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画面に映る数字の羅列は、ただの記号だ。
そ集合を処理する作業には、数年かけて慣れた。何の感情もいらない、無機質な業務。虚ろな私の時間と頭を埋めるのには、ちょうどいい。
料理と一緒で、仕事が好きな訳じゃない。単なる時間稼ぎと、生活の糧を稼ぐ手段で、大きな問題が起きなければそれでいい。
でもきっと、私みたいな考えで仕事に向き合っている人ばかりじゃないんだろう。仕事中の天河さんは、よく楽しそうに検査結果やサンプルの成分について話している。夢の中で好きなものや場所について語る時に似た──…
私ははっとしてキーボードを打つ手を止めた。
部署に戻ってからずっとこうだ。
集中しようと思っているのに、気付けば天河さんのことを考えている。穏やかなのに、どこか薄い膜を貼り付けたみたいな微笑み。夢で会う時とは少し違う、あの雪を溶かすような生きた温度を感じる笑顔と現実の姿を比べて、自分勝手に失意に暮れる。駄目だ。このままじゃ仕事にも影響が出てしまう。
「備品を取りに行ってきます」
気分を変えようと、隣席の同僚に伝えて席を立った。備品用の小部屋は二階にある。わざわざ取りに行くのが面倒だと普段は思っているけれど、こういう時にはほんの少し気晴らしになる。
背の高いスチール棚に、所狭しと詰め込まれた多種多様な文具や紙類。その中から目当ての事務用品を選んで、台車に積んでいく。途中で制服姿の女の人が入ってきた。備品室は全部署共通利用する場所なのだ。
私は軽く会釈をしたが、その人ははっとしたように軽く目を見開いた。会釈を返したのか俯いただけなのか、はっきりわからない仕草だった。彼女はそのままさっと私の後ろを通り過ぎる。多少引っ掛かる態度ではあったけれど、気にしても仕方ないと自分の作業に戻った。
必要なものを揃えて部署に戻ろうとすると「あの」と少し離れた場所から声を掛けられた。さっきの女の人だ。
「経理部の白崎さんですよね」
にこやかに笑っていたけれど、どことなく不穏な気配が感じられた。とはいえ「違います」と言う訳にもいかないし、私はただ「はい」と短く答えて頷く。
小柄でふんわりと可愛らしい印象のその人は、メイクや服装によってはまだ学生と言われても違和感ないくらい、若く見える。制服を着ているということは派遣されて来ている受付の子だろう。社員は基本的にスーツかオフィスカジュアル着用の規則だ。
「今、美容液の社内モニターされてますよね?私も参加してるんですよ」
よく知ってるな、と思った。モニター参加者は公表されているものでもないし、私は他のモニター参加者なんて誰一人知らない。知ったところで「そうなんですね」としか返しようがない。共通の話題といえないこともないけど、そこから話を広げるほどコミュニケーション力は高くないし、仲良くなりたいとも思わない。
「いいなぁって思ってたんです。白崎さんの担当、天河さんでしょ?素敵ですよね、あの人」
羨望と褒め言葉の裏にあるちくちくした棘を、隠そうともしない。私が怪訝そうに眉を寄せると、彼女は口元の笑みを深めた。
「芦屋さんとも仲良しなんですよね。素敵な男の人達に挟まれて羨ましい」
突然壱己の名前が出て来たことに、ぎくりとした。「同期」や「元同級生」ではなく「仲良し」という表現を、この人は選んだ。まるで私と壱己の関係を知っているとでもいうように。
「モニターは他に適材がいないから頼まれただけだし、芦屋さんとはただの同期です。天河さんもモニター試験の担当をして頂いてるだけで、それ以外の交流はありません」
にこやかさな彼女に比べて、私の態度は随分つっけんどんだったと思う。彼女の挑戦的な態度、探るような視線。どちらも不快だった。
「そうなんですか?じゃあただの噂なのかなぁ」
口元に笑みを浮かべたまま、意味深に小首を傾げる。
「…お先に失礼します」
この部屋にも彼女にも、もう用はない。私はもう一度軽い会釈をして、備品室を後にする。
「はぁい。またお話しましょ」
気安い返事をした彼女が、ドアが閉まるまでじっと私の後ろ姿を見つめているのがわかった。
定時の少し前に、壱己からメッセージが届いた。今夜会えるかと尋ねる、いつも通りの短い文面。
