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朝の光に瞼をちりちりと灼かれ、目を覚ました。顔を背けて眩しさから逃げつつ、ゆっくりと意識を現実に引き戻す。
夢から覚めて尚、鮮やかに蘇る。蝋燭に火を灯したような昂揚、他愛ない会話をする時の、胸の奥で絡まったものが緩やかに解けていく心地良さ。心の一部分を預けているような、安心感に似た気持ち。もっと笑って欲しい。もっと傍にいたい。もっと私を暴いて欲しい。強い、衝動。
夥しい感情の記憶が、生々しく鮮明な現実感をもって胸の表面に張り付いて、内臓が引き攣る。
こんな体験をしたことなんて一度もない筈なのに、何故か私は、この感情のひとつひとつに不思議な懐かしさを感じていた。
どうしてだろう。どこかで確かに──…
ベッドの中で忙しなく思考を巡らせている内に、アラームが鳴った。起きて、仕事へ行く準備をする時間だ。目まぐるしい夢だった。睡眠時間はいつもと変わらないのに、ひどく疲れていた。重い体を無理矢理起こす。現実に、日常に戻るために。
しばらくするとすっかり頭が冷えた。
所詮、ただの夢だ。私にとっては特別な夢だったかもしれない。でも彼にとっては眠りの中で完結するだけの、ただの夢だ。夢の中で交わした約束なんて果たされる筈がない。僅かな期待を打ち消すように、そう考え始めていた。
それなのに。
私はその夜も、気付けば天河さんの夢の中にいた。
「種を直接土に蒔くより、ある程度育つまで小さなポットで栽培した方がいいと思うんだ。祖父母はよくそうやって育ててた気がする」
そう言って天河さんは紙製の卵のケースを差し出してきた。
何でも叶う筈の夢なのに、一瞬で舞台を変える現実離れした技は使うのに、不思議なことに、植物の育成は現実と同じ手順を踏もうとしているらしかった。
ひとつの穴に七分目くらいの土を入れて、そっと種を置く。薄く土を被せて、種が流れないよう慎重に水をやる。
「発芽まで二、三週間かかるみたいだね」
「結構かかるんですね」
「十月十日かかる人間に比べれば早いよ」
縁側に置いた卵のケースを二人してじっと見つめるけれど、どれだけ見つめてももちろん変化はない。
「種蒔き、意外と簡単に終わっちゃったね」
時間を持て余した私達は、顔を見合わせて笑った。
「じゃあ今度は天河さんの好きなものを教えて下さい」
「僕の?」
「この種蒔きは私の希望だったから」
「あぁ、そうだったね。じゃあ──」
天河さんがついと顎を上げて空を見上げると、青く晴れ渡っていた空が、幕を下ろすように一瞬で夜空に変わった。
私は息を呑んだ。
燻みのない紺碧の空に、冴え冴えと光る無数の星々。今にも星が零れ落ちてきそうな、降るような星空だった。ひとつひとつの星が微かに震える音さえ、聴こえてきそう。
「この島を離れて初めて知った。同じ宇宙の筈なのに、目に映る空は全く違う」
天河さんの言うとおり、それは私が見てきた夜空とはまったく別のものだった。
「この島から見える夜の空が、僕は好きだった」
私はただ頷くしか出来なかった。
こんな景色は何かの奇跡としか思えなくて、言葉を失っていた。
「…私も、好きです」
しばらく後にそう呟くと、天河さんは黙ったまま、そっと微笑んだ。
♢♢♢
翌日も、その翌日の夜も、夢の中で天河さんと過ごした。
一緒に蒔いた種に水をやって、その後どこかに出掛けて行く。今日は天河さんの家から歩いて数分、林の中を流れる小川の岸辺に連れて来てもらった。
「意外とアウトドアですよね」
「そんなことないよ」
「私、こんな風に自然の中で遊んだことなんてほとんどないです」
「田舎育ちなだけだよ。今は休日もほとんど家から出ない」
昼の陽射しを乱反射する水面に足を浸して寛いでいたかと思えば、蛍見たくない?と天河さんの一言で、突然辺りが暗くなる。夜にしか咲かない花を見に行こう、と夜の森を歩いた後で、栗鼠を探しに行こう、と午後の安穏とした日向の中にいる。
天河さんは穏やかだけれど、奔放だった。私が頷いたり首を振ったりする前に、ころころと景色や時間や目的を変える。
振り回されている、といえばそうなのだけれど、私にはそれが楽しかった。居心地が良かった。
会議室や研究室で見た取り澄ました顔ではなく、少年のように動き回る姿を眺めているのが楽しかった。数歩後ろを歩く私を振り返り、笑顔を浮かべる彼を見ると安心した。
その気持ちにも、私は何故か懐かしさを感じていた。
私、こんなふうに思うの初めてじゃない。このひとが笑っていると嬉しくて、安心で、体の芯に小さな暖炉が置かれたみたいに温かくなる。そんなふうに感じたのはいつのことだっただろう。記憶を手繰っても、その細い糸はすぐにふつりと切れてしまってそれ以上追う事が出来ない。
夢の中では時間の感覚も歪むのだろうか。たった一夜が、まるで何日も続く長い休暇のように感じられた。
天河さんは自分のことをよく話した。現実にはわずか数日しか経っていないのに、片手の指で数え切れるだけの夜の間に、随分この人のことを知った気がする。
勿論、夢の中の彼の話が現実に忠実に即したものだとは思ってない。それでも別に構わない。嘘でも願望でも睡眠中の脳が編み出した架空の物語でも構わない。
会いたい。一緒にいたい。私はこの人ともっと一緒にいたい。
急速に育った感情は、切実で、誤魔化しようがなかった。会えない時間に身を焦がしながら、私は夜毎、眠りにつく時を待った。
そうしている内に、一週間が経った。明日は現実の天河さんに会う日。モニター試験の日だ。
私は少し緊張していた。
夢で会う天河さんと現実の天河さんは、同じようでいて別の人。それはよくわかってる。私のようにはっきりと夢の中の出来事や会話を覚えてはいないだろうし、夢を見たこと自体を自覚していない、つまりまるっきり夢の記憶がないことだって充分あり得る。でももしかして、もしかしたら。
前みたいに、君の夢を見たよ、と、教えてくれるかもしれない。頭のほんの片隅にでも、私と過ごした時間の断片を留めていてくれるかもしれない。
そんな儚い期待と、それが打ち砕かれることへの恐れ。最初から期待なんてしない方が楽だから、きっと何も覚えていない筈だと、何度も自分に言い聞かせた。それでも揺れ動く気持ちに疲れて、いっそ明日はキャンセルしようか、とさえ思い始めた。会って現実を突きつけられるより、文字通り、このまま夢を見ている方が幸せかもしれない。仕事だから放り出す訳にはいかないけれど、逃げる言い訳を本気で考えたりもした。
私の予想は大概、より悪い方が当たる。翌日になって、やっぱり今回もそうだったとわかった。
試験室で会った天河さんは、夢の話を一切しなかった。
先週と変わらない静かな表情と語り口で、検査結果の報告とか昨日深夜に雪がちらついていた話とか、当たり障りないことだけを話していた。白衣を着てPCを操作する天河さんは、夢の中より、ずっとずっと大人に見えた。
何も覚えていない。
私があんなにも求めていた夢の中の時間は、彼の中には一切存在していない。
その事実を突きつけられ、私はひどく空虚な気持ちで、自分の部署へと戻った。




