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壱己と出会ったのは中学生の時。二年次のクラス替えで、同じクラスになった。
その頃の私は、夢を読んでしまうことを避けたい一心で、過剰なまでに他人と関わることを避けていた。教室にいてもじっと俯いて、名指しで声をかけられない限り発言しない。誰とも会話をしない。出欠確認以外一言も発さずに一日を終える、そんな日もあったくらいだ。
父親は元々仕事熱心な人だったが、母が家を去って以来、いっそう仕事にのめり込むようになった。深夜まで帰らない日も多かったし、休みの日もあまり家にいなかった。そもそもほとんど仕事を休んでいる様子がなかった。必然的に接触機会が減り、私は家でも学校でも、ほとんどの時間を一人で黙りこくって過ごした。
それでも時間を持て余すことはなかった。今まで母が一手に担ってくれていた家事や身の回りのことを、一人でやらなければいけない。その労力と、自分でやらなければ誰も代わりにやってはくれないという緊張感は、十代前半の私にとって決して小さな負担ではなかった。
その辛さを訴えて吐き出せる相手もいなくて、沈黙と鬱憤は、日々、確かな質量をもって私の中に蓄えられていった。今にも皮膚を破りそうなほど大きく育って、体の外まで漏れ出ていたことだろう。陰気で無表情、とっつきにくい私に、敢えて近付こうとする人はほとんどいなかった。今でこそ『地味で口数が少なくて人見知りで愛想のない人』程度の枠に収まる匙加減を覚えたけれど、当時は明らかに孤立して、浮いていた。
そんな私ですらクラスが違うのに顔と名前を知っているくらい、壱己は目立つ存在だった。
はっきりした目鼻立ちで、背が高く細身でありながらしっかり筋肉のついていると一目でわかる、出来上がった体つき。見掛け倒しではなく実際運動神経が良くて、スポーツをやらせれば何でも人より抜きん出ていたから、体育祭だの球技大会だのの行事では大人気だった。勉強熱心な様子は全くないのに学業の成績も良くら常に上位三十位以内に名を連ねていた。
でも彼が人目を惹く一番の理由は、そういったわかりやすい優秀さより、その早熟さにあったと思う。
その頃の壱己は、既に過渡期を終えある部分での完成を遂げた──そう思わせる雰囲気があった。既に大人と遜色なく仕上がっている顔立ちや体つきの影響は勿論あるだろうが、多分それだけじゃない。ちょっとした仕草や表情から覗く世間擦れした堂々たる佇まいからは、十代特有の幼さがあまり感じられなかった。同じ年頃の男の子達と比べて随分大人びて見えたし、制服を脱げば成人間近にも見えただろう。
壱己が注目を集めがちなのは、今でも変わらない。けれど当時と今とでは、他人に与える印象が全く違っていた。
今でこそ要領の良さと表面的な社交性を遺憾なく発揮して、有能だのコミュニケーション能力が高いだの言われている壱己だけれど、当時は口が悪くて意地が悪い、その粗野な本性を、もっと全面に出していた。出しているというよりは、敢えて誇張しているように見えた。
下駄箱に入れられた女の子からの手紙は開封もせずにゴミ箱行き。勇気を出して告白してきた子を冷たく「無理」と一言であしらった。腕っぷしが強く、二人がかりで絡んできた上級生を自分は怪我ひとつ負うことなく返り討ちにして、持ち前の頭の回転の早さと巧みな弁舌で理不尽な指導をする教師を言い負かしたりもした。
所謂、『ちょっと悪い』部類の少年だったと思う。
それでも壱己自身が自主的に誰かに絡んだり、校則違反を犯したりすることはなかったから、人気はあった。異性にキャーキャー言われるだけではなく同性からも一目置かれる存在で、数は多くないけれど親しい男友達もちゃんといる。その友人たちに向けては普段の高慢な態度とは落差のある邪気のない笑顔を見せ、すると、こっそり壱己を見つめていた周囲の女子がギャップに昂揚し、ざわめく。とにかく人目を集める少年で、所謂『モテ男』だった。
同じ学校にいながら、壱己は私とは別の世界に住んでいた。
だから二年生に進級して同じクラスになっても、顔と名前は知っているというだけで他に何の感情も抱かなかった。壱己の方は、新学期が始まって一ヶ月経ったその時でも尚、私の存在を認識していなかったと思う。少なくとも、私はそう思っていた。
そんな私たちに接点が出来たのは、その年の五月のこと。連休の名残りもすっかり消え失せて、例年より早い梅雨入りの兆しが見られ始めた、初夏の頃だった。
その日私は、学校からの帰路にあるスーパーで、トイレットペーパーとティッシュペーパー、米と味噌と醤油とキャベツ一玉とじゃがいもとその他諸々、などという無茶な買い物をして、何度も持ち替えたり荷物を一旦地面に下ろしたりしながら、徒歩十五分の距離を歩いていた。特売の日だったのと、ここ数日買い物をさぼっていたのと、翌日からしばらく天気が崩れるという予報を見ていたのと、全部が重なって無理な買い物をせざるを得なかった。
食料品に日用品。生活するのに必要なものは、なんて沢山あるんだろう。揃えるだけでも一苦労だ。こんな大変な思いをしてまで生きる価値はあるんだろうか──なんて思春期真っ只中の子供らしい物思いに耽りながら歩いている内に、突然エコバッグの縫い目がばりっと裂けて、底が抜けた。袋の中身がぶちまけられて、がごん、ずしゃっと、色んな音がした。
私は路上に広がった品々を、呆然と眺めた。片手の指にお徳用のトイレットペーパーの持ち手が食い込んで、じわじわと痛んだ。
どうしよう。ぼんやりとそう考えた。
通学用の鞄は教科書やノートで既にいっぱいだし、細かいものも多いから、腕に抱えて運ぶことも出来ない。
のろのろと緩慢な動きでしゃがみ込んで、路上に落ちたキャベツやじゃがいもや人参を拾い、ひとまず道路の端に寄せ集める。この後、どうしよう。どうやって持って帰ろう。あぁ、頭の働きまで鈍くなってきた。
途方に暮れていると、急に頭上から影が差した。背後からにゅっと腕が伸びて、潰れた卵のパックを拾い上げる。
「全滅だな」
見上げると、同じ学校の制服を着た背の高い男子が、腰を屈めて私を見下ろしていた。
それが壱己だった。
壱己はすっと立ち上がって、自分の通学バッグからナイロンのトートバッグを取り出す。中に入っていたジャージを引っ張り出して通学鞄に直接ぎゅうぎゅう詰め込むと、空になったバッグをぽいと私の足元に放り投げた。
「使い終わったら捨てていいから」
それだけ言うと、どろっとした卵白が外側にまで染み出した卵のパックを手に持ったたまま、早足で行ってしまった。
しばらくの間ぽかんとその後ろ姿を眺めていた私は、我に返って、壱己が置いて行ってくれたバッグに落とした品々を急いで詰め込んだ。私が持っていたエコバッグより一回り大きなそれに、荷物はぴったり収まった。




