49
とはいえ、真面目な話を全くしなかった訳じゃない。
話したくないならいいけど、と前置きして、壱己は私の母親について尋ねた。
「家を出て以来、一度も会ってないんだろ?」
「うん。私は一度も連絡すら取ってない」
母はある日突然、家族を置いて家を出た。どうも好きな男の人がいたらしい。昔、壱己にそう話したことがある。大雑把な概要ではあるけれど、私が父親から聞いた説明は、それ以上に雑なものだった。説明というより単なる報告だ。
ある日私が学校から帰ると、父がダイニングテーブルに肘をついて、一人、じっと座っていた。リビングのドアを開けた私に気付くと、感情の消えた顔で、唐突に告げた。
「お母さんはもうこの家には戻って来ない」
極めて事務的に、父はそう告げた。
「……そう」
私は一言だけで応えた。あぁついにこの日が来たんだ、と思った。
夢を通して母の気持ちの変化を知っていた私は、それ以上聞く必要がなかった。でも例え私が何も知らず、あの日父を質問攻めにしたとしても、父は何も答えなかったと思う。元々は無口ながらも柔和な性格の人だったけれど、この日を境に、父には寡黙な部分だけが残った。父は私との間に頑強な壁を築いていた。この時以来、父親とは業務連絡みたいな必要最低限の会話しかしなくなった。
だから私は、両親の間にどんな話し合いがあったのか、あるいは全くないままだったのか、それすら知らない。離婚は成立しているようだったけれど、それが母が出て行く前のことなのか後から届け出たのか、そんなことすら知らないで今日まできている。
「今までは壱己にも話せなかったけど、母は家を出る随分前から恋人がいたの。私は母の夢で何度も見ていたから、そのことを知ってた。その相手が『ミフネ君』なの。高校の同級生だったみたい。同窓会で再会してそこから付き合いが始まったみたいだけど…」
「ミフネか。天河と苗字が違うのは何なんだろうな。本当にあいつの父親と同一人物なのかな?」
壱己の疑問は私も感じていたことだった。名前も違うし、私は天河さんの父親の顔を直に知っている訳じゃない。よく似た他人っていうことも充分考えられると思っていた。
「まぁ調べた結果他人でしたってのも、それはそれで一つの解決だよな。あいつが灯里に固執する大きな理由がなくなる訳だから」
「…壱己は乗り気なの?天河さんの提案…」
「お前の気持ち次第だな。母親について考えるのも嫌でそのくらいなら能力抱えたままの方がマシだっていうなら、断ってもいいと思う。少なくとも俺が近くにいれば夢にも呼ばれないみたいだし、物理的にもあいつが手出ししないよう見張る事は出来るから。けど夢を見る力を消す方法がわかるっていうのは、お前にとって相当デカいんじゃないの?」
「……うん……」
そうなのだ。
壱己の言う通り、それは私が長い間ずっと、渇望していたものだった。
「俺もお前と気兼ねなく目を見て話せるならその方がいい。お前がずっと一人で抱えてきた蟠りが消えるなら、俺は協力を惜しまない」
「……うん」
結婚してとか一緒に住もうとか、自分の欲望をストレートにぶつけられるのとは違う、真っ直ぐに私を思い遣る壱己の態度には、なんだか慣れない。
「最終的には灯里のしたいようにすればいいと思ってる。お前が何を選んでも俺は一緒にいるし、出来る限り手助けはするからさ」
壱己にぽんと頭を叩かれ、なんだか泣きそうになった。壱己の優しさや気遣いは、今まではもっと言葉足らずで、遠回しでわかりにくかった。だから私ももっと簡単に躱すことが出来た。
でももう、無理かもしれない。壱己が私に向ける優しさや思いやりを、それが与えられる意味を、私はちゃんと受け止めて、考えないといけない。
そう思うのとは裏腹に、憎まれ口を叩いてしまう。つい、癖で。
「…壱己が優しいの、気持ち悪い」
私の可愛げの無さに壱己は呆れて、はぁと溜息を吐いた。
「お前な…俺を何だと思ってんだ」
「便利で都合のいい男友達」
ひでぇ、と眉間に皺を寄せた壱己から、俯いて目を逸らす。
「だってそのくらいがちょうどよかったの。優しくされたくなかったの。頼りにしたくなかった。依存したくなかった。心の支えみたいにしてしまったら、嫌だから」
私が辿々しくそう言うと、壱己はびっくりしたみたいだった。ぱっちりと目を見開いて、俯いた私の旋毛を見下ろす。
「…俺はずっと、そうなりたかったよ。全力で甘えて、頼って、倚りかかって欲しかった。昔、俺がお前にそうしてたみたいに」
お前がそう出来るような男に、なりたかった。
そう小さな声で呟いて、壱己はこつんと自分の額を、私の頭に当てた。
「ごめんな、灯里。本当は優しくしたかった」
どうして壱己が謝るのかわからなかった。私に向ける壱己のひたむきな気持ちを逸らしていたのは、私の方なのに。
壱己の指が、遠慮がちに私の唇に触れる。許しを請うようなその手付きに、私は瞼を伏せて応える。
