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今夜、おいで。
やわらかな響きとは裏腹に、その誘いには石のように固く、ごろりとした異物感があった。その異物は私の腹の中に重く沈んだ。
次から次へと生まれては積もる疑問や不安の数々が、喉元まで迫り上がってきて吐き気がする。この不快感を解消するには、彼の言葉に従って夢を訪ね、ひとつひとつの疑問を、その答えを、詳らかにするしかないのだとわかる。
頭ではわかる。でも、怖かった。
先に何が待つかわからない真っ暗な洞穴に、ひとりきり身ひとつで潜れと言われているようで、怖かった。
終業時刻を過ぎたのを確認してすぐに部署を出て、人気の少ない廊下の片隅で電話を掛ける。出ない。自動で途絶えた発信音の残響が消えないスマートフォンを握り締めて、私は立ち尽くした。
(あんな子が傍にいたら、来れる訳ない)
天河さんは壱己のことを、そう言った。どういう意味だったんだろう。
壱己と朝まで過ごして以来、あの夢を見ない。あの人の夢に行かない。それは実証されているけど、でもそれが何故なのかは、私にはわからない。わからないけれど。
『今夜も、会いたい』
そう言われて頷いた、今朝壱己と交わした約束が、今は私のよすがだった。
お願い、私を引き留めて。私が一人で、深い洞穴に迷い込む前に。
祈るように縋るように握り締めていたスマートフォンが振動して、はっと我に返った。
液晶には壱己の名前が表示されている。私は慌てて通話ボタンを押した。
「灯里、電話くれた?ごめん、今…」
「…壱己…」
聞き慣れた声に安堵して、私の声は少し震えた。その一言で、壱己は発しかけた続きを呑み込む。声音だけで何かあったことを察したのだと思う。そのくらいには、私たちはお互いのことを理解している。
「…ごめん、今すぐには抜けられない。一時間…いや、三十分だけ待ってて。どっか会社の近くにいて。場所だけ教えといてくれたら急いで行くから」
壱己は早口でそう捲し立て、電話を切った。忙しいならいい、急がなくていいと、言う暇もなかった。
私は言われた通り、会社から徒歩二分のコーヒーチェーン店に移動した。帰宅前の小休憩なのだろうか、店内は満席に近い混雑状態で、窓際のカウンター席をひとつ確保するので精一杯だった。
壱己に悪いことをしたかもしれない。会いたいと言ったのは向こうだけれど、壱己はいつも私より退勤時間が遅い。忙しいのだ。いまさらだけど、残業が長引きそうなら先に帰って家で待ってるから急がなくていいとメッセージを送っておこうと思った。
送信した後、カウンターにスマートフォンを置いて窓の外を眺める。帰宅ラッシュのこの時間帯は、スーツやオフィスカジュアルを身に纏った人々で歩道が溢れ返っている。
沢山の人がいる。
世の中にはこんなにたくさんの人がいるのに。
私が縋ることが出来るのは、ひとりだけ。たった一人だけだ。
「灯里」
ぼんやりと窓の外を見ていると、背後から声が掛かった。壱己だった。少し息が上がっている。きっと、大急ぎで仕事を片付けて来てくれたんだ。私が呼んだから。私が壱己を、呼んだから。
「場所変えるか」
ぐるりと首を回して空席を確認した壱己は、そう言って飲み終わったカップを片付けようとする。その手を私が掴むと、壱己は屈んだまま動きを止めた。
「…私、行きたくない」
「いや、そうは言っても席も空いてないし。どっか他の店…」
「そうじゃない。私もう、あの人の夢に行きたくない。怖い。あそこには私しか行けない。何が起こっても助けてくれる人はいない。一人ぼっちなの。怖い。行きたくない」
一人で生きていこうと思ってた。
まだ幼い子供の頃から、そう決めていた。
でも現実には、私を助けてくれるこの手がいつでも傍にあって。それなしではきっと、私は大人になることさえ出来なかった。
「…あいつに何言われた」
私の目から零れた涙が、ぽたりとテーブルの上に落ちる。その水滴が作った小さな染みを、壱己はじっと見つめた。
「夢においでって。聞きたいことがあるなら、今夜、夢で会おうって。私、行かなきゃいけない。行って、確かめなきゃいけないことがたくさんある。でも怖い。一人では、行きたくない…」
こんなにも拙い、訳のわからない情報で。それだけで、壱己は動いた。
ポケットからスマートフォンを取り出して、さっと操作すると耳に当てる。
電話?どこに掛けてるの、こんな時に。
私の疑問は顔に出ていたと思うけど、壱己は何も答えない。眉間に深い皺を刻んだ厳しい顔つきで、ここにはいない誰かを、睨んでいる。
「…お疲れ様です、企画部の芦屋です。天河さんまだいますか」
壱己のその短い言葉で、はっとした。
どこに掛けているのかすぐに理解した。企画部と研究部は業務上のやり取りが多い。壱己のスマートフォンに研究部直通の番号が登録されていても、何も不思議はなかった。
「壱己、ちょ、ちょっと待って…」
私は慌てて止めようとした。でも壱己が話をしようとする相手は、もう私じゃなかった。宙を睨む壱己の唇が動いて、低い声が漏れる。
「──灯里から聞いたよ。夢に来いだと?ふざけたこと言ってんじゃねぇ。何でわざわざそっちの領域に馳せ参じなきゃいけねぇんだ。灯里と話がしたけりゃ現実でしろ」
電話口の向こうにいる相手に、壱己は剥き出しの憤りをぶつけた。
「人の女泣かせてんじゃねぇぞ。その澄ました顔ボコボコにされたくなかったら今すぐ出て来い!」
場を憚らぬ壱己の怒声に、賑やかな店内が一瞬静まり返った。
壱己は私の腕を掴んで立ち上がらせ上着を羽織らせると、奪うように鞄を持って、店の外に引っ張っていく。
「い、壱己、待って」
「待てるか。あいつマジでいっぺん殴る」
「馬鹿なこと言わないで。そういう話じゃないし、そんなことしたら壱己の方が…」
駄目だ、完全に頭に血が上ってる。
私は真っ青になって止めようとしたけれど、力と速さで敵うわけがない。掴んだ腕はあっさり振り切られた。大股で歩いて行く壱己を、駆け足で追う。
壱己が向かう場所は、元来た道を辿ればすぐに着く。私たちの、勤務先だ。




