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「俺にはずっと、お前しかいなかった」
私はわかってた。わかっていて、気付かない振りをしていた。でも壱己はもう、それを許さないつもりだ。
でも、でも。それでもまだ、私は悪あがきをする。
「…そんなの、昔の話でしょう」
長い沈黙の後で、私は小さくそう呟いた。でも壱己は、はっきりと首を横に振る。
「昔も今も、ずっとだよ」
ぽんと私の頭を叩いて、壱己はそのまま手のひらを私の頬へと滑らせた。
「悪かったと思ってる。あの頃の俺は、お前が抱えるには重すぎた」
親指で擦るように頬を撫で、どこか自嘲気味に、静かな笑みを浮かべる。
「そりゃ逃げたくもなるよな」
「ち…違うよ、そうじゃない。重いとかじゃなくて、ただ、私が」
幼すぎたんだ。
幼くて浅はかで、自分の器もわからないままに、壱己を丸ごと抱え込むつもりでいた。なのに自分では足りないと思い知るなり、簡単に放り出した。そして結局誰よりも深く、壱己を傷付けたんだ。
私は壱己に、壱己は私に、酷いことをした。
でも本当はお互いさまなんかじゃない。先に壱己をそこまで引き摺り落としたのは、私の方だった。
「お前と初めて寝た日…あの時、彼氏出来たってのが嘘だってことは、わかってた」
「…え…」
「あの頃、俺とお前が付き合ってるって思ってる奴ら結構いたからな。俺がいるのにお前に告って速攻玉砕した馬鹿がいるってわざわざ知らせてきた奴がいたんだよ」
「………嘘」
「そうじゃなくてもお前の棒演技なんてすぐわかる。そんな糞つまんねぇ嘘ついてまで拒否するくらい、お前は俺を負担に思ってたんだなって、そう思ったよ。だから大人しく引き下がったんだ。でも…」
壱己は諦めたように首を振って、私をやんわりと抱き締めた。
「俺ももう大人になった。お前がいなくても、ちゃんと一人でも立っていられる。お前に守られるだけじゃなくて、俺だってお前を支えることができる。だから今なら言えるんだ──灯里。俺はお前が好きだよ。他にどんないい女がいたって、俺はお前じゃなきゃ駄目なんだ。お前を誰にも渡したくない。髪の毛一本も触らせたくない。ただ隣にいてくれるだけでいい。お前がして欲しいことは何でもやってやる。一生、死ぬまで、死ぬほど大事にするから、だから」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
私は慌てて遮って、壱己の胸に両掌を当て力一杯押し戻す。
「…どうしちゃったの。そんな、急に」
そんな必死に、真っ直ぐに、らしくもなく。
焦る私をよそに、壱己は開き直ってフンと鼻を鳴らした。
「急じゃない。ずっと思ってたし言いたかった。前は…あの時は、お前が言わせなかったんだろ。俺は今な、長年溜めて込んでたもん吐き出してすっきりしてる最中なんだ。邪魔すんな」
「じゃ、邪魔?」
せっかく頑張って離したのに、壱己はもう一度ぎゅうと私を抱き締めた。鼻も口も壱己に埋もれてしまった。これは抱擁じゃなくて口封じだ。
「お前にはわかんねぇだろうな。今朝起きて、お前が隣にいて──俺は本当に夢かと思ったよ。死ぬ直前に見る幸せなやつ。それっぽっちのことで俺は、これが夢ならこのまま覚めなくてもいいって思うくらい、満たされたんだ」
私では壱己を満たすことが出来ない。そう知った時のあの途方もない無力感を、私はまざまざと思い出す。出来ないと、そう思っていた。
「灯里。頼むから、俺の傍にいて」
どうしてだろう。
私は壱己が夢見るような綺麗な人間では、決してないのに。
あの頃と違って今の壱己は、私が取るに足らない人間だってことをよく知っているはず。嫌なところを沢山見てるはず。高潔でも寛容でもない、ちっぽけでくだらない私。
そんな私が隣にいる、ただそれだけで。
満たされるのだと、壱己は言う。
「…馬鹿じゃないの」
本当に、馬鹿じゃなかろうか。
壱己も、私も。
「馬鹿なんだよ。わかってるよ。でもどうしようもないんだよ。しょうがねぇだろ」
私の呟きに、壱己はいきなり声を荒げた。
「お、怒らないでよ」
「怒ってねぇよ。好きだって言ってんだよ。いい加減ちゃんと聞けよ。お前がそうやって俺から目を逸らすから──」
「怒ってるじゃない!」
壱己につられて、私も声を荒げてしまう。
目を逸らさずに済むなら。ちゃんと目を合わせて向き合うことが出来たなら、どんなに良かったか。それが出来たなら、もっとマシな人間になっていた筈だ。壱己とこんな関係にならずに済んだ筈だ。
でも、出来ない。その理由を壱己は知らないから。何にも知らないから。
八つ当たりみたいな私の大声に、壱己は面喰らって黙り込む。私もしまったと思って黙り込む。二人して、しんと黙り込む。
あぁ、何か。何か言わなくちゃ。言わなきゃいけないことも言いたいことも聞きたいことも、山程ある。でも考えが纏まらない。
一番先に口をついて出たのは、私たちのこれからに関する疑問だった。
「…その、結婚とか、付き合うとかを…私が断ったら、私たち、どうなるの?」
「今度こそもう会わない。二度と」
壱己はきっぱりとそう言った。
「俺は会社辞めて、なんなら海外移住でもして、二度と会わないようにする。俺が傍にいたら、絶対お前の邪魔になるから」
海外移住なんて大袈裟な、とは思わなかった。壱己は本気だ。そのくらい本気でやってのける。
断ったら私は今度こそ永遠に、壱己を失う。
「……ずるい」
私は無意識にそう呟いていた。
それは誰に向けた言葉だったんだろう。散々曖昧な関係に甘んじていたのに急に白黒つけろと求める壱己にか。受け入れる覚悟もないくせに失うことは恐れる、私自身にか。
「それを狡いって思うなら、お前も結局、俺から離れられないって事だよ」
壱己は眉を寄せて、呆れたような困ったような傷付いたような救いを求めるような、複雑な微笑みを浮かべた。




