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仕事中の昼休憩は、大抵一人で過ごしている。夕飯の残りものや冷凍食品を詰めたお弁当を持参して、自分のデスクか社員食堂の片隅で食べる。お弁当を用意するのは節約の為でも健康の為でもなくて、先輩や同僚からランチに誘われた時に、断る口実にする為だ。でも今日は、いつまでもベッドの中で夢について考えていたせいで、準備の時間がなくなってしまった。
仕方ない。休憩時間になったらさっと席を立って外に出て、どこかで一人で適当に済ませよう。
そう思っていたのに、正午を知らせるチャイムの音が鳴った直後、あっさり益子さんに捕まった。
「近くに新しいカフェが出来たの知ってる?ご馳走するから付き合って貰えないかな。一人で初めてのお店に入るの苦手なの」
柔和な笑みで誘いかける益子さんを邪険にも出来ず、並んで会社を出る。
この会社は都心から少し外れた場所にある。そのうえ最寄駅からもそこそこの距離があるため、周辺に大きな建物やチェーン店は少ない。公園や街路樹の緑が目立つ、比較的閑静なオフィス街だ。
気温は低いけれど風はなく、日向を通ればそれなりに暖かい。上司と二人きりで苦手なランチ交流というシチュエーションに身構えていたけれど、陽の光を浴びて、ほんの少しだけ気持ちが和らいだ。
目当てのカフェは満席に近い混雑ぶりで、唯一空いていたテラス席に案内された。この真冬に室外か、と初めは躊躇ったけれど、ストーブが置かれていて寒さは案外気にならない。手入れの行き届いた植物に囲まれた中庭に位置していて、人目につかない位置にあるのも良かった。
「寒くない?」
益子さんはそう気遣ってくれる。仕事の話はせずに最近小鳥を飼い始めた話や先週観た映画の話を始めたのも、雑談で私の緊張を解くための心配りだと思う。
益子さんはいい上司だ。有能で冷静で的確、それでいて人柄は温厚で、気配り上手だ。仕事でミスをしても決して声を荒げず、穏やかに正しい対処方法を教える。仕事量が多過ぎて参っている時はさりげなく他の人に回したり自ら手助けしてくれたりするし、忙しいからって苛立っているところも見たことがない。経理部にはもっと歳上の社員もいるのに、それを差し置いて部長職を任せられるのもよくわかる。いい上司で、いい人。
そう思っているのに、私はこの人が苦手だった。いや、益子さんがどうこうじゃない。年上の女性全般に苦手意識があるのだ。
理由はわかってる。これも幼少期の経験のせいだ。幼い頃は大人の男性より大人の女性の方が関わる機会が多い。他人の夢を暴露する私を気味悪そうに見る先生やクラスメイトの母親の視線。羞恥と憎しみに歪んだユミ先生の顔。そして家族を顧みず恋に溺れた母の背中。ある程度年の離れた女性を前にすると、それらの影を重ねて勝手に萎縮してしまう。目の前の相手がいかにも温厚で好意的な笑顔で接してくれていても。疑う余地もない人格者で、理由もなく他人を蔑ろにするような人ではないと知っていても。勝手に気後れしてしまうのだ。
「モニターのお仕事はどう?負担になってたりしない?」
食後の飲み物が届けられたタイミングで、益子さんが不意にそう切り出した。
「あ…はい。週に一時間ちょっとなので、通常業務に支障が出たりは、特にないです」
「そう、なら良かった」
益子さんが小さなティーポットを傾けてカップに紅茶を注ぐと、ほんわりと湯気が立った。
「…でもね白崎さん。もし貴方が、その業務に関わった為に不本意な思いをするような事があったら、必ず知らせて。私の方できちんと対処するから」
益子さんがさらりと砂糖を落としてスプーンで混ぜると、やわらかく立ち上っていた湯気が掻き消される。その様を、私はじっと目で追った。
「…不本意、ですか?」
「もしもの話よ。何も問題がなければそれでいいの」
今日昼食に誘われた理由は、この店に来たかったからではなくてこれが本題だったんだろうと察することは出来た。けれど益子さんの意図するところは、さっぱり理解出来なかった。
「…はい…」
それ以上追求することも出来ず、遠慮がちにそう頷く。それきり益子さんが仕事の話をすることはなかった。
私が益子さんの言葉の意味を理解するのは、もう少し先のことだ。
「ランチ美味しかったね。夜メニューも良さそうだったなぁ。パクチーと海老のスパイスサラダロール、美味しそうじゃなかった?」
益子さんの朗らかな表情に、私も何となくほっとする。さっきの話も、私が思うほど深い意味はなかったのかもしれない。本来の業務に支障が出るなら考慮するとか、その程度の意味合いの話だったのかもしれない。
「それ、私も気になりました」
「白崎さん、エスニック料理好きなのね。さっきもガパオ頼んでた」
「癖のある野菜とかスパイスが好きで…」
「駅の向こうに多国籍料理のお店があるんだけど、そこも美味しいよ。夜しか営業してないんだけど、その内…」
小柄な益子さんを見下ろしながら会社のエレベーターに乗り込むと、休憩終了間際の混雑の中に、壱己の姿をみつけた。
顔を合わせるのは気まずかったけど、わざわざ降りるのも不自然だ。壱己の所属する企画部は三階。経理部は五階にある。ほんの僅かな時間だし、仕方がないからそのまま流れに沿って窮屈な箱の中に身を収める。壱己もちらりとこちらを見たけれど、お互い何も言わずふいと顔を背けた。
三階に着くと、一番奥にいた壱己が鮨詰め状態の隙間を縫って私の横を通る。
顔も見ないし振り向きもしない。でもその一瞬に私の手を拾い上げ、指に指を絡めてするりと撫でて離す、密やかな、掠めるような愛撫を残して通り過ぎた。
(馬鹿)
壱己は馬鹿だ。こんなの誰かに見られたら困るのは、壱己だって同じなのに。
それでも私は、心のどこかで安堵していた。
私たちは変わらない。
下世話な悪態を好き放題吐こうが苛立ちに任せて物を投げ付けようが、変わらない。進まない代わりに損なわれることもない。私たちの中に生まれる小さな亀裂は、寒い時期に指先に生じる些細なひび割れのようなもの。少し時間をおけばすぐに元通り治る。
そう思っているのが決して私の独りよがりでないことを、私に触れる壱己の指先が教えてくれる。
そのことに私はいつも、ほんの少しの罪悪感と、同じだけの安堵を覚えるのだった。




