第2話:無価値の烙印
昼下がりの屋敷は静まり返っていた。雨は止んだものの、空には分厚い雲が残り、どんよりとした灰色が広がっている。
エリスは使用人部屋で薄い粗末な服を着替えさせられていた。義母カタリナの侍女が淡々と指示し、古ぼけた旅行袋を無造作に足元へ置く。
「余計な物は入っていないでしょうね。カタリナ様の慈悲で最低限の着替えだけは入れてあげたのよ」
意地悪く笑うのは侍女頭のルイーザだった。エリスは頷くだけで何も言わない。すべてが決まっていた。もう逆らう気力など残っていなかった。
廊下を歩くと、義姉たちの甲高い笑い声が聞こえた。
「ほんと見ものよねぇ、あの黒髪が家から消えてくれるんだから」
「これで私たちも安心して社交界に出られるわ。あの子が同じ屋敷にいるだけで評判が下がるんだもの」
レイナとセシルが満面の笑みで見送る。その言葉も、冷たい視線も、エリスの心に深く刺さることはなかった。ただ、虚無だけが胸に残っていた。
玄関には義母カタリナと父レオナルドが立っていた。父の顔には、ほんの少しの後悔の色が滲んでいたが──結局、目を逸らしエリスの目を見ることはなかった。
「お前の存在は……家にとって不名誉だ。だが追放する以上、今後この家の者を名乗ることは許さない。エリス、お前は今日限りで“家族”ではない」
乾いた声が玄関先に響く。エリスは静かに頭を下げた。礼儀だけは最後まで捨てなかった。
「お前の行き先は国境近くの『荒れ地』だ。そこは人も魔物も滅多に近づかない場所だが……お前のような者に相応しいだろう」
義母カタリナの唇は意地悪く歪んでいた。透き通る金髪に輝く碧眼、その美しさの裏には氷のような冷酷さが宿っていた。
馬車の後ろには、仮面を被った一人の兵士だけが付き添う。カタリナが雇った下級兵士、護衛という名目の追放係だった。
「さぁ、さっさと行きなさい。雨が止んだうちに出発するのよ」
突き放すように言い放たれた言葉に、エリスは小さく頷き、馬車に乗り込む。
誰も見送らない玄関。誰も手を振らない屋敷。
馬車の扉が閉まり、車輪が軋む音だけが虚しく響く。
──ああ、これが私の最後なんだ。
思わずエリスは膝に置いた手を握りしめた。悔しさも悲しさも、今はもう感じない。ただ、冷え切った心の奥で、かすかな予感だけが揺れていた。
──終わりじゃない。ここから何かが始まるような──そんな気がする。
けれど、その“何か”が何なのかを、エリスはまだ知らなかった。
揺れる馬車の窓から、遠ざかる屋敷を最後に見たその日。エリスの人生はゆっくりと変わり始めていた。