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追放聖女は獣の皇帝に愛される  作者: 宮野
第二章:芽生える想いと聖女の目覚め
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第17話:再会と、淡い気配

日はまだ昇りきらず、あたりは薄闇の静けさに包まれている頃、数頭の戦馬が城門に近づいてきた。


その先頭に立っていたのは、深紅の外套をはためかせたレオンだった。長きに渡る魔物討伐を終え、ようやく王都に帰還したばかりだというのに、その眼差しはすでに城の奥を見据えている。


「……なんだ?」


馬をゆっくりと下りた瞬間、微かに――だが確かに、ふんわりとした甘い香りが鼻をかすめた。

どこか懐かしく、どこか温かい、まるで春の花が一斉に咲いたかのような芳香。


レオンは眉をひそめ、辺りを見回すが、それらしい花も香料も見当たらない。

しかし、気のせいではない。それは城に足を踏み入れた途端により鮮明に感じられたからだ。


「(……なんだ、この香りは)」


不思議そうに目を細めたその時、城の奥からグラハルドが現れた。


「おかえりなさいませ、陛下」


「ああ……グラハルド、すぐに報告を頼む。討伐は終えたが、不穏な動きもあった。早急に対処を――」


「それより先に、お伝えしなければならないことがございます」


レオンの言葉を遮るように、グラハルドが少し険しい表情で告げた。

その目に浮かぶのは、いつもの冷静さに加え、微かな安堵――そして、深い驚きの色。


「……何かあったのか?」


「はい。三日前、ラシェル様の命が一時は危ぶまれる事態となりました。しかし――」


「しかし?」


「エリス様が、そのお力を使ってくださいました。結果……ラシェル様は目を覚まされたのです」


レオンの心臓が一瞬、打つのを忘れたかのように静止した。


「……目を、覚ました?」


「はい。自らの意思で立ち上がり、言葉を交わされるまでに回復されています。ですが、長い眠りの影響もあり、まだ完全ではありません。現在は慎重に様子を見ている状態です」


その言葉を聞いた瞬間、レオンは何も言わずに踵を返し、足早にラシェルの部屋へと向かった。





部屋の扉をそっと開くと、中から柔らかな日差しと、ほのかに漂うハーブの香りが漏れてきた。


そして、その奥。ベッドの上に腰かけた一人の少女が、顔をこちらに向けた。


「……お兄様っ!」


高く澄んだ、少女の声が部屋に響いた。そこにいたのは、確かにラシェルだった。


ベッドの上に背を預け、ふわりとしたブランケットを膝にかけたまま、レオンを見つめている。


その顔には、ほんの少し痩せた影があるものの、かつての面影がはっきりと戻っていた。頬に赤みが差し、目には生き生きとした輝きが宿っている。


「……ラシェル」


思わず、レオンの頬に微笑が浮かぶ。それは戦場では決して見せない、兄としての、家族としての、温かな笑みだった。この瞬間を、どれほど夢見たことか――。


「無事で……よかった」


「わたしも……こうしてお兄様と、またお話できるなんて……夢みたい」


ラシェルの声はまだ少しかすれてはいたが、はっきりとした意志と喜びに満ちていた。


「体はどうだ?痛みはないか?」


「ええ、大丈夫よ。寝てばかりいたから、ちょっと動くとすぐ疲れちゃうけど……でも、ちゃんと自分で座れるし、歩く練習もしてるのよ」


「そうか……」


レオンはベッドの傍まで歩み寄り、椅子に腰を下ろす。

ラシェルの頬に手を添え、改めてそのぬくもりを確かめるように目を細める。その温かさに、胸がいっぱいになった。


見守るような視線で、ラシェルの姿を見つめた。


確かに、長年の眠りの影響で身体はまだ華奢で、少し頼りない印象もある。だが、肌には血色が戻り、何よりもその瞳が、確かな「生」を語っていた。


「……お兄様」


ラシェルが、ふと真剣な目を向けてきた。


「わたし、全部聞いたの。わたしのことを助けてくれた方のことも……そして、お父様とお母様のことも―――」


レオンの表情が、わずかに翳る。だが、ラシェルは首を振った。


「もちろん、悲しいわ。……とてもね。でも、わたしの命を守ってくれたって分かってるから……わたしは、泣いてばかりじゃいけないの。民の上に立つ者として恥じないように、しっかりと生きるわ」


