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 捨てていいとは言っていたけど、まだまだ使えそうなのにその通りにするのもはばかられる。有名なスポーツドリンクのロゴが入ったバッグを畳みながら、私は考えた。

 私も制服だったから、同じ学校だということは壱己にもわかっていたと思う。でも私の顔なんて覚えていないだろうから、同じクラスだとは知らないだろう。話しかけても邪険にされそう。誰だお前と睨まれるかもしれないと思うと、気が進まない。

 下駄箱にでもそっと入れておけば、多分今日のことを思い出して回収してもらえるだろう。うん、そうやって返そう。

 そう思って翌日、放課後少しだけ図書室に立ち寄ったりして帰る時間を遅らせて、誰もいなくなるのを待ってから、壱己の下駄箱に駆け寄って、こっそり速やかにバッグを突っ込んだ。

 「おい」

 下駄箱の蓋を閉めたその途端に、後ろから声が掛かる。私はびくっと身を竦めた。

 「今、何入れた」

 剣呑な声におそるおそる振り向くと、壱己が眉間に皺を寄せて、私を睨み付けていた。

 「人の下駄箱に勝手に物入れんな。持って帰れ」

 「も、持って帰れって言われても」

 私は後退あとずさりしたけれど、壱己は大股で距離を詰めてくる。背は私よりずっと高いし、目付きが鋭いから圧が強い。こわい。

 私は慌てて下駄箱からさっき突っ込んだバッグを取り出して、壱己の前に突きつけた。

 「…元々、あなたのものだから」

 畳んでビニール袋に入ったバッグのロゴを見て、壱己は拍子抜けしたように「あぁ」と呟いた。すぐに状況を理解したみたいで、眉間に寄せた皺を緩める。

 「捨てていいって言ったのに」

 「も…勿体ないでしょ。まだ使える…」

 「ケチくせぇな。ただのノベルティだよ」

 ふっと口の片端で笑って、壱己は私が差し出したバッグを受け取った。

 「…昨日はありがとう。助かりました」

 かろうじてそれだけ伝えて、私はさっときびすを返す。用は済んだ。早くこの場から逃げよう。

 「白崎」

 一刻も早く立ち去ろうと駆け出した瞬間、背中から壱己の声が掛かる。私はぴたっと足を止めて、振り向かずに「はい」と短く返事した。

 「傘持ってねぇの?」

 「傘?」

 「雨降ってるぞ」

 「え」

 私の位置からは下駄箱に隠れて外が見えない。数歩移動して玄関のガラス戸越しに確認すると、壱己の言う通り、ざぁっと雨が降り始めていた。かなりの雨足の強さだ。

 予報では降り始めるのは夜だと言っていたから、傘は持っていなかった。しばらくやみそうにないし、校内で時間を潰して止むのを待つか、いっそ濡れて帰るか。迷っていると、肩越しに棒状のものがぬっと現れる。突然首の横に武器を突きつけられたのかと思って、私はびくっとした。

