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追放聖女は獣の皇帝に愛される  作者: 宮野
第二章:芽生える想いと聖女の目覚め
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第14話:揺れる胸の奥に

澄み切った空に、白い雲がゆったりと流れていた。夏の気配が残る暖かな陽射しが城の中庭を照らし、爽やかな風が緑葉を揺らしている。ここヴァルザール帝国の王城もまた、いつもの平穏な日常を保っているかのように見えた。


けれど、エリスの胸には妙なざわめきが広がっていた。


季節は巡り、エリスがこの城で暮らすようになってから数ヶ月が経っていた。最初はただ不安と怯えの中で過ごしていた日々も、今では少しずつ色を取り戻しつつあった。国の仕組みや歴史を学び、読み書きも習い、時折兵士たちの訓練場へ足を運んでは、傷を癒して笑顔を交わすことも増えた。


この国の人々は優しかった。温かく、親しみ深く、エリスの存在を純粋に受け入れてくれた。


「エリス様、準備は整いましたか?」


控えめな声が扉の外から届く。エリスはゆっくりと目を開き、椅子から立ち上がった。窓の外には青空が広がり、遠くで兵士たちの訓練の声も聞こえてくる。


「はい、すぐ行きます」


声を返し、軽く身支度を整える。今日はグレイの案内で訓練場へ向かう予定だった。だが、部屋を出た瞬間から、何かが違うと感じた。


――妙に慌ただしい。


廊下を行き交う使用人たちの歩みはどこか早足で、顔にも緊張が浮かんでいる。普段ならば軽く挨拶を交わす使用人たちも、今日に限ってはエリスを認識しつつも深く頭を下げるだけで、すぐに立ち去っていった。


横に立つ護衛のグレイも、いつもより言葉が少ないように思えた。


エリスは歩きながら、そっと問いかけた。


「……何かあったのですか?」


グレイの狼耳がぴくりと動く。しかし返答はすぐには返ってこなかった。彼の鋭い視線は前方を見据えたまま、口元が一瞬きつく結ばれる。


「……い、いえ、特に問題はありません」


少し硬い声が返ってくる。エリスの眉がわずかに寄った。普段のグレイなら、多少の事でも丁寧に説明してくれる。それなのに、今日は妙に言葉が曖昧だった。


それでも問い詰めるのも気が引けて、エリスはそのまま歩みを進める。けれど、耳は自然と周囲の声に向いていた。


とある角を曲がった先、少し距離のある廊下で立ち話をしている使用人たちの声が、偶然耳に入ってきた。


「……陛下が討伐から早く戻られれば……」


「ええ、でも距離があるし、そう簡単には……」


「ラシェル様の容態が……」


途切れ途切れの声。遠くて全てを聞き取れるわけではなかったが、“陛下”“ラシェル様”“容態”という単語は、はっきりと耳に残った。


ラシェル様。初めて耳にする名だった。“陛下”と共に語られていることも、“容態”という言葉も気になる。


エリスは迷った末に、隣のグレイに視線を向けた。


「あの……ラシェル様って、どなたですか?」


グレイの足がわずかに止まり、狼耳が後ろへ反り返る。顔を向けた彼の表情は、普段の冷静さとは違い、わずかに戸惑いが浮かんでいた。


「……」


言葉に詰まるグレイ。その様子にエリスの胸のざわめきは一層強くなる。


グレイは一瞬だけ視線を外し、ため息を吐くように小さく息を漏らした。


「……陛下の、大切な方です」


その一言が、エリスの胸の奥に深く突き刺さった。


大切な人。


それがどういう意味を持つのか、エリスにはすぐに理解できなかった。ただ、心臓が一瞬止まりそうなほどに痛く、重くなるのを感じた。


「……そうですか。」


絞り出すように返事をした。声は思った以上にかすれていて、自分でも驚いた。


グレイはそれ以上何も言わず、エリスも問い返すことはしなかった。歩みは静かに進む。けれど、心の中では波が次々と押し寄せてくるようだった。


――大切な人。


エリスは“愛”というものを知らない。貴族の家に生まれながらも、愛情など一片も与えられずに育ったからだ。優しさも、慈しみも知らなかった。ただ、知っていたのは冷たい言葉と冷たい視線、痛みだけ。


