第4話:銀狼の皇帝と黒髪の少女
灰色の空から静かに雨が降り続いていた。森の奥深く、腐った魔物の死骸が転がり、瘴気混じりの空気が重く漂う。
壊れた馬車の中、エリスは泥と血の臭いに顔をしかめ、震える手で胸元を押さえていた。
目の前には一人の男が立っていた。
銀色の髪と琥珀色の鋭い瞳。濡れた軍服は一切の汚れなく整っており、背負う剣には魔物の黒い血が静かに滴り落ちていた。
──あの人は……誰……?
エリスの視線に気づいたその男は、ゆっくりと歩み寄ってきた。獣のようにしなやかで、力強い動き。それでいて、周囲に敵意はなく、不思議と安心を覚える気配だった。
「立てるか」
低く深い声が響く。エリスは反射的に震え、答えられずに首を横に振った。
男は静かにため息をつき、エリスの膝元まで膝を折ると、優雅に問いかけた。
「名は」
小さく掠れた声で、エリスは答えた。
「エリス……エリス・フォルセリア……です」
途端に胸の奥がずきりと痛む。ルミナシア王国のフォルセリア公爵家──自分を忌み嫌い、捨てた家の名だ。
男の瞳が一瞬だけ細められた。だが言葉は迷いなく返る。
「ヴァルザール帝国の皇帝、レオン・ヴォルグ・ヴァルザールだ」
エリスは一瞬言葉の意味が理解できなかった。
──皇帝? 獣人国の……?
ルミナシア王国では“獣人”は蔑まれる存在だった。帝国のことも“野蛮”だと嫌悪され、差別の対象だった。だが、目の前の男は──恐ろしく強く、美しく、獰猛さとは程遠い冷静な威厳に満ちていた。
「……このまま捨て置けば、魔物に食われるだけだろう。お前をヴァルザールへ連れて行く。異論はあるか?」
エリスは条件反射のように首を横に振った。皇帝という存在がどういう意味を持つのか、いまの彼女には理解できない。ただ、生きるため──この腕にすがるしかなかった。
レオンはマントを脱ぎ、エリスの肩にかけた。その布地は獣人特有の獣毛を編み込んだ防寒具で、雨の冷たさがすっと引いていく。
「歩けるか?」
「……い、いえ……」
「だろうな」
次の瞬間、レオンは一切の躊躇なくエリスの細い体を軽々と抱き上げた。少女は驚きに目を見開くも、彼の腕の中の安心感に体が自然と力を抜いていった。
近くには立派な黒馬が繋がれている。黒い鬣が濡れ、赤い目が光っている──獣人国、ヴァルザール帝国で特別に飼育される戦馬だ。
「帝国までは半日かかる。振り落とされるな」
「……はい」
エリスは小さく返事し、レオンの胸元にしがみついた。傷ひとつない軍服越しでも伝わる熱と、鋼のように鍛えられた体躯。しっかりと支えられている安心感。
馬が蹄を鳴らし、森を駆け出した。
エリスは恐怖を抱きながらも、この大きな腕の中でだけは、なぜか心が少しだけ安堵するのを感じた。