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向かい合い、相手の目を見つめる。
茶色がかっているのか、煙るような薄墨色なのか、月も星も出ていない夜闇のように真っ黒なのか。虹彩の微妙な差異まではっきりと見分けられるくらいに、じっと見つめる。そうすると間もなく、私は夢に落ちる。
足元の地面がさっと取り払われるような感覚。一瞬で世界は移り変わり、気付いた時、私は書架に囲まれている。書架は見上げるほどに高く、精一杯爪先立ちして腕を伸ばしても、一番上の段には届かない。
けれどここでの私は重力から解放された存在だから、望めばふわりと浮き上がって、自由にどこへでも、指先を辿り着かせることが出来る。
書架は壁一面を覆い、奥へ奥へと続く。図書室の奥行きは深く、どんなに目を凝らしても果てが見えない。
棚には様々な厚みの本が並んでいる。絵本のような薄いものもあれば、辞典のような重厚なものもある。
私は知っている。ここにある書物の全ては、主の夢が記されたもの。
その人が生まれてから今日までに見た夢と同じ数だけ、ここに本がある。
本を開けば、そこには文字が並んでいる。夢を詳細に書き記した文字だ。
けれどそれを読む必要はない。読むより早く、映像と音声が浮かび上がるからだ。現実と見紛うくらいに精緻に再現され、流れ込出していく。
そうして私は、誰かが見た夢を知ることが出来る。
それが、誰にも話したことのない私の秘密。
♢♢♢
からりと乾いた音が鳴り、バルコニーに続く掃き出し窓が開く。ひゅうと吹き込んだ一筋の冬の夜風が、部屋の空気を一気に冷やした。
「さみぃ」
手早く窓を閉めた壱己は、自分で自分の肩を抱くようにして縮こまりながら、急ぎ足でベッドに戻ってくる。私がくるまっていた布団をぐいぐい引っ張って、強引に隣に潜り込んで来た。
お互いの髪が触れ合うほど距離が近付いて、壱己が纏う煙草の残り香がふわりと鼻先を掠める。どこか甘ったるいミントのフレーバー。鼻の奥に残る重たいその香りが、私は少し苦手だった。
「布団、横取りしないで」
「寒いんだよ。せめて半分貸して」
一枚しかないシングルサイズの羽毛布団をひとしきり奪い合った後、結局身を寄せ合って公平に半分ずつ使う事にする。
ついさっきまで熱いくらいに火照っていた壱己の肌は、今は触れるとキュッと毛穴が引き締まるくらいに冷えきっていた。
「そんなに寒いんなら、煙草なんて我慢すればいいのに」
「無理。冬は室内喫煙可にしない?」
「駄目。部屋に臭いつくの嫌だもん」
私がすげなく断ると、壱己は声を立てずに喉を鳴らして笑った。
ただでさえ冷え込む十二月の夜、煙草ひとつの為にわざわざ寒空の下に出るなんて、人生で一度も煙草を吸ったことのない私にはちっとも理解出来ない。私達の趣味嗜好や価値観が相容れないのは、今に始まったことではないけれど。
ふと、壁の時計が目に入る。十時半。昼間見た天気予報で、夜中から明け方にかけて雨が降ると報じていたのをふと思い出した。
「今夜雨降るって言ってたよ。そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
「嘘。俺、傘ない」
「ビニール傘あるから持って行っていいよ」
「それよりたまには泊めてくんない?そしたらもう一回…」
壱己は半身を起こして私の腰の下に腕を差し込み、ぐっと抱き寄せる。もう片方の手が頬にかかり顎も引き寄せられて、隙間なく深く、壱己の唇が重なる。私の口の中にためらいなく割って入る壱己の舌。さっき触れた肌はきんと冷たかったのに、そこだけは別の生き物みたいに熱をもっている。
唇が離れると、目が合う。
私はすぐにふいと顔を背けて、壱己の手を振り払った。
「駄目」
「冷てぇの」
そっぽを向いてちくりと私を責めながら、はじめから答えはわかっていたと言いたげに、壱己は笑う。
「泊めてくれる子なら他にいるんじゃないの。噂になってるよ。先月入った派遣の子といい感じだって」
「心当たりないね」
ふんとつまらなそうに鼻を鳴らして、壱己はくしゃりと髪を掻き上げた。
「んじゃ、帰る」
むくりと起き上がって、壱己ははだけていたシャツのボタンを留める。私もベッドの隅にくしゃくしゃに丸まったニットを指先で探り当てて引き寄せ、そろりと腕を通した。
ついさっきまで裸で抱き合っていた私達だけど、別に恋人同士という訳ではない。
中学時代から続く腐れ縁の友達。
元々仲は良かったけれど、昔はそういう関係じゃなかった。同じ部屋で二人きりで過ごしていても何も起きない。ただの友達。
そんな友人関係にセックスが割って入ってきたのは、二十歳そこそこの頃だ。壱己が求めて、私が応じた。それ以来、時々離れることはあったものの、ずるずる関係が続いている。
一応暗黙の了解はあって、どちらかに恋人がいる時はセックスはしない。けれど、私に恋人がいる時期なんて無いも同然だったし、壱己の恋愛はいつも短命で、保って三ヶ月。
恋人にしては少し疎遠で、ただの友達にしては頻繁。そのくらいの頻度で会って、その内の何度かは、体を重ねている。
けれどその行為は単なる憂さ晴らし。他愛ない鬱憤を解消するための行為で、恋人達がする愛情確認のそれとは質が違う。
私たちはそれぞれに、日常の不満や退屈や取るに足らない厭世を、腹の底で燻らせ、持て余しては持ち寄って、浅ましい欲に転化して吐き出したいと願う。そんな野蛮な心の内を、薄っぺらい皮膚で包み隠して体を交える。心のどこかで、互いを侮りながら。
私は壱己の、壱己は私の、狡さや愚かさや脆弱なところを、嫌というほど知っている。知っているがゆえの気安さが私達の間には確かにあって、だからこそ、付かず離れずの関係を長く続けていられる。
「またな、灯里」
玄関先まで見送って傘を渡すと、壱己はそれを受け取ってから私の頬にそっと触れて目を細める。
労わるような丁寧な手付き。名残惜しむようなその目は、どこか遠くにある懐かしいものに想いを馳せるようなあたたかさを孕む。
だけど私はその目の奥にある感情を深追いすることなく、また目を逸らした。
「…いつまで経っても目ぇ合わせてくれないのな」
それだけ言って、壱己は軽く手を振って部屋から出て行った。
仕方ないでしょ。
一人玄関に残った私は、深く息を吐いて心の中で呟く。
そう、仕方ない。見つめ合う訳にはいかない。
夢を読む私は、一度その目の奥に見える夢の気配に気付いてしまったら最後、理性のコントロールが効かなくなる。もっと奥へと潜り込んで、夢が記された本を開く衝動を抑えられない。
じっと私を見つめる壱己に合わせて視線を交わせば、きっと彼の夢を盗み見てしまう。誰にも言えない秘密、心の奥に秘めた願望、見られたくない恥ずかしい思い出、普段は隠している弱さ。その全てを剥き出しに晒している、眠りの中の風景を。
そんなものを覗き見るのは許されない。
だから私は目を逸らす。壱己だけじゃない。他の誰からも。