それを見て、ようやく思い出した。
備品室で会った、受付の制服を着たあの子。多分、少し前に壱己と噂になっていた子だ。
私は社内でも交友関係が狭いから、噂なんてそうそう耳に入ってこない。たまたまエレベーターで乗り合わせた若い女の子達が喋っているのが聞こえてきただけだ。壱己と受付の派遣の子が、付き合ってるとかまだだとか時間の問題だとか。ただその時、その子と壱己がどういう関係かは知らないけれど、正式に付き合っている訳ではないのだろうとは思った。壱己は特定の彼女が出来ると、必ず私に報告してくる。彼女が出来たから私とセックスはしない、と暗に宣言するために。
そういえばその件で壱己に鎌を掛けたこともある。でもその時は心当たりがないと言っていたっけ。
壱己はそういう嘘はあまり吐かない。他に相手が出来た時、出来そうな時は、正直にそう言う。
あの子、にっこり笑っていたけれど、思わせぶりで、言葉の裏には私への悪意が感じられた。二人の関係がどんなものかは知らないけれど、多分あの子は壱己を好きで、でも壱己には相手にされなかったとか、そんなところだと思う。
私と壱己の関係をどこでどう知ったのか、どこまで知っているのかもわからないけれど、とにかく壱己と近しい存在である私が気に入らなかったんだろう。敵意の理由はきっとそれだ。
壱己からの誘いはちょうどいい。彼女に絡まれた話を聞かせ、巻き込まないでと言ってやる。うちに来て、と返信すると、壱己からはすぐに了承のメッセージが届いた。
夜になって、壱己が私の部屋に来た。
私の部屋にはダイニングテーブルなんて気の利いたものはない。食事をする時も話をする時も、長方形のローテーブルの前で横並びに座る。この位置関係だとあまり目を合うのを気にせずに済むから、気楽なのだ。
早速彼女の話をすると、壱己は「あいつか」と苦々しく顔を歪めた。それだけで、私の推察は概ね正しいのだとわかった。
「あの人、なんで私たちのこと知ってるの?どこまで知ってるの?壱己が何か話したの?」
矢継ぎ早に訊くと、壱己は深い溜息を吐いた。
「話す訳ないだろ」
「じゃあ何で」
「俺もわかんねぇ。どっかでお前といるとこ見られたか──」
「その子、私がモニターやってるのも知ってて、天河さんの名前も出したの。私が二人と噂になってるみたいな言い方で…壱己は何か知ってる?」
「灯里。ちょっと待って。俺が知ってる事は全部話すから、順番に」
子供をあやすみたいに頭を撫でられて、私はぐっと黙った。私もトーンを下げて、質問をやり直す。
「…あの子は壱己のことが好きなの?」
「まぁそう言われたよ。でも断ったし、個人的に会ったこともない。それに最初は俺じゃない。天河だよ」
壱己は渋い顔をして吐き捨てるように言った。
「最初って何?天河さんに何の関係があるの」
「あの女──小谷っていうんだけどさ。半年ちょっと前に派遣されてきて、最初に目ぇつけたのは俺じゃなくて天河だった」
この会社に来てすぐに、小谷さんは別製品の社内モニターに希望して参加した。その時たまたま別件で試験室にいた天河さんに、彼女が一目惚れしたらしい。
「けど開発部は別棟にあるし、受付と接点なんてほとんどない。企画部は来客が多いから受付とはそこそこ関わる機会があるし、開発部とのやり取りも多い。小谷はまず企画部の若い奴たらし込んで、天河を紹介してくれって頼んだ。けど天河は業務外で誰かと交流するタイプじゃないからさ。休憩中に社食に連れ出してもらって無理矢理相席したんだと。言ってみりゃ勝手にセッティングしたランチ合コンみたいなもんだよな。
天河さんとランチ合コン。何てそぐわない響き。相槌すら思い浮かばず、私はただもごもごと口元を動かした。
「小谷は強めに押してて、飯かなんかに誘ったらしいんだよ。けど天河が」
『ごめんね。君と食事する事に興味が湧かないんだ』
そう、笑顔で断ったらしい。
「…それは…なんて言うか…」
あの穏やかな口調で言われたら、余計に怖いかもしれない。
「取り付く島もねぇよな。元々天河は女っ気ないので有名だし、それで小谷も早々に見切りつけたらしいよ。そもそも顔が好みってだけだっただろうし──それで、次が俺だ」
壱己はつまらなそうにフンと鼻を鳴らした。
顔が好みって理由で、天河さんの次が壱己?