この国で初めて温かい笑顔を向けられ、優しい声をかけてもらえた。知らなかった優しさに触れ、心が穏やかになっていくのを実感した。


だからこそ、今、胸に突き刺さるこの痛みが分からなかった。

ただの興味なのか、嫉妬なのか、寂しさなのか。


「……陛下の、大切な方……」


ぽつりと呟いた言葉はとても小さく、誰にも届かず空気に溶けた。


訓練場に着くと、若い兵士たちが活気よく訓練に励んでいた。エリスは、普段なら笑顔を見せて彼らの手当てにあたるのだが、今日は違った。胸の奥にずっと引っかかるものがあった。


笑顔が少し硬くなるのを自覚しながらも、怪我を負った兵士たちを癒し続けた。


そして、予定の手当てが終わった頃、ふと、疲労が押し寄せてくるのを感じた。心が重たく、身体も思うように動かない気がした。


「グレイさん……今日はこのまま部屋に戻ってもいいですか?」


普段なら「もう少しだけ」と思うのに、今日はとても耐えられなかった。

グレイは少し驚いたようだったが、静かに頷いた。


「……はい、護衛として部屋までお送りします」


エリスはこくりと頷き、無言のまま部屋に戻った。





部屋の扉を開けた瞬間、甘く落ち着いた花の香りが鼻先をくすぐった。静かで穏やかな空気の中、フィーリアが軽やかな足取りで迎えに来た。


「エリス様、お帰りなさいませ」


柔らかな微笑みと共に深く頭を下げるフィーリアの姿は、いつもと変わらぬ温かさに満ちていた。


「ただいま戻りました、フィーリア」


穏やかに言葉を返しながら、エリスは椅子へと腰掛けた。程なくしてフィーリアがティータイムの用意を整えてくれる。繊細なティーカップに注がれた紅茶からは、心を落ち着かせる優しい香りが立ち上り、皿の上には小ぶりで愛らしい焼き菓子が並べられていた。


だが、その甘やかな空気とは裏腹に、胸の奥には靄がかかったような重たい気持ちが渦巻いていた。胸の内が苦しく、紅茶の香りすら霞んでしまう。そんな自分に、フィーリアの好意を無駄にしてしまう申し訳なさが込み上げてきた。


エリスは軽く唇を噛み、ゆっくりと口を開く。


「……ごめんなさい、少しだけ一人にしてもらえますか……?今日はちょっと……疲れてしまったみたいで……」


言い終えた後、小さな罪悪感が心に広がる。だがフィーリアは驚くことも、焦ることもせず、ただ静かにエリスの心を汲み取るように見つめた。優しい眼差しでひと呼吸置き、変わらぬ穏やかな声で微笑む。


「……承知いたしました。どうか無理はなさらず、ご自愛くださいませ。何かございましたら、すぐにお呼びくださいね」


フィーリアの足音が遠ざかり、最後に扉が静かに閉じられると、部屋の中には静けさだけが残った。


一人きりになった部屋の中。エリスはため息をひとつついて、視線を窓の向こうへ向けた。抜けるような青空が広がっているのに、胸の奥は晴れなかった。


――陛下の、大切な方。


あの言葉が、耳の奥で何度も反響する。胸の奥を小さく、しかし確かに締め付けてくる痛みの理由が分からなかった。こんな感情、今まで一度も抱いたことがなかったはずなのに。


エリスは手を胸元に添える。小さな吐息が自然と漏れた。


「……どうして……こんなにも心がざわつくのだろう……」


小さな呟きは虚空へと溶け、答えは返ってこない。けれど、ぼんやりとした胸のざわめきは消えず、じっとその場に居座り続けた。


彼女は静かに立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。陽の光が暖かく肌を撫でるのに、不思議と心の冷たさは拭えなかった。


「……苦しい……」


思わず口をついて出た独り言に、心がわずかに震えた。何とも言えない不安と戸惑いが絡み合う。けれど、ほんの少しだけ、それを受け入れてみようと決めた。


締め付けられる胸を押さえベッドに横たわると、柔らかな寝具に体が包まれて瞼は自然と重くなっていく。意識が深い眠りへと沈んでいく中、彼女の胸の内に小さな光がともる。


――この想いは、いったい何なのだろう。


問いかけるように心の奥で囁いたが、答えはまだ見つからなかった。


知らぬ間に芽吹いたその想いの芽は、まだ小さく頼りない。だが、静かに、しかし確実に育ち始めていた。

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