11
壱己はさっと非常出口のドアを開け、奥へと身を滑らせる。私の肩を抱いて、ドアの向こうに一緒に引き込んだ。重い扉を音もなく閉め、壁際の角に私を追い詰める。
こんなところを、誰かに見られたら。
咄嗟に周囲を気にした私を、壱己は宥めるようにやんわり抱き締めた。
「大丈夫。非常階段使う奴なんてほとんどいない。万が一誰か来てもお前の事は見えないよ」
言われてみれば出入口からも階段からも死角になる位置にいるし、顔も体も私より大きな壱己の体に隠れている。
壱己の腕が私の腰に回される。体が密着して、厚手のコート越しでもしっかりとした体の質感が伝わってくる。
こんなところで、やめて。抱き締めたりしないで。
頭ではそう思っているのに、私を抱くことに慣れた男の体が、縺れて強張っていた思考と感情を、強制的に、ゆるりと解していく。壱己の腕に収まることで、私はようやく落ち着いて呼吸が出来た。そう認めるのは、少し癪だけれど。
「どうしたよ。変な顔して」
「…変?」
「変だよ。切羽詰まった顔してさ。会社で走ってんのも初めて見た」
非常用通路ではちょっとした声も反響するから、壱己は私の耳元で、囁くような小声で話す。
「どうした?」
問い質されても、話せるようなことなんて何もない。私はただ、言葉を濁して誤魔化すことしかできなかった。
「…どうもしない。ちょっと急いでただけ」
「そ。なら、いいけど」
私がそれ以上何も話すつもりがないことを悟ったんだろう、あっさり引き下がる。「どうもしない」が嘘なのもわかっているから、つまらなそうにふんと鼻を鳴らしていたけれど。
「…壱己こそ何してるの。社内でコートなんか着て」
「打ち合わせで外出するとこだったんだよ。そしたらお前が変な顔して走ってんの見掛けたから、何かあったのかと思っただけ。……でもまぁ、余計なお世話だったな」
私の腰をぽんと一度叩いて、壱己は体を離した。
「あんま時間ないからもう行くわ。まぁ何か話したけりゃ、また今度──」
ひらひらと手を振って去ろうとする壱己のスーツの裾を掴んで、引き留めた。
「今度じゃなくて、今夜」
「…何」
「部屋に来て」
壱己はすぐに返事をしなかった。
身勝手で横柄な誘いだ。自分でもそう思う。
でも私達はいつも、こんなものでしょう。
忘れたいことがあるから。何も考えたくない時があるから。
そういう時に私達は、頭を空っぽにして抱き合う。
壱己は短い溜息を吐いて、裾を掴む私の手をそっと解いた。一瞬軽く握り直して、また放す。
「…後でな」
壱己は振り向きもせず去っていった。ドアを閉めた後のギィと軋むような残響が、狭くて暗いこの空間にゆっくりと溶けて、消えていく。
私も、戻らなきゃ。
そう思うのに足は動かず、私はひとり、しばらくその場で蹲っていた。
♢♢♢
二十時過ぎに部屋のインターフォンが鳴った。
画面でちらっと姿を確認した後、応答はせず、玄関に向かい鍵を開ける。
開錠とほとんど同時に勢いよくドアが引かれ、まだ鍵に手を掛けていた私は、一緒に引っ張られて体勢を崩した。
壱己は予想していたかのように前のめりに倒れ込んだ私を抱き止める。そのまま玄関に滑り込んで、後ろ手に鍵を閉めた。
一言も発さず、靴も脱がないまま、壱己は私を壁際に追い詰める。強引に顎を引いて唇を合わせ、無理矢理舌を入れて口の中を弄った。私が上手く呼吸も出来ないでいる内に、裾を捲り上げて下着の金具を外そうとする。
「…やめて」
ようやく唇が離れた時、私は荒く乱れた呼吸の合間に、絶え絶えに非難がましい声を漏らすのがやっとの状態だった。
「なんでそんな、乱暴に、するの…
「『そんなこと』をしたくて、俺を呼んだんだろ」
壱己は意地悪そうに、薄く笑う。身を捩って逃げようとした私を、背後からお腹に腕を回し、力尽くで引き寄せた。そのままルームパンツの中に無造作に手を突っ込んで、ショーツの隙間から指を滑らせようとする。全身がカッと熱くなった。
そんなことをしたくて、呼んだ。そうだけど、そうじゃない。こんなふうにされたい訳じゃない。
ただ、肌に馴染んだ温度を感じて、いつもの手触りに触れて、いつもの快感に酔って──余計なことを、考えずにいたくて。
身勝手なのはわかってる。でも私には他に、忘れる術がないのだもの。
そう考えたら情けなくて、苦しくなって、目尻にじわりと涙が滲む。目敏くそれに気付いた壱己は、すぐに下着の中に埋めていた手を引っ込めた。
「何だよ、泣かなくてもいいだろ」
「だって…壱己が、酷くしようと、するから…」
一度堰を切った涙は、次々と溢れ落ちてしまう。私だって泣きたくなんてないけれど、どうしようもない。どうにもならない。
「…灯里。どうして欲しいか、ちゃんと言って。そしたらお前の望む通りに、してやるから」
壱己は私の頭をポンポンと叩いて、そのままするりと髪を束ねていたシュシュを抜き取った。手櫛で髪を梳いた後、項から五指を差し込んで、私の頭を自分の胸に招き寄せる。
「……乱暴にしないで。優しくして。頭も体もいっぱいになるくらい、気持ちよくして…」
震える声で、私は乞う。
「…わかったよ」
言った通り、壱己はちゃんと、その通りにしてくれた。
♢♢♢
「腹減った」
頭の上から短い呟きが聞こえた。背面から私を抱き締めている壱己が発したものだ。
「ご飯食べてないの?」
「そんな時間なかった。仕事だって持ち帰って来てんだよ。お前が来いって言うから…」
