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 カウンターで横並びに座った壱己は、グラスを口につけたまま軽く目を見開いた。

 「モニター引き受けたんだ?ふぅん」

 「ふぅん、じゃないでしょ。誰のせいだと思ってるの」

 「絶対断ると思ってたからさ」

 「断れないでしょ。飲み会とか遊びの話ならともかく仕事なんだから」

 「そんな社畜魂持ってると思わなかった」

 冗談めかして皮肉っぽく笑う壱己を、私は恨めしい気持ちで睨みつける。

 「…何で私の名前なんか出したの。そういうの嫌いだって知ってる癖に。中学からの同級生って話もしたんでしょ?会社では絶対秘密だって言ったじゃない」

 「お前が秘密にしたいって言ってたのは」

 壱己はフンと小馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべて、椅子の背もたれの隙間から私の腰に手を回した。耳元に顔を近付けて、低い声で囁く。

 「…こういう関係の事だろ。昔の同級生が偶々《たまたま》同じ職場にいるってだけの話なら、隠す方がむしろ不自然だよ」

 「そもそも私の話を出さなければ、そんな話もしなくて済んだでしょう」

 腰にあてがわれた手をさっと払いのけると、壱己はやっと体を離して、元通りの距離に戻った。

 「髪がどうとか。何でそんな余計なことばっかり言うの」

 「いや、ついポロッと。柳原さ、俺の隣の席なんだよ。髪が綺麗な二十代の女性、社内にいないかなぁって頭抱えてたからさ。助けてやりたくて」

 払い除けた壱己の大きな手は、私の側頭部に差し込まれ、さらりと髪を梳く。

 「お前の事しか思い浮かばなかった」

 「…紹介出来る『女友達』なら、星の数ほどいるでしょう。別に社外モニターでも問題ないんじゃないの?」

 私がそう言うと、壱己はつまらなそうに肩を竦めてグラスに半分ほど残っていたビールを一気にあおった。

 さすがに嫌味が過ぎたかと思ってちらりと壱己の横顔を窺い見るけれど、殊更ことさら不機嫌になった訳ではなさそうだった。飲み物の追加を頼む為に片手を挙げてカウンターの奥にいる店員を呼んでいる。私のグラスの中身が残り少なくなっているのにも気付いて、ひょいとメニューを差し出してきた。

 「お前もまだ飲むだろ。何にする?」

 「…同じの」

 「はいはい」

 壱己は口の端で軽く笑って、メニューをスタンドに片付けた。店員がオーダーを取りに来ると、注文をした後に「ブランケット貸して貰えますか」と付け加える。

 「寒いの?」

 「俺じゃないよ。お前が寒いんだろ。さっきから膝こすってる」

 ぽんと太腿を叩かれて、私はむぅと言葉に詰まった。我慢出来ない程ではないけれど、冷たいお酒を飲んだ体は、壱己の言う通り足元から冷え込んできていた。

 「ほら。掛けてろよ」

 店員が持って来てくれたブランケットを、壱己が広げて私の膝に掛ける。軽い素材のブランケットはふわふわと暖かくて、壱己を責める気持ちを有耶無耶にしてしまう。

 こういうところだ、と私は半ば呆れる。こういうところがあるから、陳腐な言い方だけど壱己はモテる。細かいところによく気がつくし、ちゃんとフォローもしてくれる。要領がいいというか適応能力が高いというか、外面が良くて、自分の強みを弁えて上手に使いこなしている。おまけに外見的なオプションも相当なもので、はっきりしている割に癖のない万人受けする顔立ちだったり、男らしく引き締まった体付きだったり、人混みでも見つけやすい長身だったり。これでモテなかったらその方がおかしいというくらい、私とは真逆の世界、光の当たる場所に立つ資格のある人間だ。

 でも、私は知っている。分厚い外面を一枚捲れば、壱己も私もして変わらない。腹の奥に暗い重たいものを据え置いて、気を抜けばその重さで沼底に沈んでしまいそうになるのを、瀬戸際でかろうじて堪えている。堪える為に私たちは、こうして軽口を叩き合い、時には抱き合い吐き出して、荷を軽くする必要がある。

 「これ飲み終わったら出ようぜ。うち来いよ」

 「やだ」

 「じゃあお前の部屋行っていい?」

 「駄目」

 「ならホテル行こうか」

 しつこい。そう突っぱねればいいだけなのに、誘うように首筋をなぞる壱己の指先に、私はたやすく欲情する。

 「…壱己の部屋でいい」

 そっぽを向いた私の頭を、壱己は宥めるようにぽんぽんと叩いた。

 

