第5話:ヴァルザール帝国の城門と異国の温もり
馬の蹄が湿った大地を力強く蹴り上げるたび、エリスの体はレオンの腕の中で小さく揺れた。雨はすでに止み、灰色の雲は割れて、うっすらと夕暮れの光が滲み始めていた。
エリスは顔を上げた。森を抜けた先、視界に飛び込んできたのは、ルミナシア王国では見たことのない壮大な光景だった。
高くそびえ立つ石造りの城壁。幾重にも積まれた頑丈な石垣の上には黒い旗がはためいている。中央には狼の紋章が堂々と描かれ、夕焼けに照らされて血のように赤く輝いていた。
「……ここが……」
声にならない声が漏れた。
ヴァルザール帝国。ルミナシア王国で忌み嫌われ、野蛮だと蔑まれてきた国。しかしその実態は、彼女の知る世界とはまるで違っていた。
城門の前には兵士たちが整列していた。全員が獣人──耳や尻尾があり、犬族、虎族、兎族、猫族、鳥族、さまざまな獣人が混ざり合っている。
彼らは一斉に膝をつき、右手を胸に当てて頭を垂れた。
「ヴォルグ陛下、おかえりなさいませ!」
揃った声が響き渡り、エリスは思わず肩を震わせた。威圧感というよりも──誇り高い忠誠心。兵士たちの顔には尊敬の色が浮かび、皇帝レオンに向けられる視線はどこまでも純粋だった。
──誰も、私のような黒髪を蔑んだりしていない……。
思わず馬の上から辺りを見渡すと、犬族の兵士がエリスにちらりと視線を向け、素朴な笑みを浮かべた。後ろの兎族の兵士も柔らかく微笑んでくる。
その瞬間、エリスの胸に込み上げたのは、戸惑いと──じんわりとした温かさだった。
ルミナシア王国では考えられなかった。黒髪黒目の自分に向けられるのは、いつだって嫌悪と蔑みだったから。
「門を開けろ」
レオンの鋭い声に、城門が重たい音を立てて開かれていく。
馬はそのままゆっくりと帝国の都へと進んだ。
道の両脇には石畳が続き、建物は素朴ながらも堅牢で実用的な造りをしていた。木と石が巧みに組み合わさり、温もりと力強さが同居している。肉屋の前では犬族の店主が豪快に肉を吊り下げ、果物屋では兎族の少女たちが明るく笑っていた。鳥族の青年が軽やかに屋根の上を跳ね回り、子供たちが尻尾を揺らして遊んでいる。
「……穏やか、ですね……」
無意識に口をついて出たエリスの呟きに、レオンは微かに口角を上げた。
「お前が聞かされてきた“野蛮な国”とは違ったか?」
「……はい」
レオンが自国の評判を知っていることに少し罰が悪いと感じながらも素直に返すと、レオンは何も言わず、ゆっくりと帝国の中心部へと進んでいった。
ほどなくして、石畳の先に現れたのは黒曜石のような黒く輝く城。荘厳な門扉と銀の装飾が施され、城の頂には再び狼の紋章が掲げられている。
「ヴァルザール城だ」
城門前では再び兵士たちが整列していたが、彼らの視線もまたエリスに敵意はなく、むしろ興味深そうだった。
「皇帝陛下が抱いている……あれは誰だ?」
「まさか皇帝の……?」
小さな囁きが漏れるものの、誰もあからさまに詮索はしない。彼らの目はどこまでも穏やかだった。
「降りろ、歩けるな?」
レオンが馬から軽やかに降り、手を差し出した。
エリスは頷き、震える手で彼の手を取った。温かく、大きな掌が自分をしっかりと支えてくれる。地面に降り立った瞬間、足に力が入らずよろめきそうになるが、レオンが素早く支えた。
「しばらくは俺の元で保護する」
「え……」
驚くエリスの耳元にレオンは低く囁く。
「まずは身体を休めろ」
その言葉は、ぶっきらぼうだがひどく優しく聞こえた。
その後、レオンが城の使用人たちに命じると、兎族のメイドたちがすぐに駆け寄ってきた。小柄で可愛らしい彼女たちは、黒髪のエリスにも屈託のない笑みを向けた。
「お嬢様、お風呂の準備をいたしますね!」
「そのあとはふかふかのお布団でお休みください!」
エリスは唖然とした。今まで“使用人”とは殴られるだけの存在だった。しかし、ここでは“客”として丁寧に扱われている。
「……夢、みたい……」
思わず漏れた呟きに、レオンは肩をすくめた。
「夢なら、今夜はたっぷり寝ておけ」
そう言って立ち去るレオンを横目に兎族のメイドたちに連れられて静かに城内へと歩いていった。
彼女の新しい人生が──本当の意味で、始まりを告げた瞬間だった。