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 二人とも夕飯がまだだったから、話が一段絡するとお腹を空かせて外に出た。ゆっくり外食するような時間でもないし、近くのコンビニでお弁当を買って帰る。

 部屋着にコートを羽織っただけの私と、仕事帰りのスーツ姿の壱己。夜の風が冷たくて壱己の後ろに隠れると、壱己は私の手を握ってぐいと引っ張って、自分の隣に引き擦り出す。

 「俺を風除けにするな」

 「だって寒いんだもん」

 「灯里の寒がりは筋肉量不足による基礎代謝の低さが原因だ。ちゃんとした食事と運動しろ」

 「何で急にアスリートみたいなこと言うの…」

 ひりつくような寒さの中、壱己の手のひらに包まれた左手だけが温かい。でもさっき、壱己の陰に隠れていた時の方が寒さを凌げた。そっちの方がいい、なんて考えていたら、壱己はするりと手をほどいて、自分のマフラーを外し私の首元にぐるぐる巻きつけた。その後また私の手を掴んで、自分のコートのポケットに一緒くたに詰め込んだ。

 小谷さんが私と壱己の何を知っているのかわからないけれど、もしこんな場面を見られたのだとしたら、確かに誤解してしまうかもしれない。壱己を好きだったのなら、嫉妬もするかもしれない。だって壱己は時々、大事な恋人を扱うみたいに振る舞うから。

 「もし小谷がまた何か言ってきたら、すぐ俺に言えよ」

 「言ったらどうするの?」

 「どうするかな。直接締め上げるか、外堀埋めて会社から追い出すか」

 「怖…」

 私がぶるっと身震いする振りをしたら、壱己は喉の奥で笑った。

 「なぁ灯里」

 「何?」

 「帰って飯食ったらさ」

 「うん」

 「抱いてもいい?」

 「……だ……?」

 びっくりした。

 壱己がそんなことをわざわざ確認してきたのは初めてだった。いつも、セックスがしたい時は、誘うような言い方や強引な態度で示すだけ。私に今更そんなことを改めて聞く必要はないと思ってる──そう、思ってた。

 私も私だ。その質問で壱己が私に与える快感を思い出して、お腹の底から欲望が湧き上がってじわりと疼く。

 けれどその裏側で、一瞬別のひとの顔が頭をよぎった。ほんの一瞬のことだけれど。


 あの人は、私と過ごした時間を覚えてすらいない。


 私も忘れたい。あの人のことを考えずにいたい。叶うなら、夢でももう会わずにいたい。私ばかりあの人を特別に感じ、思いを募らせるのは嫌だ。忘れたい。

 「いいよ」

 そう頷いた私を見て、壱己はどこか安堵したように、ポケットの中の私の手を、ぎゅっと強く握った。


 ♢♢♢


 座って。

 言葉少なに促され、私は黙ったままベッドの縁に腰掛ける。

 目の前に立った壱己は両手で慎重に私の頬を挟み、額に口付ける。シャワーを浴びたばかりの手のひらと唇は、仄かに湿っていてあたたかい。

 壱己は背中を屈めて、私の顔を持ち上げる。私が瞼を閉じると、唇が重なる。ゆっくり触れて、離れ、顎から首筋をなぞり、しるしを残すように、時折やんわりと噛んだり鎖骨のラインに寄り道したりしながら、胸のふくらみに行き着く。大きな手のひらが片方の乳房を包んで、もう片方を唇と舌で愛撫する。期待と、ほんの少しの怯えを抱いて、私はじわりと身を引いた。でも壱己が私の前にひざまずいて、片方の手でぐっと腰を支えて引き戻す。

 じっとしてて。

 壱己が囁くとお腹のあたりに熱い息がかかる。私は小さく身震いする。呼吸の気配がくすぐったいせいなのか、それともそのもっと下、二本の脚の間にある下着に隠された部分が、このひとに嬲られるのを待ち侘びているせいなのか。震える理由は自分でもわからない。

 体の中枢を担う血管を辿るみたいに、壱己の舌は全身の上から下へ、順を追って愛撫する。ぬめやかな舌の肌触りが、膝を、ふくらはぎを通ってくるぶしまで届いた時、私は思わず脚をばたつかせて逃れようとした。

 「ねぇ、そんなところまでしなくていいよ」

 私が拒むと、壱己は無表情で「何で」と返す。汚いからと訴えたのに、壱己は鼻で笑って無視した。

 壱己の肌は少しずつ汗ばんで、触れ合ったところから、私の皮膚にも浸透していく。こんなにも互いの体液が混じり合う状況で、今さら衛生面なんて気にしない。でも、普段誰の目にも触れない部位をさらけ出すのは恥ずかしかった。壱己がかかとを持ち上げて、爪先を口に含む。頭で感じる羞恥に反して、腹の底から欲望が滲み出てくるのがわかった。

 壱己は私をうつ伏せにベッドに転がして、覆い被さる。真っ黒な目が、仰向けになった私をベッドに縫い止めるように鋭く射抜く。その目にとらわれないように、私はぎゅっと瞼を閉じた。壱己の舌が、唇が、指先が、全身をくまなく濡らしていく。身に纏っていた最後の一枚、下着を脱がされて、私はもう体を丸ごと全部、壱己の前にき出しで差し出していた。

 壱己は驚くほど丁寧に、時間をかけて、私を昂らせる。どこか息苦しい、切羽詰まったみたいな空気。壱己にもきっと何か、忘れたいことがある。互いの体に埋もれるように交わって、自分の中にある空洞を塞ぎたいのだと思う。私たちはいつもそんなふうに、恋だの愛だのを遠くへ置き去りにして、二人して闇にくるまるように抱き合っていた。

 「灯里」

 枕に顔を埋めていた私の顎を引き寄せて、深いキスをする。奥まで舌が入ってきて、絡め取られて、呼吸が出来ない。そのまま強引に、裸のまま抱きすくめられる。

 「灯里…」

 切なげな壱己の声に、私の内側はただ震えて応える。ねぇ、早く。早く入ってきて。私の空虚を埋めて、満たして。

 でも壱己はすぐには来ない。指の腹で入口をほぐすだけで、いつまでも入って来てくれない。こんなに濡れて、受け容れる準備なんてとっくに出来てるのに。もどかしい。

 「壱己、もう…」

 もういい。早く来て。掠れた声でそうねだると、ようやく壱己は私の欲しいものをくれた。


 行為が終わると、すぐに壱己は寝入ってしまった。服も着ないで、私を背後から抱き締めたまま。

 「ねぇ壱己、起きて。終電なくなるよ」

 何度か声をかけたけれど、深い寝息を立てていて全く反応しない。無理矢理起こそうかとも思ったけれど、私も大概疲れていた。抗いきれない睡気ねむけが私を呑み込もうとする。


 白く、生温い沼の中に沈むように、私は眠りについた。


 その夜は、夢を見ずに眠った。


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