第13話:繋がり始める絆
窓から差し込む陽光は、すでに天頂を過ぎて穏やかな輝きを帯びていた。昼下がりの柔らかな空気が部屋の中を包み込み、静かな時間が流れている。
エリスは自室の椅子に腰掛けながら、静かに昨日の記憶を辿っていた。
「(……あれは、本当に私が……?)」
胸元をそっと押さえた指先には、まだほんのりと暖かさが残っているような錯覚さえ覚える。魔法でも術でもない、不思議な感覚が身体の奥から湧き起こった昨日の出来事。信じられない思いと、押し寄せる不安が入り混じり、エリスは思わず目を閉じた。
そんな時、扉の向こうから優しいノック音が響いた。
「エリス様、失礼いたします。フィーリアです」
扉越しの落ち着いた声に、エリスは我に返り小さく返事をした。
「はい、どうぞ」
フィーリアが静かに扉を開け、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「陛下より執務室へお越しになるよう、お呼びがございます」
エリスはフィーリアの言葉に小さく頷き、椅子から立ち上がった。昨日の一件が関係しているのだろうかと、心の中に微かな緊張が走る。深呼吸で気持ちを落ち着かせると、静かにフィーリアの後に続き、執務室へと向かった。
◆
豪奢な白い回廊を進み、重厚な扉の前へ辿り着いたエリスは、思わず一度深呼吸した。扉の向こうから微かに人の話し声が聞こえる。
フィーリアが扉を軽くノックする。
「エリス様をお連れしました」
すぐに内側から静かな声が返った。
「入れ」
扉がゆっくりと開かれた瞬間、エリスは息を呑んだ。
目の前には、屈強な獣人たちが並んでいた。それぞれが異なる雰囲気を纏いながらも、共通していたのは揺るぎない自信と戦場を潜り抜けた者の鋭さだった。彼らの視線が一斉にエリスへと注がれ、まるで獲物を観察するかのような鋭く重たい視線に、エリスの背筋が自然と強張る。
「(……な、何この威圧感……!)」
心臓がぎゅっと小さく収縮し、足がわずかにすくむ。
すると、不意に軽快な声が響いた。
「ちょっとアンタたち、いきなりそんな顔で見られたら怖いでしょ?」
涼しげな声音の主は、猫族のマリスだった。しなやかな尻尾を揺らし、わざとらしくため息をつきながら三人の間に割って入る。
「せっかくのご対面だってのに、睨み付けてどうすんのさ」
グラハルドが眉をひそめ、グレイは思わず目を瞬かせた。ランベルは無言のまま腕を組んでいて、皆平然としているようにも見えるが耳がわずかに後ろに倒れ、尻尾も垂れ下がっている。
マリスは構わず続けた。
「まぁ無理もないわね。こんなデカい獣人が三人揃ってギロッと睨んでたら、そりゃ怖いわ」
「に、睨んでなどいない。少し視線を……」
グレイが少し不満そうに呟いたが、マリスの茶化しは止まらない。
「だからそれが怖いんだってば、ほんとアンタたち威圧感強すぎ」
「……ふむ……」
グラハルドが喉を鳴らし、ランベルは眉間を指で押さえた。
慌てたエリスはすぐに言葉を重ねた。
「あ、あの……!怖がってたわけじゃなくて、ちょっと驚いただけで……!」
必死に取り繕うように頭を下げると、三人の表情は一瞬緩み、マリスは勝ち誇ったように尻尾をひらりと揺らした。
そんなやり取りを見ていたレオンが、静かな声で口を開く。
「マリス、そろそろやめておけ」
穏やかでありながらも凛とした声が室内を静める。
レオンはゆっくりと立ち上がり、エリスのほうへと歩み寄った。
「緊張しなくていい。今日呼んだのは、お前に紹介したい者たちがいたからだ」
そう言いながらレオンは四人の側近たちに視線を向けた。
「紹介しよう。彼らは俺の側近たちだ。参謀のグラハルド、軍の副将ランベル、騎士団長のグレイ、そして諜報頭のマリス。皆、俺が信頼する部下たちだ」
一人一人の名が呼ばれる度に、エリスは軽く会釈をした。鋭い目つきだった彼らも、その瞬間は少しだけ表情を緩めたように見えた。
「皆様……初めまして。エリスと申します……」
声がわずかに震えたものの、精一杯の礼儀を込めた。
レオンは続ける。
「今、お前は特別な立場にある。お前が昨日城下町で起こした出来事は、すでに町の者たちの間で話題になっていて聖女ではないかと囁かれている」
エリスは無意識に胸元を押さえた。レオンの瞳が静かに細まる。
「俺はお前に聖女として何かを強制するつもりはない。しかし、事実として町の人々や若い兵士たちはお前の力を目にし、期待と憶測を抱いている」
部屋の空気がわずかに引き締まった。エリスは緊張と戸惑いを隠せずにいたが、レオンの声は穏やかだった。
「それゆえ、何かあった時にはこの場にいる者たちを頼れ。彼らは帝国随一の力と知恵を持っている。お前の力を狙う者が現れるかもしれない。その時、お前一人では危険だ」
言いながらレオンはグレイへと目を向け、一呼吸置いて静かに視線をエリスへと戻した。その琥珀色の瞳は、先ほどまでの厳格さからわずかに柔らかさを帯びていた。
「今後、お前の護衛にグレイをつける」
視線の先には、一歩前へ出た獣人の姿があった。鍛え抜かれた体躯と揺るぎない態度、その佇まいだけで『守護』の意志が伝わってくる。重たい空気がわずかに動き、エリスの胸がきゅっと小さく鳴った。
――護衛。
その言葉の重みを、エリスは初めて実感する。これまでの人生で、守られたことなど一度もなかった。むしろ、見向きもされず、存在すら否定されてきた日々だったのだ。
「……私の、護衛……」
口の中で転がした言葉はどこか不思議で、くすぐったい感覚を伴った。恐怖よりも、戸惑いと、ほんの少しの温かさが心を占めた。
レオンは続ける。
「この城でも外でも、お前の周囲には目が光るだろう。不安なとき、困ったとき、何より危険を感じたときは遠慮なく頼れ。こいつは言葉数は少ないが、任せれば必ず応える」
真剣な声が耳に届くたび、エリスの心臓は静かに跳ねた。これが、この国の皇帝の言葉なのだと改めて思い知らされる。威圧でも命令でもない、守ろうとする意思が込められた言葉。
彼女は、少しだけ目を伏せたあと、静かに顔を上げた。視線の先にいる屈強な体躯と鋭い目つきの男、グレイは姿勢を正して深く頭を下げた。
「私が、エリス様の剣となり盾となりましょう」
その言葉に、エリスはわずかに戸惑いながらも緊張で少しだけ強張った口元に柔らかな笑みを浮かべ、小さく頭を下げた。
「……はい。よろしくお願いします」
こうして、彼女の新たな日々がまた一歩、動き出そうとしていた。