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はっと目を覚ますと、見慣れた白い天井が目に映る。点けっぱなしにしていた照明の眩しさに目が痛んで、すぐにまたぎゅっと瞼を閉じた。時計を確かめる余裕はなかったけれど、部屋はしんとした重たい静けさに満たされていて、今が真夜中だとわかる。
嫌なことなんて起こらない、穏やかな夢だったのに、酷い悪夢を見た時と同じくらい、心臓が早鐘を打っていた。
何だったんだろう、今の夢は。
会話は現実と違わず自然に交わされ、触れた皮膚の感触も温度も、夢にしてはあまりに生々しかった。頬に触れた天河さんの手のひらのあたたかさも髪の匂いも、鮮やかに思い出せる。
跳ねるようにベッドから降りて、洗面所に向かった。給湯器が蛇口から出る水を温めるほんの僅かな時間さえ待てず、指先が凍り付くような冷水で顔を洗った。冷蔵庫から冷たい水を取り出して一気に飲んだ。震える理由を、寒さのせいにするために。
ベッドに戻って毛布を被る。勢いで一気に冷やし過ぎた体が温まる頃には少し気分も落ち着いて、さっき見た夢のことを冷静に考えることが出来た。
夢の只中にいながら、今、自分が夢を見ていることを自覚している。そういうことは時々ある。
それならば、夢に出てきた相手にこれは夢だと教えられることがあったっておかしくはない。
そう。だって夢なのだ。
現実では考えられない、あらゆる物事が起こり得る。それが夢。そこで何が起こったとしても、気に病むことなどない。
そう。そうだ。
次のモニタリングで天河さんに会ったら、さりげなく聞いてみよう。世間話を装って、出身地はどこかとか、海の近くに暮らしたことがあるか、とか。確かめてみたらわかるはず。夢の中の天河さんが話していたこと全部、私の空想だっていうことが。
そう自分に言い聞かせている内に、私はまた眠りに落ちた。今度は夢すら見ないほど、深い眠りだった。
♢♢♢
一週間はあっという間だなんてよく言ったものだ。喉に刺さった小骨みたいな気掛かりを抱えて過ごす日々は、ひどく長いものだった。
一週間振りに会う天河さんは、先週と何ひとつ変わらない穏やかな微笑みを浮かべ、私を試験室に迎え入れた。今日も寒いねとか深夜に雪が降るらしいとか、他愛もない会話が私を安心させた。
シャンプー台に横たわった私の髪を、天河さんが少しずつ濡らしていく。シャワーの温水が心地良くて、私の喉に引っ掛かった小骨も、ぽろりと取れて流れていきそうだった。
改めて確認するまでもない。やっぱりあれはただの夢──そう思い始めた矢先。
「君の夢を見たよ」
天河さんが、そう言った。
今がシャンプーの最中で良かった。顔の上に乗ったガーゼが、私の表情を隠してくれている。きっと今、私は、とびきりおかしな顔をしていると思うから。
「…私の、ゆめ…」
「うん。ほら、先週のモニター試験の時、白崎さんに痛い思いさせちゃったから。それが気になってたんだろうね。その日の夢に出てきたよ」
ガーゼ越しでは天河さんの表情は見えないけれど、声のトーンは至って普通で、ごくありふれた世間話をする時と何ら変わりなかった。
「…どんな、夢でしたか」
発声すると唇にかかったガーゼがかすかに震える。私の声は、少し掠れていたと思う。
「短い夢だったな。海で白崎さんに会って、少し話をした」
「……海」
「うん。昔、海の近くに住んでたことがあるんだ。その海に白崎さんがいて、この海は僕が住んでたところだって話したりね」
天河さんはあの日の夢を、そっくりそのまま私に伝えた。けど、最後まで聞かずとも、私にはもうわかっていた。
あの夜、私ははじめ、書架にいた。そしてそこに現れた扉を開けた。その扉を使って。
夢を見たんじゃない。おそらく私は渡ったのだ。この人の、夢の中に。
そんなことは初めてだった。
夢を読むことが出来ても、私はあくまでも傍観者。その世界に口出しも手出しも出来ない。だって私が読むのは誰かが見た夢。その人が過去に見た夢の記録だ。既に見終えた夢を読むだけだから、過去に干渉出来ないのと同じように、夢にも私という存在が影響をもたらすことは出来ない。
誰かが現在進行形で見ている夢を訪れ、会話したことなんて、今まで一度もなかった。
「白崎さん?」
声を掛けられて、私ははっとした。
「終わったよ。移動出来る?」
いつのまにか顔のガーゼが外されている。作業はすっかり終わっていたみたいだ。
天河さんは「大丈夫?」と首を傾げて、ぼんやりしている私の顔を覗き込もうとする。慌てて体を起こそうとしたところでうっかり目が合いそうになって、反射的に勢いよく顔を背けた。その拍子に、支えにしていた左腕がシャンプー台の椅子から外れ、ぐらりと体が傾く。
あっと小さな声を上げて態勢を崩した私を、天河さんが咄嗟に抱きとめた。
「この椅子滑りやすいから。気をつけて」
ふわっとした柔らかそうな髪から、涼やかな新緑に似た香りがする。あの夜、あの夢で感じたのと同じ匂いだ。
支えてくれた天河さんの腕に手を掛けて、縋るような態勢のまま、私は彼を見上げる。
一瞬だけ迷った。でも衝動が勝って、私は試した。
天河さんの淡い色の瞳を、瞬きもせずに見つめる。
見せて。
貴方の夢を、見せて。
瞳の奥にある世界を暴くように見つめ、私はすぐに夢の中に落ちた。
夥しい数の蔵書から一冊を手に取り、頁を開く。
───けれど、そこにはやっぱり何も記されていなかった。天河さんの書架にある本は、どれもまっさらな白紙のページばかりだった。
「白崎さん」
天河さんが私を呼ぶ声で意識を取り戻し、ぼんやりしてたと誤魔化した。その後どんな会話を交わしたのかは、まるで覚えていない。
試験室を出た私は、とりわけ急ぐ理由もないのに、駆け足で自分の部署に戻った。いっそこのまま走り続けて、どこかに逃げてしまいたかった。
頭の中で、いくつもの疑問と欲求が、絡み合い、縺れて渦を巻く。
読みたい。読めない。どうして。でも、夢で会った。どうして。わからない。どうして。
どうしてあの人は、他の人と違うの──。
混乱する思考を振り切るように走って、私は普段使わない非常階段へ通じる扉に向かった。ドアノブに手を掛けようとしたその時、誰かに強く肩を引かれた。天河さんが追いかけてきたのかと思って、心臓がぎくりと大きく跳ねた。
けれど足を止め振り向いた私の目に映ったのは、天河さんではなかった。
「灯里」
天河さんのそれよりごつごつして硬い、男の手。その先に続く筋肉質な腕。
「何があった」
人目を忍ぶように抑えた壱己の低い声が、私を現実に引き戻した。