14
整然と並んだ小さな机と椅子。教壇と黒板。黄味がかった野暮ったいカーテンが、開け放した窓から吹き込む風に時折揺れる。
初めて訪れる場所なのに懐かしい気がするのは、私が通っていたところとそう大差ない仕様だからだろう。眠りについた私が訪れた先は、学校の教室だった。多分小学校だと思う。ひらがな表が張り出されているし、机や椅子もびっくりするほど小さい。
「こんなに小さかったかな。大人になってから見ると、玩具みたいだね」
彼の言う通り、小さな座面は大人にはとても使えたものじゃない。ただでさえ背の高い天河さんにとっては尚更だろう。だからだろうか。椅子ではなく机の上に乗り、窓を背もたれ代わりにして座っていた。
「来てくれたんだ」
目が合うなり、天河さんはそう言って微笑った。
始業前のような静謐の中に、早朝の澄んだ空気が流れる。窓から差し込む光の粒子が細やかな雪のように視界にちらつき、時折きらりと瞬いて溶ける。
私が訪ねたのか、彼が招いたのか。
わからない。でも今はただ、この清浄な空間にいられることを幸いに思っていた。
「ここへ来たのも久しぶりだ。ここはね、僕が通ってた小学校」
天河さんはぐるりと教室を見回して、懐かしそうに目を細めた。
「そうかなぁって、思ってました」
多分ここは彼の領域、彼の夢の中。彼にとって馴染んだ場所が舞台に選ばれるのは、当たり前のこと。
「君と友達の話をしたせいかな。この頃は僕にも友達らしき存在が多少はいたなって、少しだけ思い出してたんだ」
「ちゃんと友達がいたんですね」
「ちゃんとって言われると、どうだろう。単に毎日同じ教室で会って同じ時間を過ごすから、必要な会話や共同作業をしてたってだけかもしれない。今の同僚と同じ感覚かも。そういうのは友達っていうより、同級生って言うのかな」
「天河さんが友達って思ってたなら、友達なんじゃないですか」
「そうかな。どちらにしても、もう殆ど顔も思い出せない」
私たちは会話をしていたけれど、内容はどうでもよかった。多分、必要のないものだった。互いの声をささやかに響かせ合って、この時間と空間を共有していることを確かめられたら、それでよかった。
「だってこんなに綺麗な思い出になるような場所に、寂しい記憶なんてない筈です」
天河さんの夢に出てくる場所は、どこも息が詰まるほど美しかった。その場所を懐かしむ彼の穏やかな顔を見ても、目を背けたくなるような思い出なんて、何ひとつないんじゃないかと思えた。
「…いや…」
口元に穏やかな微笑を湛えたまま、天河さんは机からぶらんと下げた脚を、片方だけ机の上に立てて腕で抱えた。
「そんな事は、ないよ」
呟いたその声はとても小さくて、独り言なのか私に向けられたものなのか、どちらかわからなかった。
その呟きの余韻が消えると、景色がザッと変わった。砂の楼閣が崩れ落ちるように、教室はほんの一呼吸の間に綺麗に消え去って、気付いたら私と天河さんは別の場所──橋の上にいた。海に架かる長い橋だ。
私達が立っているのは中央辺りで、目を凝らせば何とか橋の両端を目視出来る。小さな島と島を結ぶ、長い橋のようだった。
天河さんは風景の突然の変化に驚いた様子もなく、欄干に両腕を置き体重を預けて、当たり前のように話を続けた。
「でも確かに僕は、感情の機微に鈍感な方だと思う。他人のものも自分のものにも、そうかな。寂しいって感覚を初めて実感したのも十歳を過ぎた頃だった。遅いよね」
さっきより随分強く、風が吹いていた。鼓膜が風に摩擦される音が耳の中で響いて、少しうるさいくらい。
「遅い…のかもしれないけど、それはいいことじゃないですか?子供の内は、寂しいとか悲しいとか、知らずに済めばそれはそれで…」
「そうだね。多分僕は、恵まれた子供だったと思う。僕の両親は身体的な理由で自然に子供を授かるのは難しいと言われてたみたいでさ。それでも僕が産まれた。一生に一度きりの天からの贈り物だって、母はよく言ってたよ。父も祖父母も同じ気持ちだったのかな。家族は皆、僕を大切にしてくれてた」
そうだろうと思った。天河さんから滲み出る空気は、大切に育てられた人のそれそのものだ。無意味に他人におもねることなく、標準から外れることを恐れない。それでいて、そんな自分を恥じて卑屈になることもなく堂々としている。一人でいいと言いながら、それに徹することが出来ない私とは違う。ありのままの自分を愛されたことのある人だけが持ち得る強さを持っている人だ。
けれどそれに続く天河さんの話は、意外なものだった。
「十歳になったばかりの頃に父が消えた」
「消えた?」
「うん。父はその頃まだ着工中だったこの橋を作る仕事に携わってた。完成の直前、夜中に仕事を思い出したと言って家を出て、そのまま帰って来なかった。そこから少しずつ、僕の家族は減っていった。寂しいっていう感情を知ったのはその頃からだ」
帰って来なかった。