 ♢♢♢


 はっと短い息を吐いて、私の中で壱己が果てた。

 快感の名残を振り切るみたいにゆっくりと何度か体を揺すった後、そのまま崩れ落ちるように私に覆い被さって、ぎゅうときつく抱き締める。

 熱く湿った背中を指先でそろりと撫でると、壱己は「くすぐったい」と呟いてふっと笑った。苦しいくらいに強く私を縛り付けていた腕をふわりとほどき、隣にゴロンと転がった。深く息を吸って、吐いて。乱れた呼吸を整えた後、もぞもぞ動きながら体勢を整えて、背後から私の体を抱き締める。行為が終わると、壱己はいつもこの態勢で休息を取った。正面から抱き合うのを私が嫌がるから、他にやりようがなくてこの体勢になるだけかもしれない。

 後頭部に、壱己の顎がこつんと当たる。髪の隙間を縫って、温かい吐息がかかる。背中に押し付けられた壱己の胸はまだ粗く脈打ち、肌も熱を孕んだままだ。

 私はいつも、壱己より先に達する。その瞬間は、深い穴に唐突に落ちたような、心許こころもとない感覚だった。それと同時に、体の中に溜まっていた雑多なものを全て手放したような、頭の中を一瞬で一面の白にざっと塗り替えられたような、ある種の解放感を感じる。清々する、という表現が一番近いかもしれない。

 事の後、こうして壱己に抱き締められているあいだ、私はまだ快感の波に呑まれた余韻の中にいる。ぼんやりとして、まともに思考を働かせることが出来ない。親鳥に守られる雛のように、壱己の体で温めて貰うだけ。それだけの、ちっぽけな存在。その矮小さが自分に相応しいものだと感じて、私は時々、笑い出しそうになる。


 「…そういえば担当って誰だった?」

 しばらく無言でいた壱己に不意に尋ねられ、私ははっと我に返る。

 「担当?何の?」

 「モニター。モニタリングの間、開発部の誰かが担当つくだろ」

 「あぁ…天河さんって人。壱己、知ってる?」

 壱己が所属する企画部は、開発部と連携して仕事をする事が多い。もしかしたら壱己とあの人も交流があるのだろうか。あの人の淡い目の色を思い出すと、どうしてか少し落ち着かない気持ちになる。私はもぞもぞと両脚を擦り合わせた。

 「知ってる。一緒に仕事した事はないけど、何かふわっとした奴だろ。王子様みたいなツラした」

 「…嫌いなの?」

 壱己の口調に棘が含まれているような気がして、ついストレート聞いてしまった。

 「別に。嫌いだの何だの言うほど関わりはないよ」

 否定する割に、好意の欠片もなさそうな、むしろやっぱり多少の敵意があるような口振りだった。

 けどまぁ、壱己は大体いつもこんなものか。会社では愛想良く振る舞っているけれど、一皮剥けば皮肉屋で口が悪くて、他人を好意的に見ようとする善良な精神は持っていない。

 ようやく私の体を解放した壱己は、仰向けに寝転んで皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 「見映えはいいから女は寄ってくる。けど、なんて言うかな。研究者気質かなんか知らねぇけど、ちょっとズレてんだよ。空気読まずに女の誘いもふわっと躱して、恥かかされたとかさ。そういう女の恨み節、何度か聞いたことあるよ」

 「何それ。ただの逆恨みじゃない。仕事も関係ないし、馬鹿馬鹿しい」

 思わず口に出してから、はっとした。自分でも驚くくらい強い拒絶だった。いつもならふぅん、で済ませるどうでもいい噂話なのに。壱己も面食らったようで、目を丸くしている。

 「……何?お前、ああいう男が好みなの?」

 見開かれていた目がゆっくりと半眼になって、口元に挑発的な笑みを浮かべる。

 「毛穴の奥まで調べられるのが嬉しい?」

 「そんな訳ないでしょ。絡まないでよ」

 私は話題を断ち切るために上半身を起こし、床に散らばっていた服を拾おうと手を伸ばした。その腕を壱己が掴んで止める。

 「灯里」

 「何」

 「まだ着なくていいよ」

 腕を掴む壱己の力は、抗えないほど強かった。力任せに引っ張られた私は壱己の胸に額をぶつける。そのまま強引に、ベッドの上に押し戻された。

 「お前、ここ弱いよな」

 首筋を強く吸い上げられて、反射的に体がぴくっと反応した。

 「ちょっと、やめて。跡が…」

 私の制止を無視して、壱己はぐっと太腿の隙間に膝を割り込ませ、空間を拡げる。

 「ここと、ここ。一緒にされんのが好きだろ」

 壱己の指が私の体内に潜り込む。無遠慮で、強引な行為なのに、さっきの火照りがまだ残っている私の体は、どこかでそれをよろこんでいた。


 「お前のことを一番知ってるのは、俺だよ」


 耳元で囁く声は、確かに馴染み深い壱己のもの。なのに何故か、知らない男の声みたいに不穏に響いた。


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