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 モニタリング業務を実施する第二試験室は、私の勤務する経理部とは別棟にある。

 指定された時間は十三時。昼休憩終了後、部署に戻らずにそのまま向かったら、だいぶ早めに着いてしまった。

 待合の椅子に座ってぼんやりしながら、モニター参加に関する説明が記載されたメールの内容を思い出していた。

 『当日は洗髪をします。凝ったアレンジ等はせず、オイル等の御使用も極力お控え下さい。洗髪後のスタイリングにおきましては御自身でお願いしております。メイクが落ちる可能性もあるので、その点も御考慮下さい…』

 メール送信元は天河さんのアドレスだったけれど、文面は明らかにテンプレートだ。型通りの丁寧な文章。

 経理部の仕事にはイレギュラーな案件が少ない。仕事中に髪を洗ったり乾かしたりするなんて、初めての経験だ。何となく、身の置きどころがないような気持ちになった。

 試験室の中に入ったのも初めてだった。想像していたよりだいぶ広い。入ってすぐの壁際に数席の椅子が並び、小さな受付カウンターが置かれている。その先はパーテーションで仕切りがされ、部屋の奥が見え難い配置になっていた。社外の人を招くことも多い部屋だから、社員のみで使用する部署の部屋とは雰囲気が違う。

 室内を眺めている内に、天河さんが来た。約束の時間より十分遅れだ。

 「お待たせしてごめん」

 ふわっとした王子様だなんて形容は馬鹿にしてると思うけれど、こうして改めて見ると、そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。彼がそこにいるだけで、無機質なこの部屋が淡い色彩に染まる。黙っていてもその佇まいにはある種の気品が漂い、それと同時に、別世界の住人を見ているような隔たりを感じさせる。

 天河さんはゆったりとした動作で、私を試験室の奥へと誘導した。

 「メールでも案内してたと思うんだけど、今回のサンプルは洗髪後に使うものだから、まず髪を洗わせてもらうね」

 彼の言う通り、試験前に洗髪をすること自体は事前に知らされていた。でも私がイメージしていたのは、個人宅によくあるシャワーヘッド付きの洗面台で前屈みになって自分で髪を洗うというのものだ。その認識が間違いだったことに、私はすぐに気付いた。

 パーテーションの向こうには、美容院で見かけるのとほぼ同じ、大きなシャンプー台があった。多少造りが簡易的に見えるけれど、使用方法は同じだろう。

 「じゃあ早速洗おう。ここに座って」

 天河さんは当たり前のようにぽんとシャンプー台の座面を指し示したけれど、私は躊躇った。

 「洗うって、誰が?」

 頭の中に浮かんだ疑問が、そのまま口をついて出た。礼儀もマナーもあったものじゃない。けれど天河さんは気にする様子もなく「僕が」と笑った。

 「…あの、でも…」

 私は戸惑い、言い淀んだ。美容師でもない男の人に髪を洗って貰った事なんてない。仕事とはいえ酷く抵抗を感じる。でもその感情をそのまま伝えることにも違和感があった。天河さんは単に業務を遂行しようとしているだけだ。私だけが変に意識しているようで、言い辛い。

 「あぁそっか。素人に任せるのが心配なのかな。もっと規模の大きいモニタリングの時は専門のスタッフを呼ぶんだけど…今回みたいな予算が乏しい時は、開発部の人間が自分でやるんだ。でも一応皆一度はプロの美容師の研修を受ける規則にはなってて…」

 黙り込んだ私の沈黙の理由を、技術に対する不安だと捉えたみたいだった。天河さんの丁寧な説明は、その不安を取り除く為なんだろう。そう考えると余計、洗髪される事に抵抗があるのでやっぱりモニターは降ります、とは言えなくなった。

 「…すみません、大丈夫です。お願いします」

 私はこっそり諦めの溜息を吐いて、靴を脱ぎ、シャンプー台に上がった。

 種々の道具が載せられたワゴンからクロスを取り出して、さらりと広げて首に巻く。椅子のリクライニングをゆっくり倒して、目元にガーゼを乗せる。一連の動作は案外スムーズで、天河さんがこの作業に、それなりに慣れていることがわかった。

