただ一定の条件下で『見える』だけ。自分の夢を思うまま操ったり誰かの夢の欠片を繋げ直して記憶を復元したり、ましてや感情記憶を操作するなんて真似は到底不可能だ。能力差が大き過ぎて、あの人に対する仲間意識は芽生えない。まるで異質で、未知のものに思える。ちっぽけな私なんて押し潰されるか乗っ取られるんじゃないかというような、恐怖心がある。
だから壱己が一緒にいてくれるのはすごく心強かった。壱己がいれば、天河さんの領域に引きずり込まれることはないはずだから。
「とりあえずモニターの検査は他の担当者に替えるように言っといたから。心配すんな」
唐突な報告に、私は面食らう。
「えっ?いつ?誰に?どうやって」
「今日あいつに直接言ったよ。あんたの条件呑んで父親探してやるから担当降りろって。元々モニタリングの検査なんて新人任せにしたっていい仕事だ。あいつがお前と接点持ちたくて自分でやってただけだろ。公私混同もいいとこだよ。あいつも了承したから今週から別の奴がつくはずだ」
「そう…」
モニターの件は自分で何とかしようと思っていたのに、仕事が早い。感心半分、それにしても私が決断したのは昨夜のことだし早過ぎやしないか、よっぽど二人きりにしたくなかったんだろうなと呆れ半分の気持ちで、それ以上言葉が出て来なかった。
「…あ、そうだ。あとさ」
壱己は不意に立ち上がり、自分の鞄を何やら漁り始める。
「話変わるけど、これな。時間ある時見といて」
ぽいと手渡してきたのは、A4サイズの白い封筒。
「何これ」
裏向きに渡された封筒をくるりと表に返してみると、社名が印字されている。それを見てぎくりとした。不動産、という文字が目に飛び込んできたからだ。
「新居の候補、いくつか物件見繕ってきたから時間ある時目ぇ通しといて」
「…気が早過ぎない?」
「お前更新三ヶ月後だろ。早過ぎることはない。この部屋の退去申請もそろそろしとけよ。別に今すぐこの中から決めろって訳じゃないけど、参考資料あった方がこんな物件がいいとかイメージ湧くだろうし相場もわかるからさ」
私より忙しい筈なのに、いつのまに不動産屋なんて行ったんだろう。私はもう、あれもこれもと次々湧いて出るタスクに、頭がパンクしそうなのに。
「…疲れた。もう何も考えたくない。先に寝てもいい?」
「コーヒーでも飲む?深煎りの豆あったよな。ゴリゴリに濃いやつ淹れてくるわ」
現実逃避を始めた私の頭をぽんと叩いて、壱己はてきぱきとキッチンに向かった。
壱己が私の部屋に棲みついてからまだ一週間も経っていない。なのに壱己は、もう何年も住んでいるみたいにこの部屋に馴染んでいた。
「灯里ー、コーヒーフィルターの買い置きあったっけ?今朝最後の一枚使ったの忘れてた」
「食器棚の右の引き出しに入ってるよ」
「おう」
「そうだ、ねぇ壱己、ついでに洗面所の時計の電池替えてくれない?さっき見たら止まってたの」
「何のついでだよ。キッチンと真逆じゃん」
文句を言いながらも、壱己は素直に洗面所に向かう。基本的に壱己が私の頼みごとを断ることはあまりない。一人暮らしが長い上によく気がつく性格だから、いつのまにか後でやろうと思っていた家事を片付けてくれていることもある。いたらいたで助かるものだから、私もほんの数日で、壱己がこの部屋にいることに慣れ始めていた。同じベッドで眠って起きて一緒に通勤し、会社に着けば一旦別れ、夜にはまたひとつの部屋に集う。それが普通に思えてきた。
同じ部屋にいても、思ったほどべったり張り付かれている訳じゃない。食事やお茶をする時間以外はそれぞれ勝手にやりたい事をやっている感じだ。普段の生活にただ壱己が加わっただけ。私は何も変える必要がなかった。むしろ料理や掃除を分担出来て自由な時間が増えたくらいだ。壱己がここに移り住むのが一番私の負担が少ないと言っていたのは、こういうことだったのかと思った。
それにどうしてか私は、部屋のあちこちで感じる壱己の気配に、懐かしさに似たものを感じていた。
「なんか懐かしいよな、こういう感じ」
コーヒーミルに豆をざらりと流し込みながら、壱己は目を細めて笑う。ちょうど私も同じことを考えていたから、おやと思った。
「昔さ、お前の家に入り浸ってたじゃん。なんかその頃みたいだなって、思い出す」
あぁ、と私は頷いた。そうか、私の感じた懐かしさも、それだったんだ。
中学時代の壱己は、私の家に入り浸っては勝手に冷蔵庫を開けて中にあるものを飲み食いしたり補充したり、自分の持ち物を私の部屋に持ち込んでは陣地を広げ、実家だということも気にせず自由な振る舞いをしていた。実家といっても父親はほとんど不在だったし、壱己の痕跡に気付くとも思えない。私も別に構わなかった。
壱己が私の部屋で寛いでいると、私もつられて気持ちが緩む。壱己が楽しそうにしていると、私もつられて明るい気持ちになる。壱己の穏やかな寝息が聞こえると、私も安心して眠くなる。私たちを脅かすものは、今ここにはないのだと。
「そういえば壱己、煙草やめたの?」
前はよくバルコニーに出て吸っていたのに、最近その姿を見ない。匂いもしない。
「うん。お前嫌がるじゃん。それに最近別に吸いたくもならない」
「何で?」
「口寂しければお前がいるし」
「何それ。どういうこと…」
生まれてこの方吸ったことがないから、壱己の言い分はよくわからない。煙草の代替品扱いされる理由は、もっとわからない。
「なぁ灯里、週末さ。ベッド買いに行こ」
「えぇ?だって引っ越すんでしょ?替えるならその時の方が良くない?」
「そうだけど、狭いじゃん。寝返りも打てないのがあと三ヶ月も続くの、俺やだ」
「勝手に住み込み始めたくせに…」
我儘だなぁと私が言うと、壱己は笑う。
「まぁこうしてお前とべったりくっついて寝るのも悪かないけど」
「わかった。買おう。即納品可能なダブルを探そう」
「決まりだな。おやすみ、灯里」
「おやすみ」
毎夜、壱己の体温に包まれて眠る。その生活は、思ったより悪くなかった。