「よくわかんない。なんでそうなるの?顔が基準で選ぶんだとしたら、壱己と天河さんなんて全然タイプ違うじゃない」
「引っ掛かるの、そこ?」
「だって…」
繊細で中性的な雰囲気の天河さんと、鋭さと男っぽさが勝る壱己とでは、白と黒くらい違う。見た目だけじゃなくて、話し方も性格も全然違う。似ているところを見つけるのが難しいくらいだ。
「好みがどうこうって言うよりも、一般的にスペックの高いのがいいなんだろ」
「自分がハイスペックだって言いたいの?」
「上を見ればキリないけど、今の会社の中ではまぁそうだろ」
壱己は平然とそう言う。信じられない自信家だ、と私はびっくりするけれど、でも確かにその通りかもしれない。見た目も良くて器用に何でもそつこなす壱己は、昔から目立つ存在だった。社内の花形部署で安定した業績を上げる能力、恵まれた容姿に加えて頭の回転も早いし、表面上とはいえ対人スキルも高い。他の誰に訊いたって、多くの人が魅力的だと答えるだろう。
「小谷がどんな理由で俺と天河に目を着けたのかはどうでもいい。どうせ大した理由じゃないだろうしな。けど天河が駄目なら次は俺ってのは気に食わないし、そもそもああいう女は好みじゃない。しばらく纏わりつかれたけど、ちゃんと断ったんだよ俺は。それで終わりだと思ってた」
壱己は溜息を吐いて、私の肩に腕を回した。脱力した壱己の腕は、たった一本なのに随分重かった。
「お前にまで絡むなんて思わなかったんだ」
壱己は最初から、天河さんにどことなく批判的な態度を見せていた。今の話を聞いて、そういう理由かと納得した。天河さんが駄目なら次、と二番手扱いされたことへの不快感から来ているものだったのかもしれない。
「…さっきも言ったけど、小谷が何で俺と灯里の事を知ったのか、何をどこまで知ってるのかは俺もわからない。…けど、お前と天河の噂の出所は多分小谷だ」
「私と天河さんの噂?」
ぎくりとして、私は体を硬直させた。
「…この間、益子さんに言われたの。モニター業務に関することで不本意な思いをしたら知らせてって。何のことかわからなかったけど、それってもしかして、そのことなの?噂ってどんな…」
尋ねると、壱己は苦々しく眉間に皺を寄せて言い淀んだ。肩に回された腕に力が籠もり、ぎゅっと引き寄せられる。
「………糞みたいな話だよ。お前と天河が、モニタリングの時間使って試験室でヤってるのを見た奴がいるってさ」
あまりの内容に、私は言葉を失った。
体からするすると力が抜ける。壱己に肩を抱かれていなければ、床に突っ伏していたかもしれない。
「…何それ」
「でもその話は、噂ってほど拡がってない筈だ。拡がる前に諸山部長の耳に入ったんだよ。小谷と繋がってた企画部の奴が、部内の飲み会で話してて…部長、聞いた途端にブチ切れてさ。今後そんな根も葉もない噂話を口にしたら然るべき処分を下すって。あの人、部署は違うけど天河と組んで仕事する事多いから、なんだかんだ可愛がってるんだよな。元々馬鹿げたデマだし、もう鎮火してる。益子部長が知ってたのは…万が一お前の耳に入った時にフォロー出来るように、諸山部長が根回ししたんだろ。益子部長もお前を変に疑ったりしてなかっただろ?」
私は慌てて何度も首を縦に振った。益子部長の態度には、私に対する配慮しか感じなかった。
「小谷が俺と灯里の何を知ってるのかは…俺が探り入れてみるよ。まぁそんな心配すんな。たかが派遣の新人一人が流したつまんねぇ噂話でどうにかなるほど、適当な仕事してきた訳じゃないだろ。俺もお前も」
壱己がこんなふうに真っ直ぐに私を励ますのは、あんまりないことだった。壱己の腕の中に収まった体の半分が温かくて、無意識に寄りかかってしまう。
「…珍しくいいこと言ってる」
「珍しくはねぇだろ」
照れ隠しの私の言葉に、壱己は苦笑いした。ここへ来てからずっと渋い顔をしていたのがようやく緩んで、私の口もついでに緩んだ。しなくてもいい質問が口を突いて出る。
「ねぇ。その噂、壱己は信じたの?」
「馬鹿言うな、信じる訳ないだろ。お前はそんなリスク犯すような奴じゃない」
「そう?でも壱己、天河さんとのこと疑うようなこと、結構言ってた」
「…いや、それはお前の様子がおかしかったの、見てたから…」
「ちょっと信じたから、探り入れるようなこと言って私の反応見てたんじゃないの?」
「……違う。本当に信じちゃいないよ。いないけど……」
壱己は私の肩に額を乗せて、しばらくの間黙り込んだ。
けど、の後に続く言葉は、結局いつまでも、発せられなかった。




