29
その後すぐに、例の先輩からもう一度考えてくれないかと改めて告白された。嘘を現実にする絶好の機会だと、私は即座に了承した。この時の私は、本当に自分と壱己のことしか考えていなかった。他人を身勝手に利用する罪悪感すら感じなかった。
壱己にもすぐに彼女が出来た。壱己と付き合いたい子なんて沢山いたから、簡単だっただろう。
私たちはしばらくの間、連絡さえ取らなかった。うっかり顔を合わせないよう、徹底的に避けた。同じ学校とはいえ学部は違う。遠くに壱己の姿を見かけると、私は急いでその場から離れた。会おうという意思がなければいくらでも会わずに済むものなんだと、私は変に感心していた。
半年ほど経って先輩と別れた。私が振られた。何ヶ月付き合っても手を繋ぐことさえ拒み、目も合わせてくれない。告白した当初は自分のことを好きじゃなくてもいいと思っていたけれど、やっぱりこんなの恋人とは言えない、辛い。先輩はそんなことを訴えていた。
全面的に彼の言い分は正しい。私は「ごめんなさい」と一言だけ謝って、あっさり別れ話を受け入れた。
そうして私は元通り一人ぼっちになった。壱己と親しくなる前と変わらない、沈黙に満たされた生活に戻った。
でも、壱己は変わった。それは遠目から見掛けるだけでもわかるほどの変化だった。実際にそう噂されているのを耳にしたこともある。
噂は概ね好意的なものだった。排他的だった壱己が、積極的に周囲と交流するようになった。無愛想だったのに笑顔が増えた。私と離れて明るくなった、と。
殊に女の子に対しては、壱己はそれまで随分つっけんどんな態度を取っていた。でもある時期から笑顔を見せるようになり、耳触りのいい言葉を選び、紳士的な態度を取るようになった。壱己はあっという間に、人に囲まれる存在になった。
良かったと、素直に思った。時折見かける壱己の笑顔は私から見たら嘘臭かったけれど、壱己が他の誰かに囲まれていて、いつも誰かが傍にいて、笑っていて、良かった。
私はといえば、久しぶりの孤独に、寂しさよりも安寧を感じていた。壱己と一緒にいる時は楽しかったり安心だったりしたけれど、それと同時に壱己が悩んでいれば私の気分も重たくなったし、疲れていないか困った事はないかお腹が空いていないか、気になることも多かった。そんな些細な気懸りを重荷に感じる私には、やっぱり一人が相応しい。身の丈に合っている、そういう安堵を感じた。勉強や就職活動に家事労働、やるべきことは沢山ある。それに打ち込めばいい、それだけのこと。
だけど私の部屋には、そこかしこに壱己の気配が残っていた。
壱己が勉強していたローテーブル。壱己がよく枕にしていたクッション。壱己が置いていった文庫本、壱己がいつも使っていたマグカップ。
ふと思い出してはその影さえも捨て去りたくなって、私は多くの物を処分した。壱己と過ごした時間がこびり付いたこの部屋に、このままずっといるのは良くない。
就職したら実家を出よう。そう決めて、残りの時間をやり過ごした。
すっかり疎遠になっていた壱己が突然私の家を訪れたのは、卒業を控えた年の秋のことだった。
無事に就職先からの内定を貰った私は、一人暮らしの資金の足しにとアルバイトを始めていた。
ある休日、朝から夕方まで働いて家に戻ると、玄関先に壱己が座り込んでいた。
連絡先は変えていない。でももうあれ以来、メッセージのやり取りすらなかった。今だって、何の知らせもなかった筈だ。
思いもよらない来訪に驚いて声も出せずに立ち尽くしている私を見上げ、壱己は「久しぶり」と薄く笑った。どこか荒んだ感じのする笑みだった。
壱己は怠そうに腰を上げて、私の前に立った。心なしか距離が近い。拳一つ分も空かない位置に壱己の胸がある。思わず半歩分、後ずさった。
「今日、親父さんいるの?」
「…ううん。土曜日はいつも、仕事で…」
「だよな。知ってる」
父の職場は不動産会社の営業所で、土日祝日も稼働している。休む意思があれば勿論休日にする事は可能だけれど、父は決して休もうとしない人間だった。散々うちに入り浸っていたから、壱己もそのことをよく知っている。
「なら、部屋入れて」
