【最終章】灯火のうちに、詩を託す
門を叩いた手が震えていた。木を打つ音は細く、夜の霧にかき消される。
やがて、重い戸が開く。灯の揺れる中に、白き布をまとった僧が立っていた。その目が、ゆるやかに我を捉える。恐れもなく、怒りもなく、ただ懐かしむように。
「玄岱か」
その声の後味に胸を詰まらせる。たとえこの貌がどれほど獣じみていようとも、彼は我を名で呼んだ。
「蕭懐、」
喉から絞り出すように名を呼ぶと、唇が裂け、血が滲んだ。だが、痛みよりも、涙のほうが熱く苦しい。
庵に迎えられ、火の灯る部屋で余は横たわった。蕭懐の昔と変わらぬ彼の所作、湯を差し出す手の静けさ。その中で、我は懐より詩巻を取り出し、震える手で彼に差し出した。
「これは我が、我が残したいすべてである」
蕭懐は無言で受け取り、開いた頁に目を通し、しばし沈黙した。そして、ぽつりと呟いた。
「獣の貌にて、なおこれを書ける者がいるのか。ならば、やはりおまえは、人だろう」
夜が深まるにつれ、余の体は冷え言葉も乱れていった。指は曲がり、爪は伸び、呼吸のたびに喉が鳴る。
それでも、最後の詩だけは己のため綴りたかった。
我尚識己名
尚知詩何物
血書一巻在
願与友之託
蕭懐は静かにうなずき、灯を絶やさぬよう薪をくべた。その火の赤が、余の顔を照らすもはや人の面影はない。だがその眼だけは、深い静かにに燃える。
夜が明ける直前、我はそっと庵を出た。筆は持たぬ。詩ももう綴らぬ。言葉はすでに残した。あとは、ただ景色となる。
山を歩き、崖に立ち、空を見上げる。冷たき風が荒れた頬を撫でる。まだ頬があることに、安堵した。
最後に、声にもならぬ声で呟いた。
「人に在りしを忘るるなかれ、」
そして我は、白き谷に身を投じた。