 「ないなら持ってけば」

 壱己が持っていたのは武器ではなくて折り畳み傘だった。昨日といい今といい、この人の物の渡し方は、何でこう荒々しいんだろう。

 「…大丈夫。家、すぐ近くだし」

 「嘘つけ。あのスーパーからもっと先なら二十分はかかるだろ」

 その通りだった。私はぐっと言葉に詰まる。昨日出会った場所は、既に学校から十五分以上離れていた。家がさらにその先となるとさらに時間がかかる。

 「……それを借りちゃったら、芦屋君が困るでしょ」

 「別にどうとでも。走りゃあ、お前よりは早く着くだろ」

 「大丈夫。いらない」

 私はぶんぶん首を振って、とりあえずこの場を離れようとした。でも胸の前に遮断機みたいに傘を下ろされて、行く手を塞がれる。

 「じゃあせめて昨日会ったとこまで入ってけ。この雨の勢いで制服濡らして帰ったら、明日までに乾かねぇよ。着るもんなくなるぞ」

 壱己はそう言って傘を開き、手招きした。

 その時の私は、正直に言えば、何だこいつと思っていた。子供のくせにこんな漫画やドラマのヒーローみたいな真似して恥ずかしくないのか、と。

 でもそんな行為をしながらも、私を睨む目付きはそのままだし圧も強いままだ。断りきれず、私は雨が避けられるギリギリまで隅っこに寄りながら、壱己と相合傘で帰った。


 結局その日、壱己は私に傘の面積を半分貸したまま家まで送り届けてくれた。

 道すがら、私が想像していたほどの気まずさはなかった。ごく普通の他愛もない会話をしながら帰った。

 お互い小学校の学区分けの境界近くに住んでいて、小学校は別だったけど自宅の距離は意外と近いとか、今年のクラス担任は不熱心な性格だから干渉されない楽な一年が送れそうだとか。普通のクラスメイトみたいに、そんな話をしていた。

 驚いたのは、壱己が私の顔と名前をその時既に把握していたことだ。

 「普通だろ。新学期始まって何日経ってると思ってんだ」

 「何日経っても、友達以外の人の名前なんて覚えないのかと思ってた」

 「俺の記憶力はニワトリ並か。馬鹿にしてる?」

 「してないよ。そうじゃなくて、あんまり他人に興味なさそうだから」

 「それはお前の方だろ。教室のど真ん中の席で堂々とぼっち貫いてさ」

 壱己はおかしそうに笑った。初めて話したようなものなのに、早速お前呼ばわり。加えて真正面からのぼっちいじり。不躾な人だと多少不愉快に思いつつも、あぁこの笑顔はこの人を遠くから見てる女子達が喜ぶやつだと、そう思った。

 「白崎も意外だよな。普通に喋れるんだな」

 「喋ってるでしょ、授業中」

 「そういうんじゃなくてさ。もっと会話が噛み合わなかったり、返事もしないで完全無視とか、そういう感じかと思ってた」

 会話がスムーズなのは、多分壱己が無遠慮な物言いをするせいだ。相手が無礼だと、こちらも余計な気を遣わずに話せる。横並びに歩かなければいけない状況で、二人の間にある傘の持ち手が目が合うのを邪魔しているのも、私にとっては気が楽だった。

 「…じゃあ昨日は、私だってわかってて助けてくれたの?」

 「当たり前だろ。全く知らない奴ならどんな困ってても放っとくよ。そこまで親切じゃない」

 そうだろうか。話したこともないクラスメイトに一本しかない自分の傘を貸そうとするのも、同じくらい親切だと思うけれど。そう思ったけど、口には出さなかった。なんとなく、親切ですねなんて言ったら怒られそうな気がしたから。

 「白崎の家、親いないの?」

 突然踏み込んだ質問をされて、私は少し狼狽うろたえる。

 「な、なんで?」

 「昨日の買い物の内容が所帯じみてたから」

 壱己の口調は、それまでの世間話と全く変わらず不躾ぶしつけだった。繊細な話題のはずなのにあまりに平然と聞いてくるから、私もつられて正直に答える。

 「父親はいるけど、母親はいない」

 「なるほどね。それであれか、家事とか代わりにやってんのか」

 「そう。芦屋君は、いるの?」

 「どっちもいるよ。いない方がマシなくらいの奴らだけどな」

 壱己は口の端を歪めて、皮肉っぽい笑みを浮かべた。さっき笑った顔とは全然違う。その表情ひとつで、壱己の家庭が何らかの問題を抱えていることがわかってしまった。


 「…色々あるんだね」

 「色々あるよな。お互いな」


 私たちはこのたったの数十分で、不思議なくらい打ち解けていた。その頃の私は何故だろうと思っていたけれど、今ならわかる。


 その頃の私たちは誰から見ても幼い子供で、それなのにある一部分においては、純粋に子供でいることをゆるされなかった。

 私も壱己も、事情は違えど似たような葛藤を抱え、その重みでバランスを崩し、傷んでもいた。

 私たちはこの短い会話で、ほんの少し、その傷を共有したような気持ちになっていた。生きていく上で誰もが必ず負う傷を、数えきれないほど何度も負う些細な傷を、お互いの中に見つけ、わかりあったような、慰撫し合ったような気になっていた。


 幼い私達が親しくなるには、それで充分だった。

 そのほんの数十分間で、私たちはそれぞれの心の片隅にひっそりと、互いの存在の置きどころを作り上げていた。ただのクラスメイトから友達というものに、関係を変えていたのだ。


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