壱己はどこかぼんやりした、もやついた声で不満を垂れる。ちらりと窺い見ると、眉間に皺を寄せて目を瞑っていた。素肌に触れる壱己の肌がいつまでも熱いのは、散々抱き合った後の余韻だけじゃなくて、眠たいせいもあるのかもしれない。
「スープカレーならあるよ。壱己が来る前作ったの」
「普通のカレーがいい。何でお前の作る飯はいつも微妙に王道外してんの…」
「なら駅前の牛丼屋寄って帰れば。カレー百円割引中ってポスター出てたよ」
企画部の仕事量と残業が多いのは、社内では有名な話だ。私の一言で仕事を後回しにして来てくれたのかと一瞬情が湧いたけれど、寝惚けた声で文句を言われてすぐに同情心は失せた。つっけんどんに突き放すと、壱己ははっと瞼を開いて私を抱く腕にぎゅうと力を込める。
「お前の作ったの、食べる。食わせて」
「最初から素直にそう言えばいいのに。余計な一言が多いの、壱己は」
なんだかんだ言っていつも残さず食べる癖に。ぶつぶつ言いながら私は起き上がり、服を着る。冷凍保存するつもりで鍋にたっぷり作ったスープカレーは、ざっと私の三食分ある。でもお腹を空かせた壱己なら、すっかり食べてしまうだろう。
鍋の中の茶色い液体が、ふつふつと音を立てている。
料理は別に好きじゃない。メニューを考えて材料を買って然るべき手順で調理をして、食べ終わったら今度は調理器具や食器の片付けをする。さらに余った食材を無駄にしないよう、後日また別の献立を考える必要まで出てくる。こんな面倒な作業、とても好きになれない。
それでもそんな面倒な作業に帰宅後すぐに取り掛かった理由は、壱己が今夜ここに来るかどうかわからなかったからだ。
あの時壱己は「後で」と言っていたけれど、それが「後で行く」なのか「後で行くか行かないかを連絡する」なのか、分からなかった。もし来なかった時、一人の時間を悶々としながら過ごすのが嫌だった。何かに没頭して、壱己からの連絡を待つ時間を、不安や不快な感情ばかりが渦巻く頭の中を、埋めてしまいたかった。
そんな怨念じみた思いの込もったスープカレーを、壱己は目の前でぱくぱく食べている。私は壱己が来る前に食べ終えていたから、手持ち無沙汰にコーヒーを飲んでいた。
「普通のカレーが一番と思ったけど、これも結構うまいな」
「結構が余計」
「なぁ灯里。天河と何かあったろ」
軽口の続きみたいに何気なく、壱己が不意打ちで核心をついてくる。私は思わず手に持っていたマグカップを落としそうになった。
「…何言ってんの。そんなわけ…」
「舐めんな。こっちは隣のデスクに情報源がいるんだぞ。お前あの時、モニター試験の帰りだったろ」
壱己はスープカレーを綺麗に平らげた後、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に呷る。私は家でお酒は飲まない。壱己が勝手にうちに常備しているものだ。
「そうだけど、別に天河さんは関係ない。何もないよ」
「二人っきりで会った後に泣きそうな顔で会社走って、声かけりゃ泣きそうな顔で男欲しがって、何もないなんて通用するかよ」
壱己ははん、と皮肉っぽく笑う。
「あの王子様もお前にご執心らしいじゃん」
「ご執心?普通に仕事してるだけだよ。それの何が…」
「モニター試験、あいつわざわざ自分でやってんだろ。他のモニターは結果分析だけで、他の作業はアシスタントに任せてるらしいよ」
壱己の出してきた情報に驚いて、私は言葉を呑んだ。
髪を濡らすあたたかなお湯と、地肌に触れる繊細な手付きを思い出す。凪いだ海のさざめきに似た静かな声が、今ここにいる理由を忘れてどこかへ運んでいってくれる、微睡むような時間と空間。
あれは、私にだけ。
私だけに特別に与えられたものだった。
「試験室なんて別棟の密室使って、何しようとしてんだかな」
「やめて。天河さんはそんな人じゃない」
壱己の口が悪いのも下世話な邪推が激しいのも、いつものことだった。普段なら聞き流しているけれど、今はそれが出来なかった。
確かに壱己の言う通り、今日の私はおかしいと思う。けど天河さんは悪くない。私が勝手に夢のことで混乱していただけだ。それを壱己に詳しく話すことは出来ないけれど、事実、天河さんが私を害するようなことは、何ひとつなかった。誤解されるのは嫌だ。
「たかが二、三回会っただけで知った気になるなよ」
「仕事を口実に変なことする人じゃない。少し話せばそのくらいはわかるでしょ」
「そう?そんなこと言ったらお前はどうなの」
壱己は席を立ち、カシャンと音を立ててゴミ箱に空缶を投げ捨てた。
「お前だって他所から見たら、付き合ってもいない男と寝るような女には見えないだろ。俺とこんな事してるって知ったら驚くんじゃないの。会社の奴らも、あいつもさ」
私は思わず、手近にあったティッシュの箱を壱己に向かって投げ付けた。それは壱己の肘に当たり、ぽこんと間の抜けたな音を立てて床に落ちた。
「帰って」
「…はいはい。わかったよ」
壱己は肩を竦めて、そのまま元の席には戻らず床に散らかしたままのコートと荷物を手に取った。一度こうなったら、私の機嫌がそう簡単には戻らないことを知っている。
「あんま簡単に体許すなよ。手軽な女だと思われたら終わりだぞ」
最大級の余計な一言を残していく背中に、私は今度は台拭きを投げ付けた。