どういう意味かわからなかった。何かの事故や事件に巻き込まれて亡くなったという意味か、夜逃げのようにそのままどこかへ行ってしまったのか。
聞くのを躊躇っている私に気付いたのか、天河さんはにっこりと微笑んだ。
「…別の話をしようか。せっかくこうして会えたんだから楽しいことをしよう。白崎さんは何が好き?」
くるりと体を反転させて、天河さんは欄干に背中を向けて肘を乗せた。唐突に質問を向けられた私は、答えに迷う。
「え…っと、私はこれっていう趣味がなくて」
「趣味じゃなくてもいいよ。好きな場所とか色とか食べ物とか」
「いきなりそう言われても、思い浮かばないです」
「じゃあ暇な時間は何してる?」
「し、資格の勉強したり…」
「あぁ、経理部だもんね。簿記とか?」
「は、はい。一級の試験、まだ受からなくて」
「難しいって言うもんな。聞いておいて申し訳ないけど、僕は白崎さんの仕事についてはさっぱりわからない」
私だって天河さんの専門分野はまったくわからないからおあいこだ。でも天河さんは、真剣に別の共通の話題を探そうと考え込んでいる。なんだか申し訳なくなってきて、私も必死に話題を探した。
「えっと…この間、会社の近くに新しく出来たカフェに、益子部長と行きました」
結局出てきたのは、もの凄くどうでもいい情報だ。だからどうしたというような話なのに、天河さんはそうなんだと笑ってくれた。
「あぁ。そこなら僕も行った事あるよ。諸山部長と柳原くんと打ち合わせに出た時に立ち寄った。ここだよね?」
天河さんが言うと同時に、景色は強い風が吹き荒ぶ橋から、静かなカフェの店内へと一瞬で変わった。いつのまにか私は、カフェの一席で天河さんと向かい合って座っていた。
益子さんと行った時に案内されたテラス席ではなく、店内のテーブル席だった。見回すと他のお客さんやスタッフもいて、小さな音量でゆったりしたBGMが流れていた。私達が座る窓際の席には、柔らかな陽射しが差し込む。軒下に植えられたオリーブの若木が枝を伸ばし、緑の葉影がテーブルの板面に揺らめいていた。
天河さんがこの席を使った時の記憶なのだろうか。細部まで正確に再現されているかどうかまではわからないけれど、違和感は何一つなかった。周りの人々は自然にざわめき、動く。彼らが皆、夢の中の存在だなんて信じられなかった。
「このカフェが好きなんだね。どのメニューが気に入ったの?」
「…あ…」
そう訊かれてようやく気付いた。あのタイミングでこのカフェの話を出したから、天河さんは私がこの店を気に入っているのだと思って、わざわざ連れてきてくれたんだ。
「好きっていうほど通ってる訳じゃないんです。一度来ただけで。でも私の好きなものって何だろうって考えてて…前に益子部長とここに来た時に、香菜みたいな癖のある野菜とかエスニック系のスパイスが好きっていう話をしたのを思い出して、それを言おうと思っただけで…」
しどろもどろに話した後で、余計なことを言ったと思った。天河さんは、私がここが好きだと思ってわざわざ場所を変えてくれたのだ。お気に入りの店だから嬉しいと、ただ喜んでみせれば良かった。
けれど天河さんは、私の後悔に気付いてもいない様子で「そうなんだ」と首を捻った。
「パクチーって…香菜のことだっけ」
「そ、そうです」
「好きなんだ?」
「はい」
「育ててみる?」
「え?」
育てる?今度は私が首を捻る番だった。
視界にざっと、砂嵐のようなノイズが走る。
まただ。
そう思うより先に、私は見覚えのある縁側の外に立っていた。前にも訪れた、天河さんの育った家の庭だった。
まるで魔法を見ているみたいだ。
ひとつ言葉を放っただけで、景色がまるごと、がらりと変わる。
「祖父母が庭で家庭菜園をしてたんだ。ここならそれなりに環境も整っているし、育つんじゃないかな」
自分の意思でやったことだから当たり前かもしれないけれど、天河さんは平然としていた。草木が繁る庭の中に裸の土が均されただけの、仕切られた一画があった。そこに座り込んで、指先で土をいじり始める。
「ここに種を植えよう。君の好きな香菜と…スパイスは難しいか。ハーブなら育てられるかな」
「…そ…育てるって言っても…」
ここは夢の中だ。植物の種が芽を出し成長するまで、継続的に世話をすることなんて難しいんじゃないだろうか。そう考えてから、ふと気付く。
夢だから難しい、じゃない。
夢だからこそ、難しいことなんて何もないんじゃないか。
ここは、望むすべてが叶う場所。すべてが許される場所だ。
「だから明日もまたここに来て。種を植えて水をあげて、一緒に育てよう」
ここではすべてが許される。だって目が覚めればただの夢。目が覚めればすぐに記憶も薄れ、消えてなくなる。
この儚い世界で、私は自由だ。
ささやかな昂揚が私の中に芽生える。
「──はい。また来ます。明日も、その次も」
毎夜、貴方に会うために。
言い終えない内に、夢の幕は引かれた。




