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 そうは言っても、何を話せばいいのかわからなかった。誰かと和気藹々(あいあい)、自分の恋愛について話した経験なんてない。口ごもっている私に、益子さんが助け舟を出してくれる。

 「白崎さんには、他に好きな人がいるの?」 

 「…好きかどうかはわかりません。でも、気になる人がいます」

 「わからないんだ」

 「はい。私そもそもよくわからないんです。これが恋愛感情だって確信出来るような気持ち、今まで感じたことがなくて」

 誰かに惹かれることがない訳じゃない。かつて壱己に対して特別な親愛の情を抱いたこともある。ごく最近、焦げ付くような強い想いを抱いたこともある。夢でもいい、会いたい、と。

 でもそれら全てに、恋という言葉はしっくり当てはまらなかった。

 「その人に対する気持ちは、なんて言うか…わからないなりに、()()気もするんです。そういう、いわゆる恋愛感情とは。片思いとかそういうあたたかいものじゃなくて……引潮に呑まれるみたいな、抗えない感じです。呑まれたその先に何があるのかわからないから怖いとも思っていて。でもそっちに引き寄せられていくことを、自分では止められない」

 天河さんは穏やかで、乱暴とは程遠い。なのに私は、暴力的なほどの引力をあの人に感じている。

 「それに、そんなに強く惹かれていたのに、何日か会わないでいるだけですぐにその気持ちが薄れていったんです。だからますます自分の気持ちがわからなくなって…」

 益子さんは真面目な顔で頷いた。

 「芦屋くんのことは?好きじゃない?」

 「…好き…?」

 それを訊かれると本当に困る。一人で何度も考えたことだけど、答えは未だに出ないままだ。

 「…壱己のことは、もっとわからない。好きとか嫌いでは考えられないんです。私たちが親しく過ごしたのは、まだ心も体も、今よりずっと未熟な時期でした。出来上がる前の柔らかい状態で近付き過ぎたせいで、私たちはどこかでお互いの一部分を、自分のものと取り違えたまま大人になっちゃったんです。だからどんなに酷いことをしても、されても、嫌いにはなれないんです」

 私の告白は、ほとんど独り言みたいなものだった。

 「壱己を嫌いになる時は、私が私自身を許せない時。消えてしまいたくなるくらい、許せなくなった時です」

 壱己は一方的に私に支えられたようなことを言っていたけれど、本当はそうじゃない。

 壱己と出会う前、私はただただ孤独だった。一人きりで暗い水槽の中にいるようなものだった。それは水葬と同じ。まだやわらかい私の体は水の中で少しずつ傷み、腐食して、時間をかけて分解されていくのを待つだけ。

 そこから私を掬い上げてくれたのは壱己だ。壱己が引っ張り上げてくれたから、私はようやく陸地で、誰かと同じ空間で息をすることを覚えた。ほの暗い水の中で、今にも溶け出しそうになっていた私の輪郭を、留めてくれたのは壱己だった。

 何があっても嫌いにはなれない。なる筈がないんだ。

 益子さんは目を丸くして、びっくりした顔で私を見た。

 「何か…白崎さんって一見クールと清楚の間を漂ってる感じだけど、思ったより激しいね」

 「え…」

 相容れない単語が並べ立てられ、どう反応していいのかわからなかった。

 「話してくれてありがとう。それなら白崎さんは、芦屋くんがいたから今までそういう気持ちにならなかったって事よね。それがわかってよかった」

 益子さんは、ゆっくりと花が開くように微笑んだ。このひとの優しい部分をぜんぶ集めて、広げたみたいな笑みだった。

 それを見て私はようやく、いとぐちを見つけたように思った。もつれに縺れた糸の、はじまりの部分を。

 「芦屋くんもね、よく言ってる。白崎さんがいたから自分は今ここにいるって。私は『ここ』っていうのを、この会社って意味だと思ってたの。ほら、芦屋くん内定もらってたメガバンクとか大手の証券会社とか全部蹴って白崎さん追いかけてこの会社に入ったでしょ。その事だと思ってたの」

 知らない。内定を蹴った?私はそんな話知らない。ぶんぶん首を横に振った。

 勤務先が同じだったのは偶然だと思っていた。当時私は、壱己の就職先を聞いてすらいなかった。だから入社式で壱己を見つけた時は本当に驚いた。その時壱己は、何社も受けて引っ掛かったのがここだけだったと言っていた筈だ。

 「それだけでも凄いな執念だなって思ってたけど、そうじゃなかったのね。白崎さんがいたからちゃんと大人になって今ここにいるって、きっとそういう意味だったんだわ」


 私はずっと、間違いだったと思っていた。

 私たちが辿ってきた道。選んできたもの。間違ってばかりいたから、今、私たちはこんなにもいびつなのだと、そう思っていた。


 でも、そうじゃないのかもしれない。


 私たちは今、大人になった。

 決して立派とは言えないけれど、法に触れるほど道を外すこともなく、ちっぽけな自分一人くらいは養うことが出来る、最低限の力を備えた、大人になった。


 無数の後悔を抱えながら、それでも私たちは、今も傍にいる。

 その事実がすべてなのかもしれない。

 間違いも正解もなく、ただ、全てはその時必要なことだった。

 そういうことなのかもしれない。


 「…でも私、壱己にまだ話せてない事があるんです」

 「秘密があるってこと?」

 「はい。それに壱己は気付いてて、話して欲しいって言われていて」

 「あら。じゃあ言うしかないよねぇ」

 「そ、そんな簡単に話せる内容じゃないんです」

 「簡単じゃないんだろうけど、結局いつかは話すことになりそうな…ほら、芦屋くんしつこいから」

 益子さんはんふっと思い出し笑いをする。

 「生きてる内に添い遂げられなかったら、どんな手を使ってでも白崎さんより長く生きて遺骨盗んででも一緒の墓に入るって言ってた」

 「え……怖…」

 「怖いよねぇ。諸山くんと柳原くんが白崎さんヤバいのに好かれたなって気の毒がってた」

 本気でぞっとした。益子さんは笑っているけれど、冗談にしてはホラー過ぎる。

 「でもねぇ、私、勿論白崎さんの気持ちが一番大事だとは思うんだけど、それとは別に、つい芦屋くん応援したくなっちゃうんだよね。私も絶対叶わない人に長年片想いしてる内に時機を逃して、この年まで独りで来ちゃったから。ちょっと、自分と重ねちゃう」

 「…そうなんですか…」

 益子さんみたいな性格が良くて一緒にいて温かい気持ちになれる女性なら、きっと惹かれる人も多いと思う。恋愛に興味がない訳でもないなら、何で決まった相手がいないんだろうと不思議に思う気持ちはあった。そうか。ずっと想ってた人がいたんだ。

 「私の好きな人はね、出会った時にはもう他の人と結婚してたの。凄く奥さんを大事にしてたし、私は自分の気持ちを伝えることさえ出来なかった。芦屋くんもなかなか言えずにいたのは、どんな形でもいいから白崎さんの近くにいたいって、思ってたからだよね。そういう気持ちもわかるから…報われたらいいなぁって、勝手に思っちゃうの。芦屋くんからしたら…白崎さんもか。いい迷惑だろうけど」

 益子さんはそう、照れたように笑う。

 不意に、私の鞄の中でスマートフォンが鳴った。ちらりと確認すると、壱己からの着信だった。

 「電話?遠慮せず出てね。もうこんな時間なんだ。そろそろ私達も出よっか」

 益子さんはそう言ってくれたけれど、私は応答せずにスマートフォンをバッグにしまった。ここを出たら掛け直そう。そう思った。

 

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