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 灯里。灯里。 


 私を呼ぶ壱己の声が、遠くから聴こえる。

 肩を軽く揺すられて、はっと意識を取り戻した。目の前には焦ったような壱己の顔がある。

 目が合った瞬間、私は咄嗟に目を瞑り、夢の名残を振り切るようにぶるっと勢いよく頭を振った。

 「どうしたんだよ、急にほうけて」

 夢を読んでいる最中の私は、現実では意識を飛ばしている状態だ。突然無反応になった私に驚いただろう。壱己はほっとしたように息を吐いて、心配そうに顔を覗き込んでくる。その視線を避けるために、私は俯いた。

 「…ごめん。ちょっと考え事してた」

 「こんな時に?」

 壱己は腑に落ちない様子で、むっつりと口をへの字に歪める。不満げな顔。壱己の反応は当たり前だ。


 そうだよね。むっとするよね。壱己は真剣に話をしていたのに、他のことを考えてぼうっとするなんて。でも、こうなんだよ。こんな大事な話をしている最中でも、見つめ合えば、私は否応なく夢の世界へ飛んで行ってしまう。そういうおかしな人間なんだ。ちゃんと目を見て大事な話をすることさえ出来ない。今だって壱己の話を何も聞かないで、それどころか夢を覗き見して来たの。貴方が心の奥底に沈めていた傷も、秘めていた願望も、全部みんな、暴いてきたの。

 ねぇ、壱己。

 知らないでしょう。私がこんな、異常な人間だって。

 だから私は、教えてあげなきゃならない。たとえそれが酷い裏切り行為だとしても。

 

 「…まぁいいや。話の続きを…」

 「あのね壱己。私も話したいことがあったの」

 精一杯声を張って、壱己の話を遮る。滅多にない私の大きな声に、壱己は目を丸くして言葉の続きを呑み込んだ。

 「私、彼氏が出来たの」

 「……は?」

 私の唐突な告白に、壱己はぽかんとした。そしてすぐに眉間に深い皺を寄せて、何を言っているのかわからない、と表情で訴えてきた。

 「本当は昨日言おうと思ってたの。同じ学部の四年生の先輩でもうすぐ卒業で会えなくなるからって告白されてそれを受けたの。私も一度くらい誰かと付き合ってみたかったし嫌いじゃない人だし私なんかを好きになってくれる変わった人はもう現れないかもしれないって思って付き合うことにしたの」

 嘘と本当を織り交ぜた即興の作り話を、息継ぎもせずにまくし立てた。一度でもつかえたらボロが出そうで、勢い任せに告げた。卒業間近の先輩に告白されたのは本当。誰かと付き合ってみたかったっていうのは嘘、誰とも付き合うつもりなんてなかった。嫌いじゃなかったのは本当。好き嫌いどころか名前も知らない相手だったから。私を好きになる奇特な人ながもう現れないかもしれないって思ったのは本当。付き合うことにしたのは、嘘。その場ですぐに断っていた。

 始終、私はじっと俯いていた。だから壱己がどんな顔をしているのかはわからなかった。つむじの辺りに視線を感じる。突き刺すような鋭い目で、壱己が私を見ている。黙ったまま、私を責めている。

 「…その話が本当なら、何で俺と寝たの。俺、いいかって聞いたよな。彼氏いるなら良くねぇだろ」

 「…ごめんね。あんまり覚えてないの。酔ってたんだと思う。こんなことするつもりなくて…」

 これも嘘。ちっとも酔ってなんかいなかった。昨夜開けた缶の中身はほんの少ししか減ってない。理性も記憶もいつも通り、しっかり残ってる。

 重なった肌の熱さも震える声も、全部はっきり覚えてる。宝物みたいに私に触れる、壱己の優しい手も。本当は全部、覚えてる。


 壱己はじっと黙り込んでいる。胸の内で、複雑な感情が渦巻いているのがわかる。激しくくらい感情が、ぐつぐつと煮えたぎって膨らんでいくのがわかる。放っておいたら溢れてしまいそう。その前に私が、消さないといけない。それも、思い付く限り一番野卑なやり方で。

 「私ずっと壱己とばっかりいたから、恋愛とかちゃんとしたことなかったでしょ?でも興味はあったの。その、そういうことも彼氏が出来たらきっとするでしょ?ちゃんと出来るか不安で試してみたいって思ってて、だから…酔ってたし、練習するいい機会かなって思っちゃって、つい。でも壱己もほら、彼女が出来た時に役に立つかもでしょ?いつまでも私とばっかりつるんでないで、ちゃんと彼女作って楽しんだ方がいいよ。お互いもう成人おとななんだし」

 

 ほらね。

 私はひどい人間でしょう?くだらない人間でしょう?

 今まで私たちが掻き集めてきた、暗闇の中でかろうじて見つけた小さな星の欠片みたいな大切な大切なものを、簡単にひっくり返して、台無しにすることが出来る。

 壱己の心の、どこか子供のままのような無垢な部分を、あずかれるような器じゃない。傷んだ箇所を癒してあげる事は出来ない。

 私じゃ駄目だ。壱己はもっとちゃんと、貴方の心を守れる人を選ばなきゃいけない。

 お願い、壱己。それをわかって。


 「壱己はもてるし、すぐにいい人みつかるよ」

 「──そうだな」

 言い募る私の語尾に、壱己の淡々とした声が重なる。

 「お前がそう言うなら──そうするよ」

 壱己は私の方を見ずに、ベッドに散らばったままだった私の服を、ぽいとこちらに投げた。


 私はこの日、壱己を捨てた。

 何より大事にしたいと思っていたこの人を。二度と傷付かないで欲しいと願っていた筈のこの人を、自らの手で傷付けて、捨てた。


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