何度も体を重ねたのに、私たちはまるで初めてお互いに触れるみたいに、慎重に唇を合わせた。
壱己が私の項に手のひらを当てる。それだけで心臓がうるさいくらいに鳴る。このひとに触れられるのは、こんなに緊張するものだったっけ。でも同じくらい、安心もしていた。
思えば、私が壱己を本当の意味で受け容れたのは、この時が初めてだったかもしれない。
私たちの関係は、私が壱己に求められることに抗いきれず始まって、長い間その繰り返しだった。私から求めることもごくたまにあったけれど、これはあくまで生理的欲求の解消だったり憂さ晴らしの一環で、壱己自身との繋がりを求めている訳じゃない。心の中でそんな言い訳をしながら、それでも壱己以外とは、触れ合うことすら出来なかった。
「灯里」
私を呼ぶ声が少し掠れる。それほど切実に求められている気がして、私は深い安堵と充足を覚える。
壱己の手のひらが私の腿を撫でる。私に触れる壱己の手は、いつも驚くほど熱い。その熱が伝染して、お腹の底の方からじわりとあたたかいものが滲んでくるのを感じる。衣擦れのように生の肌が擦れ合う、やさしい痛みが心地いい。
壱己の背中に腕を回し、ぎゅっとしがみつく。そうすると壱己は、私の頭を腕に囲い込んで撫でて、ふっと笑った。
「俺、お前がそうやって抱きついてくるのすげぇ好き」
「…なんで?」
「その時だけは、お前も俺を必要としてるって勘違いしてられる」
素直になってからの壱己は、随分と真っ直ぐに愛情をぶつけてくる。本当に大型犬みたい。頬を擦り寄せ、暖を与えて受け取ろうともする、大きくて可愛い生き物。一度主を決めたら、たとえ無碍に扱われることがあってもそうそう離れてはいかない。多くは求めない。求めるのは、温もりを返してもらうことだけ。たったそれだけだけど。
私には、それが出来るのだろうか。
「…違うよ」
「わかってるよ。だから勘違いって言ってるじゃん」
「違う。勘違いじゃないって言ってるの」
壱己の手が止まる。私の目をじっと見ようとするから、私はふいと目を逸らす。
「…壱己は私に必要なの。言ったじゃない。いなくなるのは駄目だって」
そんなことを口にするのは恥ずかしくって、私は誤魔化すように目を閉じた。
壱己はしばらくの間黙っていた。そして不意に私の上に崩れ落ち、覆い被さってぎゅうと抱き締めた。
「壱己、重い」
「…なぁ灯里。昔、長い間一緒にいたけどさ」
「うん?うん、ねぇ、重い」
「その間、ちょっとでも俺の事を好きだって、思った事あった?」
壱己は私の訴えを無視して問うてくる。それは私が何度も自問自答したことだ。そしてその度に『わからない』と結論付けていた。でも。
「…壱己がいう意味での好きかどうかは、わからない。でも私、あの頃壱己のことが、世界で一番大切だった」
目を閉じたまま話していると、あの頃感じていたあたたかい気持ちを、鮮やかに思い出す。
壱己が笑っていると安心した。強引で奔放で、好き勝手に振る舞う壱己。でも私といる時は大抵、楽しそうに笑っていたり寛いで満足そうにしてた。それを見ていると私も、胸の中がふわりと満たされるのを感じた。
そういえばその感覚、最近どこかで味わった。そうだ、確かあの人の夢の中で。
『本来芦屋君の記憶と結びついてたものだったんじゃないかな』
あぁ、そういうこと。
「大事にしたいって思ってた。壱己が楽しければ、幸せだったらいいなって思ってた。何ひとつ上手に出来なかったけど」
壱己は黙った。黙って、そうっと私の頬を撫でた。
「灯里。目、開けて。俺を見て」
「駄目。今日は月が明るいから」
照明を全て落としてカーテンを引いた部屋でも、視界は程よく明瞭だ。だから駄目。きっぱり断る私に、壱己は不満そうだった。文句を言おうと開きかけた口を一旦閉じて、ぎゅっと唇を引き結び、何やら煩悶している。
「…あいつの父親を探そう」
壱己は唐突に、そんなことを言った。
急に方向転換した話題に、私は目を瞬かせた。
「何で、急に?」
「灯里、愛してる」
また、話が飛んだ。飛んだ上に、割と衝撃的な単語が出てきた。私が誰かからこの単語を受け取ったのは、人生で初めてだった。
「俺に出来る事は何でもする。何なら俺一人で探したっていい。とにかく俺はそれを、お前の目を見てちゃんと言いたい」
壱己は振り絞るようにそう言って、唇を噛んだ。
「…灯里。頼むから」
壱己の真摯な思いは私の心を揺るがせる。けれど私は、すぐに答えを出せなかった。
「…時間を頂戴」
そう答えた私に、壱己は当然だというふうに頷いた。
「好きだよ、灯里」
壱己は丁寧な、これ以上出来ないくらい丁寧なキスを私の体中に降らせた。気持ちいい。私はだんだん何も考えられなくなって、ただその心地良さに身を委ねる。
行為が終わると壱己は眠りについて、私はその動かぬ頬をそぅっと撫でながら、悩んでいた。どうしようか。
その後、三日悩んだ。
悩んだ末に、私は天河さんの交換条件を受け入れることに決めた。




