八.斜になった日の光が窓から
斜になった日の光が窓から差し込んで、そこに埃が舞う分、光の筋がはっきりと見えた。
鋼の実が保管している部屋は静かだ。防音処置がされているわけでもないのに、ここに入るといつも周囲の音が遠くなったように感ずる。
十歳のアリスは、部屋の真ん中に腰を降ろして棚を眺めている父を、部屋の隅の壁に寄りかかって見ていた。
ゲンザは身じろぎもせず、棚の鋼の木の実を静かに見つめている。声をかける事がはばかられるような緊張感があったが、不思議とアリスにはそれが嫌ではなかった。
ゲンザは鍛冶仕事の合間など、折に触れてこの部屋にいる事があった。
特に何かするわけではなく、今のように座ってジッと実を見ているばかりだが、どうもこれが父にとって大事な事らしいと、おぼろげながらアリスにも理解できた。
やがてゲンザが肩を回すと、緊張感がぐっと薄れる。アリスもほうと息を吐いた。
「父さん」
ゲンザは振り返った。
「実が、何か言ってるの?」
「何か聞こえたか?」
アリスは首を横に振った。
「それなら、そういう事だ」
そう言ってゲンザは立ち上がった。
言葉少なな父は時折要領を得ないので、アリスは困る事も多かった。部屋を出ようとするゲンザに慌てて言葉を重ねる。
「わたしに聞こえなくても、父さんには何か聞こえるのかなって」
「こいつらは赤ん坊みたいなもの。半分は眠っている。何か言う事の方が少ない」
アリスは棚の方を見た。大小様々、形も様々な鋼の木の実たちは、冷たい光をたたえたまま静かに鎮座している。
「でも、これで打つ時は父さんは実の声を聴くんでしょう?」
「俺が聴くわけじゃない。持ち主との縁と相性が第一だ。この部屋に来て、それで実が反応する奴がいる。そいつの手元に行きたがっている、という事になるんだろう」
だから、この部屋に来てどの実も反応しなかったら、父さんは仕事を断るんだ、とアリスは思った。
わたしに反応する実はないな、と思う。しかし自分の方から気になる実もない。
いずれ、自分が惹かれる鋼の木の実に出会う日があるんだろうか、と思いながら、アリスは廊下を踏んで行く父の背中を追っかけた。
○
大荒れだった。さっきより雨も風も強まっている。
しかしまだ日が暮れていないせいか思ったよりも明るく、頭上の雲がすごい勢いで流れて行くのがわかる。雨よりも風が強く、しかし横殴りの雨は視界の邪魔をするには十分だった。
「姉さん! 直そうにも雨戸壊れちゃってるよ!」
と家の中からナルミが怒鳴った。
「何とかして! そのままだと家の中ずぶ濡れなんだから!」
と怒鳴り返しながら、アリスは暴れる髪の毛を邪魔にならぬよう手早くひとまとめにすると、抜き身の剣を構えつつ、周囲に目をやった。
「……どっち?」
――右。
アリスがそちらを向くと同時に、暴風の隙間を縫うようにしてノロイが飛び掛かって来た。
「――ッ!」
アリスは咄嗟に剣を構えて迎え撃つ。しなびた手が刀身を掴んだと思うや、相手はくぐもったうめき声を上げてさっと飛び退った。
アリスは剣を構え直して、まじまじと相手を見た。明るい所で見ると、異様な風体が余計に目立った。
フード付きのボロボロのマントはみすぼらしさよりも恐ろしさが際立ち、顔に当たるのであろう部分は影が濃くて見えず、だらりと垂らしている腕は肌が見えないくらいに符が貼られていた。
体全体の輪郭もあまりはっきりしておらず、マントが時折まるで霧のように輪郭がぼやけて宙に舞うと思うや、再び体を形作る。布のような闇をまとっていると形容してよさそうだ。はっきり見ようとしても、妙に姿がぼやけがちなのは呪術の産物であるからだろうか。
「実体を持った呪殺の化け物……魔獣とは違うのか。式神みたいなもの……?」
冒険者として剣を握って来たアリスも見た事がない。しかし危険な相手だという事はわかる。剣も青く明滅して相手を威嚇しているらしい。その光が相手には苦しいのか、向こうも様子を窺うばかりで近づいて来ようとしない。
得体の知れない相手だけに、アリスの方も警戒してしばらくにらみ合いが続いていたが、不意にひときわ強い風が吹いて来て、巻き上げられて来た葉や草が視界を一瞬遮った。
ぐんと足に力を込めて、アリスは一気に前に出た。ノロイの方も反応した。アリスの動きに、というよりは剣の光を嫌って飛び退ったという風である。
ノロイ自身は明るい場所が嫌いらしく、跳ねるようにしながら逃げ、よりにもよって工房に飛び込んだ。
「うわっ、そこはやめろぉ!」
