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事件が起こったのは、その数ヶ月後のことだ。
数日前から、爆弾低気圧が近付いてきていると報じられていた。深夜から翌朝にかけてこの地方は季節外れの台風さながら、災害級の暴風雨に見舞われると予報が出ている。夜が近付くにつれ雨風の勢いが強くなり、天候は荒れる一方だった。
必要なものは昨日の内に買い置きしていたし、学校も明日から連休だった。不要不急の外出を控え、家でじっとしていればいい。父親も天候を考慮して出張に出掛けるのを早めたらしく、昨日の内に出掛けて行って三日後まで帰って来ない。
こんな天気だから、さすがに壱己も来れなかったんだろう。いくら家が近いといっても、傘も壊れるレベルの雨風だ。でも今日は言わなきゃいけないことがあるから、後で電話でもしよう──。
そんなことを考えていた十九時過ぎ、インターフォンが鳴った。画面を確かめると壱己だった。キャップを被っていたけれど、傘も持たず雨晒しの様子だった。
私はひどく驚いた。こんな天気の日に、いや、天気が良かったとしても、こんな時間に訪ねてきたことなんてなかったのに。
慌ててドアを開ける。ずぶ濡れになった壱己は、ふらりとよろけるように玄関に滑り込んで、三和土の硬いタイルの上にどさっと座り込んだ。私は急いでバスタオルを持って来て、頭から被せてぐしゃぐしゃにして拭いた。
「どうしたの。こんな嵐の中…傘は?風邪ひく…」
「灯里。あいつ、死んだ」
言いかけた私を、壱己の虚ろな声が遮った。放り出された不穏の塊のような言葉に、私は手を止めて息を呑んだ。
「…多分、あれのせいだ。でも俺…」
壱己は顔をぐしゃぐしゃに歪めて、私の肩先に額を埋めた。壱己が何を抱えて、嵐の中ここまで来たのか。私には何ひとつわからなかった。
ただ、この冷えきって震えている体を温めなければいけないと思った。壱己の背中に両方の腕を回して、力一杯抱き締める。びしょ濡れになった壱己のシャツが、私の腕も濡らした。
壱己は一瞬びくっと体を強張らせたけれど、すぐに緊張を緩めて、私に体重を預けてきた。
「…昨日、帰ったら」
しばらくすると、壱己は掠れた声で話し始めた。
「父親、二階で騒いでて。怒鳴り声とか物が割れる音とか…また暴れてんのかって、急いで二階に上がって…そしたらあいつ、母親の腹蹴り上げてて」
何があったかは知らないが、興奮した父親は口汚く母親を罵ることに夢中で、壱己が帰宅したことに気付かなかった。部屋にあったスタンドライトを手に握り締め、母親の頭に振り下ろそうとした。すんでのところで、壱己が背後から首根っこを鷲掴みにして部屋の外に吹っ飛ばした。
その部屋は出てすぐに階段に続く。尻もちをついた父親は、階段の手前で一瞬ぽかんとしていたが、自分を睨みつける壱己を見てようやく状況を理解した。後ろは階段で後退出来ず、目の前には逞しく育った息子が立ちはだかり、自分を見下ろしている。身動きが取れないまま、ただ口だけを忙しなく動かして母親と壱己を罵倒していた。
「生活費も何もかも打ち止めにしてやるとか離婚だとか出て行けだとか…こっちは願ったり叶ったりだ、今度こそ警察呼んでやるよって言って」
尻ポケットの中に入れていたスマートフォンを出した時。
「やめて」と叫んだ母親が、壱己を突き飛ばした。
女の力とはいえ全力だったし、不意打ちだった。壱己は目の前で座り込んでいた父親もろとも、階段から転げ落ちた。
壱己は途中で手摺りを掴んで、数段下で脚を打った程度で済んだ。けれど父親は、もんどりうって一番下まで転落した。体を打ち付ける大きな鈍い音がした。
「けどその後、ちゃんと自分で起き上がったんだ。そのまま大人しく自分の部屋に引っ込んで…大した怪我はなかったんだと思った」
けれど翌朝、いつもの起床時間が過ぎても起きて来ない。母親が様子を見に行くと、声を掛けても一向に起きないという。慌てて呼び起こされた壱己が部屋に行ってみると、揺すっても軽く叩いても反応しない。
かろうじて弱い脈は感じた。すぐに救急車を呼んで病院に運んだ。然るべき処置を受けたけれど、その甲斐なく、昼前に息を引き取った。死因は頭部を強打したことによる脳の外傷だった。
「事故や転倒などの心当たりはありますか?」
医師に尋ねられた母親は、落ち着いた様子で答えた。
「昨夜階段で転んで…随分な高さから落ちたんです。昨日は大きな仕事が上手くいったと喜んで、お酒を飲み過ぎていて…足がもつれたんだと、その時は笑って、自分で立ち上がったんですけど」
ポロリと涙を落とし、慰め合うように壱己の手を取って握り締めた。
「ねぇ壱己、寂しいね。昨日はあんなに楽しかったのに」
バッグからハンカチを取り出し涙を拭く母親を、壱己は信じられない気持ちで眺めた。
全部、なかったことにしようとしていた。
自分を守ろうとした息子を階段から突き落としたことも。そして目の前で白い顔をして横たわる夫が、どうして階段から落ちたのかも。家畜のように腹を蹴り飛ばされたことも、虐げられた日々も。
何もかもなかったことにして、自分の都合のいい現実に塗り替えようとしている。
善き家族であった、善き妻であったと認められる為に。
壱己と夫を転落させたこと自体は、故意ではなかっただろう。でも結果的に自分の行動が、今目の前で横たわる人の命を奪った。その事実すら綺麗さっぱり忘れたかのように、何もなかったかのように振る舞った。
「……ぞっとした」
守るべき弱者だと思っていた母親は、こんなにも強かで、無情な人間だったのだ。
壱己はそれきり、何も話さなかった。
私も何も言わなかった。掛ける言葉が見つからなかった。何を言えば壱己を慰められるのかわからなかった。
けれど、外は暴風雨だ。こんな時に、こんな荒天の中、壱己を一人で帰すことは出来ない。
私は急いでお風呂に温かいお湯を張って、そこに壱己を押し込んだ。出てくるまでの間に簡単な食事を作って、それを無理矢理食べさせた後、私のベッドに寝かせて冬用の毛布を引っ張り出してきて被せた。ここで寝かせようと、そう思った。壱己は促されるまま、黙って私に従って全てをこなし、ベッドに入った。これでとりあえず壱己の、少なくとも身体の安全だけは確保出来る筈。そう思うとほんの少しだけ安心した。私はリビングのソファか、床で寝ればいい。予備の布団を取りに部屋を出ようとした私の手首を、壱己が掴んで引き留めた。
「灯里。ここにいて」
暴力的に吹き荒れる雨が、今にも硝子を割りそうな勢いで部屋の窓を叩いていた。ごうごうと耳障りに鳴る風の音が、私たちを世界から掻き消そうとしているみたいだった。
私は毛布を捲って、シーツとの隙間に体を滑り込ませた。狭いベッドから落ちないようにぴったりと寄り添って横たわり、脱力した壱己の手をきつく握り締めた。壱己の手は冷たかった。私の体温を全部あげたいと思った。全部あげるから、取り戻して。もう忘れたと言って私の頭を叩いた、あの時の手のひらのあたたかさを。
しばらくすると、壱己が静かな寝息を立て始めた。私は今日中に伝えようと思っていて、でもとても言えなかったことを、壱己の寝顔に向かってひっそりと呟いた。
「──壱己。お誕生日、おめでとう」




