第3話:国境への道と不穏な影
馬車の車輪が泥道を跳ね、ガタガタと重たい音を響かせながら進んでいた。曇り空は相変わらず厚い雲に覆われ、時折、しとしとと冷たい雨粒が降ってくる。
エリスは固い木の座席に背を預け、浅く目を閉じた。体は冷えて震えていたが、涙は流れなかった。涙はとっくの昔に流し切って、もう枯れてしまったのだろう。
隣には誰もいない。馬車の外、少し離れた場所を馬に跨った兵士が一人ついてきているだけ。黒いマントに包まれ、顔の半分を覆面で隠したその兵士は、ここまで道中、エリスに一言も声をかけることはなかった。
──誰も、何も言わない。私はただ……捨てられただけ。
胸の中には鈍い痛みが渦巻いていた。生まれてから一度も優しくされた記憶はない。実母がいた頃の記憶はかすかで、義母カタリナの冷たい視線しか知らずに育ってきた。
けれど、ほんの僅かでも期待していた自分がいたのかもしれない。父レオナルドの目が、一瞬だけ揺れていたのを見たとき──。
「でも結局、お父様は私を捨てた……」
エリスはぎゅっと膝を抱えた。着せられているのは古ぼけた簡素な服。厚手の外套もなく、靴も底が薄い古靴だった。食事も簡素なパンと干し肉だけが袋に詰め込まれていた。
「貴族の娘」として育てられたはずの少女が、まるで家畜のように捨てられるのだ。
馬車は国道を外れ、徐々に草木の鬱蒼とした獣道に入っていく。道幅は狭く、馬車が通るたび枝葉が車体を打ち、ぎしぎしと不安定な音を立てた。
ふと、馬車の屋根から雫が滴り落ち、エリスの頬を濡らした。
──どこまで行くのだろう。
義母たちは「国境近くの荒れ地」と言っていた。地図で見たことがある。人間の国の東の端、獣人の国との国境に近い、ほとんど人が立ち入らない荒野。
人間と獣人の国は表向き交流はしているが、実態は冷たい関係だった。商取引のためだけに緩やかな国交を保っているに過ぎず、貴族たちの間では獣人は「獣の皮を被った野蛮な存在」だと嫌悪されていた。
──こんな場所に、私一人で生きろというの?
不安が胸を締め付けた。エリスは身を小さく丸め、浅く呼吸を繰り返した。癒しの力は小さな切り傷すら癒やすのに数分かかる程度。自分には生き抜く力も術もない。家族に捨てられ、守る者もいない。
身体の奥が、寒さとは違う震えで揺れた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。馬車は森のさらに奥へと進み、次第に辺りは薄暗くなっていく。いつしか日も傾いてきたのだろう。木々が夕暮れの光を遮り、灰色の世界が茶色に沈み始めていた。
その時だった。
──ガサ……ガサッ。
車輪の音の合間に、何かが草むらをかき分ける音が聞こえた。
エリスはびくりと背筋を伸ばした。音は一度だけではない。前からも後ろからも、何かが歩く、いや這いずるような気配がする。
馬車の速度が落ちた。御者の兵士が何かに気付いたのか、馬に指示を出して停止させた。
エリスが小さく窓の隙間から覗いたその瞬間、兵士の怒号が森に響き渡った。
「魔物だ!」
その言葉に血の気が引く。人間国の内陸では滅多に見ることはないはずの存在。獣のような牙と爪、時には奇怪な姿形を持つ恐ろしい生物。
馬が悲鳴をあげ、馬車が大きく揺れた。
兵士が剣を抜き、馬車の外で何かと激しく戦っている音が聞こえる。金属が打ち合う音、獣のような唸り声、木の枝がへし折れる音。
「う……あ……!」
馬車が一気に横に傾いた。何か大きなものがぶつかったような衝撃。エリスは座席から投げ出され、車内の板張りの床に打ちつけられる。
目を開けた時、馬車の扉が歪んで開いていた。窓の外には、腐ったような灰色の皮膚を持つ狼に似た魔物が、血の滴る牙を剥きながら近づいてくる。
──死ぬ……殺される……!
エリスの思考が真っ白になる。足が震え、動けない。頭では逃げろと叫んでいるのに、体がまるで石のように固まっていた。
その瞬間、鋭い斬撃音が鳴り響いた。
「……下がってろ」
低く、冷たくも鋭い声。
振り返ったエリスの視界に飛び込んできたのは──銀色の髪と、鋭い琥珀の瞳を持つ男だった。
濡れたマントを翻し、大剣を片手で軽々と振るい、魔物を一刀のもとに斬り裂いていく。まるで人間離れした動きで、次々と襲い来る魔物を切り伏せ、獣たちは地に伏していく。
「な、なに……?」
声にならない声が漏れた。体が震える。だが先ほどの恐怖とは違う種類の震え。
──あれは、ただの人間じゃない。
エリスの心にそう確信が芽生えた時、銀髪の男が振り向いた。濡れた前髪の隙間から、鋭くもどこか哀しげな瞳がエリスを見つめた。
そして彼は、短く吐き捨てた。
「厄介な場所に捨てたもんだな……」
その声に、エリスは小さく震えた。
──生き延びた。けれど、私の運命は、今この瞬間から変わり始めている──。