第1話:追放されし少女
春の雨が冷たく降り続いていた。灰色の空から降り注ぐ水滴が地面を打ち、土はぬかるみ、屋敷の裏庭には泥が広がる。
「何してるのよ、さっさと終わらせなさい!」
甲高い怒鳴り声が背後から響いた。長い亜麻色の髪を揺らし、義姉のレイナが仁王立ちしている。
エリスは小さく肩を震わせた。地面に膝をつき、黙々と草をむしり続ける。指先は泥にまみれ、爪の間に黒い土が入り込み、既に指の皮は剥け、血が滲んでいた。
「本当に使えないわね。どうしてこんなゴミが家にいるのかしら」
もう一人の義姉、セシルが鼻で笑った。栗色の巻き髪を揺らしながら、レイナの隣で冷たく言い放つ。
──何度目だろう、この光景。
エリスは俯き、何も返さない。否、返しても無駄だった。義母カタリナと義姉たちが、自分を人間扱いしていないことは幼い頃から理解していた。
理由は一つ。エリスは黒髪黒目という、この国では不吉の象徴として忌み嫌われる容姿で生まれたからだ。
「聖女になるどころか、ちょっと擦り傷を治せるだけのゴミよね~。本当に無駄飯食い」
セシルの口から、からかうような言葉が投げられる。
この国の上流階級では、稀に魔法を使える者が生まれる。その中でも“聖女”と呼ばれるのは極めて強い癒しの力を持つ存在のみ。しかしエリスは、幼少期から小さな擦り傷を癒す程度の力しかなかった。
聖女どころか、魔法使いですらない。貴族の娘でありながら、家族の役にも立たない。
その現実が、エリスの立場を決定づけていた。
「お母さまが言っていたわよ。『いつ追い出してもいいんだけど、誰も欲しがらないから困る』ですって」
レイナの嘲笑が耳を刺す。
義母カタリナは街でも有名な美貌の持ち主。社交界でも名の知れた人物だった。だがエリスにとっては、冷たい視線と罵倒しか投げかけてこない存在だった。
「まあ、今日は良い日になるわね。父様もついに決断したんだから」
レイナとセシルが、口元をほころばせる。
──決断?
エリスは震える指を止めた。胸の奥で冷たいものが広がっていく。
「今朝の食堂で話してたわよ。エリス、今日でお別れですって。午後にはお父様とお母様があんたを“片付ける”手筈を整えたんだとか」
セシルがにっこりと笑う。だが、その笑顔は鋭い刃のように心をえぐる。
──追い出される。
言葉が心に突き刺さり、胸がきゅっと締め付けられるようだった。
エリスは何も答えず、黙々と草を抜いた。濡れた髪が頬に張り付き、全身が雨に打たれ、冷え切っていた。けれど涙は出なかった。ただ、虚無だけが心を満たしていた。
「せいぜい今のうちに草むしり頑張っておきなさい。もう明日にはこの家にはいないんだから」
レイナとセシルは嘲りを残して屋敷へと戻っていった。
エリスは膝をついたまま、泥に汚れた手をぎゅっと握りしめた。
──どうせなら、黒以外の色で生まれたかった。
傷を癒せても、この見た目ではその力すらも意味がない。何年もそう教え込まれてきた。
でも、心の奥底には消えきらない小さな願いがあった。──もしかしたら、私にも意味があるのかもしれないと。
その願いが叶う日が来ることを、この時のエリスはまだ知らない。
だが確かに──彼女の運命は、この日から大きく動き出していたのだった。