当たり前のように壱己はそう強請った。
拒否して追い返すことは出来ただろう。でもそうしなかったのは、壱己への罪悪感が強く残っていたからだ。何か困ったことがあって、相談に来たのかもしれない。忘れ物を取りに来たとか何かを借りに来た可能性もある。そもそも理由なんて何もなくても、壱己はしょっちゅう私の部屋にいた。さほど抵抗もなく私は鍵を開けて、壱己を招き入れる。壱己も慣れた様子で家に上がった。二階にある私の部屋に向かって階段を上りながら、壱己に訊いた。
「急にどうしたの?何か用があった?」
「やりたくてさ」
「うちで?何を?」
部屋に上がるなり、壱己はバタンとドアを閉めて、私の腕を掴んだ。乱暴に自分の胸の中へ引き寄せて、ぐっと顎を持ち上げる。
抗う隙はなかった。
本気になれば到底敵わない、男の力。それを使って、壱己は強引に私を壁際に追い詰め、キスで口を塞ぐ。咄嗟に唇をぎゅっと引き結んだけれど、壱己の舌は無理矢理に隙間を割って入り込んでくる。やりたい、が性衝動の意味だと、私はその時ようやく理解した。
まともに息が出来ない。苦しい。それを訴えたくて壱己の腕をバシバシ叩くと、ようやく壱己が顔を離した。私は肩で息をしながら、手で口元を覆って隠す。
「…なんで、こんなこと、するの…」
「別にいいだろ。初めてする訳でもないし、今は彼氏もいないんだろ?」
「…壱己に彼女がいるでしょ」
「別れたよ。どの女のことかわかんねぇけど」
上手く言葉が出てこない。途切れ途切れに私が訊くと、壱己は吐き捨てるようにそう告げた。
「灯里、お前が付き合えよ」
煙草とお酒の匂いが、微かに鼻をついた。口元を隠す私の手首を、壱己が無造作に掴む。背筋がつぅと寒くなった。初めて壱己を、怖いと思った。
「……嫌」
私は抵抗した。けれど壱己の腕力にはまるで敵わなかった。揉み合う内にベッドに押し倒された。壱己の手が服の中に入ってきて下着をずらし、胸を鷲掴みにする。
「やめて」
私は何度もそう言った。その度にキスで口を塞がれた。
首筋をきつく吸われて、じりっと痛みが走る。愛撫なんかじゃない。ほとんど噛まれてるようなものだ。痛みと混乱で、目尻に涙が滲んだ。
それに気付いた壱己が、唇と舌を使って労わるように涙の雫を拭う。その一瞬だけ、私はあの時の優しかった壱己を思い出した。
「灯里」
私を呼ぶ、渇いた声。
「抱かせて。抵抗しなければ酷くしないから」
その声が少し震えていることに気付いた途端、強張っていた私の全身から力が抜ける。
壱己だ。これは壱己なんだ。
私が何より大事にしたくて、それなのにひどく、傷付けてしまった人。
あの時あんなに丁寧に慎重に──決して私を傷つけまいと優しく触れた手が、今は私を、力尽くで押さえ込んでいる。
また、涙が滲んだ。
報いだと、そう思った。
これは報いだ。私が壱己にしたことに対する。
私は抗うのをやめた。
言った通り、私が大人しくなると壱己も別人みたいに優しい手付きになった。そっと私に口付けて、ゆっくりと愛撫を始める。
この日、壱己に何があったのかは知らない。
どうして突然私のところに来て、強引に行為を求めたのか。何か理由がある筈だけど、壱己は何も話さなかったし私も何も聞かなかった。
「灯里…」
私を呼ぶその切なげな声だけは、あの時と同じだった。
壱己も私も体中の水分を搾り出したみたいに全身濡れそぼって、それが汗なのか唾液なのか愛液なのかそれとも涙なのか、わからないくらいぐしゃぐしゃだった。
壱己は私が充分に濡れるまで、長い時間をかけて、手を尽くして待った。それでも私は、壱己が私の中へ入ってきた時、初めてセックスした時よりもずっと強い痛みを感じた。壱己が動いている間も、終わった後も、ずっと、ずっと痛かった。
けれど私は、心のどこかで安堵していた。
私は壱己にひどいことをした。
でも、壱己も私にひどいことをした。
これで私たちは、おあいこだ。
この痛みは私に相応しいもの。受けねばならないもの。
優しくしなくていい。乱暴にしていい。愛撫なんかいらない。もっともっと酷く、痛くしていい。
その痛みを噛み締めるほど、私は楽になれるのだから。




