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私の手を掴んでいる壱己の指先が冷たいのは、冬の夜の寒さのせいだけでは、多分、ない。
「ねぇ、待って。歩くの、早い」
駅までの道を足早に進んでいく壱己に、ついていけない。いつもは歩調を合わせてくれるのに、今日はそれほどの余裕もないみたいだった。
私が息を切らせているのに気付いて、ようやく壱己は足を止めた。
「手も。ちょっと痛い。少し緩めて」
「…ごめん」
壱己は疲れたように深く息を吐く。手を離しかけて、躊躇った。
「……灯里」
離しがたいと言いたげに、私の手をゆるりと握り直す。
「あいつとはもう会わないで。会社内だろうが夢の中だろうが、二人きりにしたくない」
嫉妬とか独占欲とかとは違う。絞り出すような小さな声から滲み出るのは、不安、心配、気遣い。そういう類のものだった。
壱己の懸念はよくわかる。私だって怖い。
天河さんは好き放題出来る訳じゃないと言ったけれど、抗う術もないこちらからしたら、意のままに操られているのとほとんど同じだ。そのうえ記憶を利用されている自覚もない。
「でも、モニターの日程がまだ残ってる」
「俺から諸山部長に担当を変えるように頼んでみる。検査だけなら他の人間でも問題ない筈だ」
「え…それはちょっと…」
「なんでだよ…!」
そんな交渉を他人任せにするのは社会人としてどうなのか、頼むなら自分で頼む。そういう意味で言ったのに、壱己は勘違いをしたみたいだ。担当を替えるのを嫌がったと、そう思ったんだろう。カッとして語気を荒げる。
「あんな話聞いて平気なのか?勝手に記憶いじられて感情操作されて、それでもお前はまだあいつに拘るのかよ。それでも会いたいって思うのか」
きっと私を睨み付けて、声を荒げる。
「ち、違うよ。そういう意味じゃない」
「何なんだよ。訳わかんねぇ、お前もあいつも。夢だの記憶だの、そんなの全部お前らの頭の中だけの話じゃねぇか。何も見えない俺は蚊帳の外か?現実の、ここにいる俺のことはどうでもいいのか?」
「だ…誰もそんなこと言ってないでしょ。少し落ち着いて…」
何だか風向きが変わってきた。影を潜めていた嫉妬や独占欲が、全面に出てきた。
「お前、俺と一緒にいるって言ったじゃん。俺がいないと駄目だって言っただろ。なのに…」
「ちょっと、声大きい…!」
退勤ラッシュの時間はとっくに過ぎたとは言え、会社の最寄駅近くだ。社内の人がいる可能性だって充分あるのに、通り過ぎる人に丸聞こえの声量で壱己は言い募る。それだけでは済まず、ガバッと抱きついてきた。
「は…離して、みんな見てる…」
「やだ。あんな奴に…他の誰にも、死んでも渡すもんか。お前は俺の…」
「何してるの、こんなところで」
背後から因縁深い声が降ってきて、揉み合っていた私たちはぴたっと動きを止めた。
「痴話喧嘩?」
壱己の腕の隙間から恐る恐る見上げる。紛うことなく、今しがた決別したばかりの天河さんだった。
「おま…何抜け抜けと尾けて来てんだ」
「尾ける?大袈裟だなぁ。駅に向かってるだけだよ。僕も電車通勤なんだ。それより来る途中会社の人ちらほら見かけたけど、こんなところでこんな事してていいの?」
私は思わず、目一杯の力で壱己を押し剥がした。こんな現場を見知った人に目撃されるなんて。恥ずかしさで眩暈がする。ふらつく。いくら夢の中で散々記憶を見られてる相手とはいえ──。
それにしても見られてるって、何をどこまでなんだろう。どんなふうに見られてるんだろう。私の衝動とか言っていたけれど、それってその、例えばこういう抱擁とは違う、もっと人に見せられないような場面の記憶も、具体的な映像で──?
ぐるぐると思考が迷路にはまってしまった私を、壱己がぎゅうと抱き直して自分の体で隠す。
「お前は見るな。これ以上灯里を視界に入れるな」
「えぇ…それは難しくない?別棟っていっても同じ会社にいるんだし、こうやって道端で会う事もあるし。それに僕ちょっと思いついた事があって、白崎さんと話したかったんだよね。ここで会えてちょうどよかった」
天河さんは何もなかったかのように、普段通りのふんわりとした微笑みを浮かべて私を覗き込んだ。
「白崎さんが僕の父親について何も知らないのはわかった。でも君のお母さんと関わりがあるんだよね?彼が今どうしてるのか、そっちのルートから調べられないかなって思ったんだ。協力してくれたら教えてあげる。さっき言ってた、夢を見えなくする方法」
にっこり微笑んでいる天河さんを、「ふざけんな」と壱己が怒鳴りつけた。
「二度と近付くなって言っただろ。頭カチ割られたいのか?」
「いや、それは嫌だよ。だから考えたんだけど、芦屋君も一緒に探したらいいんじゃないかなって。常に見張って情報共有出来ていれば心配要らないだろう?君だって、このまま一生白崎さんに目を逸らされ続けるのは嫌なんじゃないの?」
そう言われて壱己はぐっと口を結んだ。何か言おうとして口を開きかけ、また閉じる。そんな煩悶を何度か繰り返して、怨念のこもった低い声を絞り出す。
「…何か見やがったな」
「いくつか、君の夢をね。君、すごいね。夢の中でも白崎さんのことばっかりだね」
天河さんは労るような微笑を壱己に向けた。
「二人で相談して、考えてみて。君達が父に関する情報を持って来てくれたら、僕は白崎さんの夢見の力を消す方法を教える。必要があれば僕ももちろん協力するから、いつでも連絡して。じゃあ、またね」
ひらりと手を振って、天河さんはそのまま漂うように駅の方へと歩いて行った。
「……信じらんねぇ。何なんだあいつ」
しばらくして、ぽつりと壱己が呟いた。
同感だった。
言葉が通じるだけの、全く別種の生き物を見ているような気分だった。
「どうしよう…」
何を『どうしよう』なのか自分でもよくわからないままに、私は小さな声で、そう漏らした。




