【第二章】骨裂けど筆を手放さず
蓮岫は、常に雲を頂き蒼天に溶けるように遥かにそびえていた。我はその中腹にある岩陰の洞に身を潜め、朝には焚き火を求め、夜には星の明滅を見つめるのみの生活を始めた。
持参した書は、読むたびに心を落ち着かせてくれた。筆と墨と紙、そして詩だけが我が理性の灯であった。
だが、病は待ってはくれぬ。ある朝、指の骨が軋み、激痛の末、薬指の関節が逆に曲がった。叫びを上げ、紙を濡らした。血に染まった筆は、もはやまともに動かぬ。
夜になると、聴覚が研ぎ澄まされ、遠く谷底を駆ける獣の足音すら聞こえる。視界が赤く滲み、脈が打つたびに、喉の奥に熱が集まった。
やがて、己の内から、奇怪な欲望が芽生えたのを感じた。それは飢えに似ている。だが食ではない。何かを裂き、破り、噛み砕きたい。そのような、獣のごとき本能である。
それでも、我は筆を取った。墨を落とし、詩を書こうとするたび、手が震え、言葉が逃げる。けれど、それでも綴るのだ。
病夜藏吾骨
深山老我魂
猛貌猶吟在
血筆落星痕
この一に、我がすべてが込められていた。異形と化しながらも、まだ詩を綴れるのなら、我は人だ。獣を抱き、言葉を捨てぬ。その意志こそが、我が命の軸である。
ある夜、我は夢を見た。再び、あの友昊蓮が現れた。
「玄岱、おまえはまだ抗っているのか」
と彼は笑った。
「そうまでして、生きたいか?そうまでして、人でありたいか?」
我が答えは出なかった。ただ、黙って彼の顔を見ていた。彼の目の奥には、もはや痛みも希望もなく、ただ虚無の水面であった。
目覚めたとき、口の端が裂けていた。血が乾いて、唇が引きつっていた。
翌日、山を歩いていて、たまたま小鳥を見つけた。弱っていたのか、羽音も立てず、枝にとまっていた。
我は無意識に近づき、手を伸ばしかけていた。そのとき、指先に爪が生え始めているのを見た。鋭く、黒く、まるで獣のそれだった。
ぞっとして、手を引いた。
我は獣になりかけている。それは、もはや疑いようのない事実であろう。
その夜、火を囲みながら、我はすべての詩稿を広げた。過去に書いたものも、山中で記したものも、全て。そのときふと思った。
この言葉たちは、誰かに読まれるのだろうか?
否。この谷にて死ねば、風に舞い、雨に溶け、やがて土となるのみ。それでも残したいのだ。誰かの目に触れずとも、声に出されずとも、我が「人であろうとした証」をここに遺したいのだ。
そしてそのとき、ふと浮かんだ名があった。
蕭懐
若き日の学友にして、我の詩を最も深く理解してくれた男だ。書院時代、二人で詩を交わし、論じ合い、夜を徹して語らったこともあった。彼だけは、我がどれほど言葉に命を賭してきたかを知っている。
ならば、死の前に会わねばなるまい。
言葉を遺すためではなく、人として終えるために。
我は書を包み、詩を括り、再び旅衣を身にまとった。
腐れゆく身体を抱え、崩れる骨と皮膚を鞭打ち我は歩き出した。
蕭懐のもとへ。