 頭上でさぁさぁと水音がして、水飛沫しぶきが額に散る。人肌くらいの温かいお湯が、髪と地肌を湿らせていく。

 「白崎さんは普段何のシャンプー使ってるの?」

 ガーゼが耳の半分を覆った状態で聞く天河さんの声は、雲に覆われているみたいで聞き取り難い。シャワーの音に掻き消されるから尚更だ。

 「うちの会社の商品です。ノンシリコンのボタニカルシリーズ、ユーカリの香りの…」

 自社製品は従業員割引制度があって安く買えるし、定期購入の申し込みをすれば流通の人が毎月部署まで届けてくれる。買い忘れをしなくて楽だし、香りも気に入って、ずっと使い続けていた。

 「そうかなって思ってた。初めて会った時、それの匂いがしたから」

 「わかるんですか?」

 私が驚いて目を丸くすると、瞼の動きで目の上のガーゼがずれた。天河さんはそれに気付いて、そっと元に戻してくれる。

 「そのシリーズの開発担当が、僕の指導役の上司だったんだ。僕は当時まだ新人だったけど、アシスタント的な立場で色々教わりながら製品化まで携わった。よく知ってるものだったからわかっただけだよ」

 ノンシリコン特有のコーティング作用の不足分を補うオイルの調整が難しくて、とかなんとか、天河さんは私にはすんなり理解出来ない話を続けている。相手の声が聞き取り辛いシャワーの最中に、小難しい専門的な話題。空気が読めないとか研究者気質とか言われる所以ゆえんは、こういうところなのかもしれない。

 でも、水音の向こうから聞こえてくる靄がかった声は、むしろ普段より心地良かった。どこか別の世界から──夢の中から語りかけられているような、茫とした声。仕事中だということを忘れて、気持ちが少しずつ緩んでいく。思わず瞼を閉じそうになり、いけない、目を瞑ったら眠ってしまうと慌てて瞬きすることを、繰り返した。

 シャンプーが終わった後、天河さんはこじんまりした鏡台の前に私を座らせ、ドライヤーで髪を乾かし始める。

 「モニタリングの間、毎回これをやるんですか?」

 「うん。洗髪後の素の状態の頭皮と髪の数値を測定して、製品サンプルを使用した後の数値と比較するんだ」

 今日から毎日サンプルを使用して、週に一度、測定数値の経過を記録する。これを三ヶ月続けるそうだ。

 髪がすっかり乾くと、今度は測定を始める。場所を変えて、窓際のデスクには備え付けのモニターと、開いたままのノートパソコン。マイクロスコープというのだろうか、小型のカメラのようなものを頭皮に押し付けたり髪に当てたりしながら、天河さんの視線はそれらの機器の間でゆっくりと動く。

 「大事にしてきたんだね」

 天河さんは手に持っていた機器をふとデスクに置いて、微笑んだ。私の髪を一房手に取って、手触りを確かめるように指の間に挟んで撫でる。その行為が業務上必要なものなのかどうか、私にはわからなかった。

 私は黙り込んで、膝の上に置いた拳を握り締めた。どう反応していいのかわからなかった。

 「…全然、そんなことないです。最低限のケアしかしてないし…」

 実際私の美容に対する意識は、一般的にはかなり低い方だと思う。目立たずに生きていくと決めた私には、明るくカラーリングされた髪も華やかなパーマも垢抜けたアレンジも必要ないものだった。熱心に手入れして自分を良く見せる努力なんて、何ひとつして来なかった。業種柄、美意識の高い女性社員が多くいる中で、劣等感を抱くことが全く無いとは言えない。でも私はそれでいい。そうでないといけない。地味で目立たない、誰の興味も惹かない私でないと。

 「でも、いためるようなこともして来なかっただろう?傷付けないように、ちゃんと心を尽くしてきた」

 天河さんの手が私の髪を掻き分けて、とろりとした透明の液体を地肌に垂らす。涼やかで清廉な花の香りが私を包んだ。

 「白崎さんは、そういう人に見える」

 少し冷たい液体が、皮膚の隙間から滲むように浸透して、乾いた肌を潤す。鏡越しに窺い見た天河さんは、口元を和らがせて微笑みを浮かべていた。

 髪の話。これは、髪の話だ。

 ただそれだけのことなのに、私の胸の中は、どうしてか掻き乱されるようにざわついていた。



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