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それから私たちの関係性が今の状態に落ち着くまで、数年かかった。
壱己は数ヶ月単位、短ければ数週間で取っ替え引っ替え恋人をすげ替えて、空白期間に私を欲しがる。
でも壱己が強引に行為に及んだのは、あの日だけだ。それ以降は私が拒めば、ちゃんと引き下がった。けれど壱己がやめようとする素振りを見せると、今度は私の方が後ろ髪ひかれるような気持ちになって、最終的には許してしまう。壱己と体を交えると、赦されたような気持ちになる。自分が楽になりたくて、求められる度に抱かれた。
けれど回数を重ねるごとに、贖罪の感覚は薄れていった。私が快感を覚え始めたからだ。
何度もセックスをする内に、私の体はすっかり馴らされた。壱己はいつも必要以上に私が悦ぶように仕向けたし、私はその思惑にまんまと嵌った。
気持ち良くなってしまったら駄目だ。そんなものはもう贖罪の意味をなさない。
そう思っているのに、壱己が望めば素直に受け容れた。理性や感情より先に体が応じるようになっていた。
贖罪の意味を失った後に残るのは、ただの情欲だ。私は自分の浅ましさにいっそう打ちのめされた。
私たちはその浅ましさを掛金にして繋がっていた。昔はお互いの性差を煩わしく思っていたのに、今度は異性であるがゆえに繋がりを保っていたのだ。
そんな不毛で不安定な繋がりの中で、小さな変化のきっかけがあった。
私たちが拗れるきっかけになった日は壱己の誕生日だったけれど、蟠りが解ける最初のきっかけもまた、後の同じ日だった。
どんな関係になったとしても、例え完全な別離が私たちに訪れたとしても、壱己の誕生日だけは、私はきっと忘れない。遠く離れた場所で、あぁ、今日はあの日、壱己の誕生日だ──と、死ぬまで毎年、思い出すだろう。
それは確か、壱己に彼女が出来てしばらく音沙汰がなくなって、一ヶ月くらい経った頃だった。今年の誕生日はきっとその子が一緒にいてくれるだろうと思っていたのに、その前日に彼女と別れたと連絡がきた。
間が悪い。どうして壱己はいつも、一年で一番大事な記念すべき日に、災難に見舞われるんだろう。
壱己は今日、自分が生まれたその日を誰からも祝われることなく、一人でいるのかもしれない。過去の陰鬱な出来事を思い出しながら、真っ暗な場所で一人過ごしているのかもしれない。
そう思ったら、私の足は勝手に壱己の部屋に向かっていた。その日は日曜日だった。何か別の予定があって部屋にいなければ黙って帰る、それでいい。彼女がいなくても次の彼女候補とか友達がいるだろう。誰かしら祝ってくれる人といるなら、その方がいい。そう思っていたけれど、壱己は自宅に一人でいた。
ケーキを持って突然部屋を訪れた私を、壱己はものすごくびっくりした顔で迎えた。
「…お誕生日、おめでとう」
一言だけ告げて小さな箱を押し付けて、急いで帰ろうとした私を、壱己は慌てて引き留めた。腕を掴んで私を部屋に引っ張り込んで、しばらくの間もごもごと何か言いたげに口を動かす。そんな幼い少年のような仕草をする壱己を見たのは久しぶりで、私もなんだかむずがゆくなった。
「あの、一言お祝いしたかっただけだから。もう帰るね」
私は帰ろうとしたけれど、まだ壱己に腕を掴まれているままだった。壱己はケーキの箱を下駄箱の上に置いて、片手で器用に開けると中を覗き込んだ。
「二個ある」
「あ、うん。一個だけ用意して貰うの、なんとなく店員さんに申し訳なくて。二個くらいなら食べられるでしょ?」
「食ってけよ」
「え?あ、ううん。私はいい。すぐ帰る…」
「灯里。一緒に食べよ」
腕を掴んでいた壱己の手がするりと下りてきて、私の手をそっと掬い上げるように握った。
子供みたいな誘い文句と、遠慮がちな触れ方。その不器用な甘え方が、私がかつて抱いていた壱己に対する親愛の情を、ほんの少しだけ甦らせた。奔放に振る舞う壱己を仕方ないなと苦笑いでゆるしていた、あの頃の気持ちを思い出させた。
私が小さく頷くと、壱己は嬉しそうに微笑った。
「灯里、ありがとな」
その日私たちは久しぶりに、セックス抜きで一緒に過ごした。ぎこちなく、ぽつりぽつりと当たり障りない話をしながら、ただ一緒にケーキを食べて、お茶を飲んだ。帰り際、壱己はもう一度「灯里。ありがと」と呟いて、弱々しく私の手を握った。
その日を境に、私たちの間にある蟠りは、ゆっくり、本当にゆっくりと少しずつ、解れていった。
あれだけ親密になれたほどだ。元々肌が合うのだろう。
ぎこちなさが解消されれば、壱己といるのは気が楽だった。食事をしたり一緒にお酒を飲んで他愛ない話をする。それだけで別れる日が、少しずつ増えてきた。
大人になった壱己は、体力と知力を備え人脈に支えられ、どこから見ても頼もしい男になっていた。それに比べて私はろくに成長していない。相変わらず一人で縮こまりながら、女一人で生きていこうとする難しさに頭を悩ませていることが多かった。
壱己はなんだかんだ言って、よく私を助けてくれた。誰も頼る人がいない私が一人で身動き取れなくなっている時、何も言わなくとも察して力を貸してくれた。都合のいい話だけれど、いつしか私も、心のどこかで壱己を当てにするようになっていた。
このまま今までのことを忘れた振りをして、距離感を間違えずにいれば、私たちは友達でいられると思った。時々セックスするだけの、ただの友達で。そう思ったし、壱己もそれを望んでいるように見えた。
昔のような純粋な親愛の情とは違ったけれど、別の種類の信頼は芽生えていたと思う。
この人は私を見捨てない。
私がどんなに醜くても、どんなに歪でも。
私たちは変わらない。
お互いの弱い部分を呑み込みながら、このままつかず離れず、惰性で傍にいるのだろう。
きっといつか壱己には、一生ものの大切なひとが出来る。私はそれまでの時間稼ぎをするだけだ。これでいい、私たちはこれでいい。そう思うようになっていた。ここまで来るのに、随分時間がかかったのだ。
それなのに。
壱己は今になってまた、私たちの関係をがらりと変えようとしている。




