26
薄暗い書架。
埃っぽい空気に、ところどころ錆の浮いたスチール製の棚。そこにはどことなく荒廃した雰囲気があった。
乱雑に置かれた書物の背表紙を眺め、私はどれを読もうか吟味する。ふと目に付いたのは、奥の棚の一番高い場所にある重厚な本。私はそれを手に取って、黒い革張りの表紙を捲る。
その途端、私の周囲は暗転した。
少し経つと目が慣れてきて、今が夜だということがわかった。
夜の、薄暗い部屋。だだ広くて何もない部屋。小さな明かり取りの窓に水滴がついている。外は雨だ。じっとりとした質量のある闇が、この夢の世界を覆っている。
突然、どん、と大きな物音が聞こえて、私はびくりと身を竦めた。
目を凝らすと暗闇の中に、小さな人影があるのがわかる。まだ丸みを帯びた体を縮こめて、怯えた様子で蹲っている。
その男の子が恐れているのは、すぐ傍にある大きな影法師だった。人の形をしてはいるけれど、異様に大きい。闇の中でゆらりゆらりと蠢くその様は、醜悪だった。
影法師は成長していた。どんどんその黒い体を拡張し、体の輪郭は崩れてあやふやになっていく。
やがてその影は、大きな口をぱかっと開けて、怯える少年を飲み込んだ。
私が息を呑んだ瞬間に、場面が切り替わる。
ぱっと明かりが点いた、そこは誰かの家のリビングのようだった。
小綺麗な部屋だ。キッチンのカウンターには花瓶にいっぱいの花が活けられ、壁にも床にも目立った汚れがない。品が良く上質なインテリア、広いリビング。経済的に余裕のある家庭なのだと窺い知れた。
その真っ白な壁紙を、黒い液体が汚した。がしゃんと何かが割れる音がする。白いコーヒーカップの破片が、床に広がった。
汚された壁紙のすぐ傍に、一人の女性が尻餅をついていた。髪も服も乱れている。袖口から覗く二の腕には、いくつかの青黒い痣が出来ていた。
その女の前で仁王立ちをしているのは、身なりの整った中年男性だ。壁を背に力無くへたり込んでいる女性に向かって足を高く上げると、力一杯肩を蹴り付ける。それだけでは終わらず、ぐりぐりと足首を捻って女性の肩を壁に押し付け痛めつける。女は耐えきれず悲鳴をあげる。鈍い、抑えた声で。
私は思わず顔を背け、目を伏せた。
夢は現実離れした空想の物語の時も願望の時もある。でもこれは違う。現実に即した記憶なのだとわかった。だってこの世界の空気は、煮えたぎるような生々しい憎しみで張り詰めている。
やめろと怒鳴る子供の声が聞こえて、私は顔を上げた。
リビングに飛び込んできた少年は、男の脚に両腕で勢いよくしがみつく。まだ小学校低学年くらいだろう、幼いその子は、怒りを露わに男に立ち向かっていった。
けれど男は乱暴に壱己の頭を鷲掴みにして引き剥がし、華奢で柔らかそうな体を玩具のように蹴飛ばした。少年は鈍い音を立てて、ぶつかったダイニングの椅子とともに床に転がる。
したたかに打ち付けた腰をさすりながら、その子は立ち上がろうとする。けれど追い討ちをかけるように腹を思いきり踏み付けられて、げほっと咽せてえづきながら、蹲った。
それでようやく満足したのか、男は椅子を引いて腰掛け、ダイニングテーブルの上に置いてあった煙草に火を点ける。その間も少年は四つん這いで蹲って、げほげほと激しく咽せていた。立ちのぼる細い煙の向こうに、気味の悪い愉悦の笑みが見えた。
指に挟んでいる煙草が半分ほどの長さになった頃、ようやく少し呼吸を落ち着けた少年がよろめきながら起き上がろうとする。それに気付いた男は、その子の髪を束で掴んで床に引き摺り倒す。そして名案を思いついたみたいに手にしていた煙草をちらりと見て、気味の悪い愉悦の笑みを浮かべた。