力強いラシェルの言葉に、レオンは目を見開く。まだ子供だと思っていたが、皇族としての品格が見えた瞬間だった。


「あと、助けてくれたエリス様にも、ちゃんとお礼が言いたいわ。まだ、一度も会えていないのよ。気づいた時にはもう、お部屋に戻っていたみたいで……」


その言葉に、レオンは頷く。


「体調が問題なさそうなら、明日、会わせよう」


「本当?やったぁ!」


ラシェルは小さく手を叩きながら喜んだ。レオンも、そんな妹の姿に自然と笑みがこぼれる。


だが、次の瞬間。


「ねえ、お兄様」


ラシェルは、少しだけ顔を近づけて、にやりと笑った。


「エリス様って……お兄様の恋人なの?」


レオンの目が一瞬見開かれ、すぐに眉がぴくりと動く。


「……違う」


「ふーん?」


「本当に、違う」


「でも、否定するとき、ちょっとだけ残念そうだったわよ?」


「……お前な」


レオンが小さく溜め息をつくと、ラシェルはいたずらっぽく微笑んだ。


「まだお話でしか聞いてないけど、お兄様と、エリス様……お似合いだと思うのよ」


その言葉にレオンは返す言葉を失い、わずかに目を伏せる。そして、立ち上がると、軽くラシェルの頭を撫でた。


「そういうことを言う元気があるなら、もう安心だな。しっかり休め。無理はするなよ」


「うん……ありがとう、お兄様」


ラシェルの笑顔は、まるで春の陽だまりのように柔らかく、あたたかかった。


レオンが部屋を出ると、あの香りが再び鼻先をかすめる。その香りは、まるでエリスの温もりのようで――


彼は胸の奥が静かに熱を帯びるのを感じながら、歩みを進めていった。


向かう先は、ただひとつ。


「……エリス」


小さくその名を呟いたレオンの背に、やわらかな春風が吹いたような気がした。





ラシェルの部屋を後にしたレオンのもとに、ひとつの足音が近づいてきた。重みのある、落ち着いた足取り。その主の名を、彼は振り返る前に察していた。


「……グラハルド」


「陛下。お時間、よろしいでしょうか」


真面目一徹なこの国の参謀は、慎重な声音で言った。レオンは頷き、歩を緩める。


「どうした?」


グラハルドはしばし言葉を選ぶように沈黙し、それから口を開いた。


「エリス様のことですが……少々、気になることがございまして」


「気になる、とは?」


「まず、目の色です。ラシェル様の治療を終えられた後、エリス様の瞳が金色に変わったことを、私とフィーリアが確認しております」


「……金の瞳」


レオンは足を止め、目を細める。


「まさか……」


「ええ。古い聖記の文献にも記されています。聖女がその力を完全に覚醒させたとき、その瞳は黄金に染まると」


その言葉に、レオンの胸の奥が淡く波打った。

エリスは今までも聖女としての片鱗を見せていたため、驚きよりも先に納得があった。


「その後の様子は?」


「……実のところ、それも懸念のひとつです。ラシェル様を癒された日から三日。エリス様は、自室から一歩も出ておられません」


「……出ていない?」


「はい。食事などはフィーリアが運んでいるようですが……どうやら、あまり召し上がっていないようで」


「体調を崩しているのか?」


「フィーリアがそれとなくお訊ねしたところ、『大丈夫』との返答だったそうです。目の色以外には、明確な変調も見られないと」


「だが……」


レオンは低く息を吐く。


「目に見えない何かが、彼女の中で起きている。そう思ったほうが自然か」


「……左様かと」


グラハルドは静かに頷く。レオンの心に、焦りにも似たものが湧き上がる。


「(聖女として覚醒した影響なのか、それとも別の何かか……)」


思考を巡らせながら、レオンは足を早めた。エリスの元へ今すぐにでも飛んでいきたい思いだった。


しかし、そのとき――またしても足音が前方から響いた。やや乱れた歩調。焦りの滲むそれに、レオンはすぐに名を呼んだ。


「……グレン」


名を呼ばれたグレンは、レオンの前で顔を伏せるようにして立ち止まった。


「どうした」


グレンは唇をかみ、ほんの一拍の間、言葉をためらった。そして、膝をつき(こうべ)頭を垂れて言った。


「申し訳ありません。……ラシェル様の件、エリス様には知らせないようにと命を受けていたにもかかわらず……私は、命令に背きました」


「……」


「気づいたときには、エリス様のもとに駆けていたんです。あのとき、どうしても……ラシェル様を救えるのは彼女しかいないと、そう思ったのです……しかし、理由がどうであれ、陛下の命令に背いたことは確かです。お咎めは、どのようにでも……!」


レオンはしばし、黙ったままグレンを見つめた。

深く頭を下げたまま動かないグレンに、レオンは数歩近づき、静かに口を開いた。


「お前は、昔からラシェルのことを好いていたからな」


「っ……」


「無理もない。判断を誤ったとは思わん。……結果、妹は命を取り留めた。お前の選択が、間違っていたとは言えない」


その言葉に、グレンは顔を上げる。驚きと、そして少しの救いがその表情に浮かんでいた。


「……陛下」


「今は、礼を言うべきだろう。お前が動いたおかげで、ラシェルは今、生きている」


グレンは胸を押さえるようにして、深く一礼した。


「……ありがとうございます。そのお言葉、痛み入ります」


レオンは軽く頷くと、再び歩き出した。グラハルドとグレンも、その後ろを追う。

目的地は、陽の傾く時間でも穏やかな光が差し込む回廊の先――エリスの部屋。


そこに近づくにつれ、あの香りが一層濃くなるのを感じた。


「(……やはり、この香りはエリスからか)」


それは、春の花のように柔らかく、けれど深く心に染み入る香り。かつてどこかで嗅いだような気がして、けれど決して忘れられないような――そんな特別な香りだった。


その香りに包まれるたびに、胸の奥が微かに熱を帯びていく。


「(これは……番の香り。俺の本能が、そう告げている)」


理解した瞬間、レオンの心臓は一際大きく鼓動した。


部屋の前で足を止めた彼は、しばしその場に佇む。扉の奥から放たれる香りは、まるで彼を招くように甘やかで、切ない。


この扉の向こうに、自分の“番”がいる――そう確信した途端、胸の奥が高揚と不安に軋む。


だが、取り乱すわけにはいかない。今この瞬間にすべきことは、彼女の顔を見て、言葉を交わすこと―――ただ、それだけだ。


深く一度だけ息を整えたレオンは、扉の前で静かに声をかけた。


「……エリス。少し、いいか?」


扉越しに語りかけた声は、誰にも気づかれていないだろうが、わずかに震えていた。その震えが、彼の感情のすべてを語っていた。


――運命が、確かに動き出そうとしていた。

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