───やめて。
私が両掌で顔を覆ったその時、ばちんとブレーカーが落ちるような音がして、また場面が切り替わった。
最初の場面に似た、薄暗い空間だった。でも今度はもっと、途方もなく広い。その真ん中で、長い長い階段が真っ直ぐに伸びている。傾斜が極端に急で、ほとんど梯子のようにも見えた。壁の高い位置に大きな窓が据えられている。ばらばらと強い音を立てて、激しい雨が窓を打つ。鋭い光がほんの一瞬、ちかっと強烈に辺りを照らし、直後、近くで鼓膜を切り裂くような雷鳴が轟いた。
階段の最上段に二人の人間が並んでいる。
再び雷光が瞬いて、二人の姿が束の間明るく照らされた。少年の面影をそのままに成長した壱己と、さっきの男。この人の顔を、私は一度だけ見たことがある。でもその時、この人は真っ白な顔で目を閉じていた──葬儀の日、ほんの僅かな時間だけ見た、壱己の父親だ。
二人の背後に人影が揺らめいている。また、影法師。けれど初めに出てきたものとは違って、ひょろりと細長く背が高い。人の形をゴムで作って、思いきり引っ張って伸ばしたみたいだ。その影は狡猾そうに二人の後ろを行ったり来たりしながら、やがて父親の背中にひたりと張り付いた。
影法師がゆらりと大きく揺れる。父親は影に押されて宙に浮き、はらりと紙切れのように落下した。
どすん、と大きな音がした。仰向けに転がった父親の体から、ごぼりと音がした。溶岩みたいなどろりとした赤黒い液体が、勢いよく溢れ出す。目や鼻や口、体中の毛穴から、ごぼごぼと泡を立てて溢れ出る。
際限なく流れ続けるその液体で、辺りは沼のようになった。傍観者である私の足元も踝まで浸っている。粘液質なその液体は、驚くほど冷たかった。
男の体は、やがてその液体に溶け出していった。彼を象っていた輪郭はぐずぐずに溶けて崩れ、沼に飲み込まれて消えた。
それを見届けた影法師は、愉しげにくすくす笑う。笑いながら、まだ階段の上にいた壱己の体を、優しい手つきでトンと押して、その沼へと落とした。ぱしゃん、と稚魚が飛び跳ねるような軽い音がして、壱己は沼の中に落ちた。
その沼には底がない。ごぽごぽごぽ。呼吸が出来ない。苦しい。浮き上がるどころか、指一本動かすことが出来ない。なす術もなく、ただ沈んでいくだけだ。
その液体は壱己を少しずつ侵食していく。皮膚がじわじわと爛れ落ち、指先から徐々に、輪郭が崩れていく。
ただ、落ちていくだけ。溶けて、崩れ落ちていくだけだ──全てを諦めて瞼を閉じた。
その時突然、壱己の身体は沼の底を抜けた。
辺りが真っ白になって、重力が軽くなる。下方に向かっているのは同じだけれど、落下ではない。浮遊だ。下方には地面が見える。そこはゆっくりと向かっていた。
さっきとは真逆の、あたたかく優しい光に満ちた場所だった。辺りは雲のように淡く白いものに包まれている。そこで壱己は、誰かにふわりと抱き止められた。
その人は壱己を抱いたまま、座り込む。自分より大きな壱己の頭をそうっと胸に抱いて、優しく背中を撫でた。
その人が手のひらを動かす度に、壱己の爛れた皮膚は癒されていく。体が輪郭を取り戻していく。
はらりと、その人の長い髪が壱己の頬にかかる。壱己はそれを指で梳くと、ひどく安堵した表情で目を閉じた。縋るようにその人の胸に額を埋め、やがて、静かな寝息を立て始めた。
私は信じられない気持ちでその光景を眺めていた。
壱己を胸に抱く女性。高潔で、慈愛と寛容に満ちた聖女のようなそのひとは──
私と、同じ顔をしていた。