アリスは大慌てで工房に駆け込んだ。
ノロイの方はアリスに斟酌なぞしない。入って来た剣の光から逃げるように工房の中を跳ね回り、ただでさえ壊れかけてぼろぼろの鍛冶場を余計に荒らしまわった。
アリスは苦々しい気持ちで何とかノロイを入り口側に誘導するように動き、ようやく外に追い出した。その頃には鍛冶場の中はめちゃくちゃになっていた。
ノロイはよろよろしながら雨に打たれていた。
アリスは苛立ちをそのままぶつけるように、素早くノロイへと駆けると下から斜めに斬り上げた。
胴を袈裟に切り裂くつもりだったが、相手の方がゆらりと動いたせいか、それとも暴風で剣筋が乱れたか、ノロイの腕が片方斬られて飛んだ。血は出ない。黒い霧のようなものが切断面から流れた。
体勢が崩れかけたアリスの頭上に、斬れていないもう片方の腕が迫った。
「ぐっ!」
アリスは身をひるがえして、剣で受け止めた。腐ったような嫌なにおいが鼻をついた。
ぐんと身を乗り出すようにして、ノロイが顔を近づけて来た。顔も符で覆われていたが、口だけは裂けたように大きく、ボロボロの乱杭歯が覗いている。そこから亡者の叫びのような、身の毛もよだつ声がアリスの耳を震わした。ぞわぞわと背筋に冷たいものが走って、力が抜けるように思われる。
「くうっ……!」
萎えそうになる足に力を込めて、アリスは何とか地面を転がって、声から逃れた。着物が泥水を吸って重くなる。
構え直そうとして、アリスは愕然とした。
まずい。力が入らない。
ノロイの声には何か魔法の力でも込められていたのだろうか。動けないわけではないが、いつもの俊敏さはとても出せそうもなかった。
それどころか眩暈がする。ぼやけがちだったノロイの輪郭が余計に曖昧になったように感じる。
ノロイはよろめきながらもアリスの方へと向かって来た。俊敏さがないのは剣の光のおかげだろうか。
しかしアリスの方も動きが鈍い。下がらねばという考えと、きょうだいを守らねばという思いがごちゃごちゃになって、判断がつかなかった。ふらふらと立ち上がるだけで精一杯である。それもすぐに膝を突いてしまう。
「姉さん!」
不意に声がして、鋭く符が飛んで来た。それはノロイに当たって爆ぜた。
「くそ、雨のせいで威力が弱い……姉さん、しっかりしろ!」
とナルミが怒鳴っている。
次いでフライパンがすっ飛んで来てノロイの顔面に直撃した。ムツキが正確無比に投擲したらしい。ノロイはたたらを踏んでよろめいた。
「おねぇ、起きて!」
アリスはぐっと足に力を入れた。
――立て!
手中の剣が唸って光った。柄からほんのりとした温かさが体に伝わって来る。ぐらぐらと揺れていた視界が正常に戻った。
ぐんと立ち上がる。もうふらつかない。
アリスは剣を握り直し、一気に上段から斬りかかった。
輝く刀身がノロイを天辺から両断した。ぐらりと傾いだその体は、霧のようにほどけて、溶けるように消えてしまった。
「――ふはっ!」
大きく息をついた。混乱と緊張感が一気に収まると、急に自分がずぶ濡れでいるのに気付いた。雨も風も激しい。
庭に下りたナルミが、穴の開いた雨戸を戻していた。板を打たねばなるまい。
「アリス様!」
カンナが飛び出して来て、気遣うようにアリスの肩を支えた。
「カンナさん、濡れちゃいますよ」
「いいんです。ごめんなさい……」
「気にしないでください、カンナさんのせいじゃありませんから……」
アリスはひとまず土間の方から家に上がり、濡れた着物を脱いだ。
それほど長い時間外にいたわけでもないのだが、服のまま泳いだくらいびしょびしょだ。泥汚れもあるから洗濯に難儀しそうである。
「あの黒いの、一匹だけ?」
タオルを持って来たムツキが言った。アリスはそれを受け取って顔と髪の毛とを拭う。
「今襲って来たのはね」
「あれ、カンナねぇを狙って来たの?」
とムツキが言うと、カンナはたじろいだ。
「そう、なんでしょうね。イスルギの海岸で撃退したと思ったのですが……まさか他にもまだいたなんて」
アリスは上着を羽織った。
「ナルミ、ノロイっていうの聞いた事ある?」
座敷の方に言うと、アリスと同じく着替えていたらしいナルミが声だけ返して来た。
「俺もよく知らないけど、式神みたいなものだとすれば、自然発生するものじゃないと思うよ。何かしら思惑があって送って来たんじゃないの」
「……術者が今の戦いを感知したかな?」
「式神と同じと仮定すれば、倒された事は術者にわかる筈だよ。またあんなのを送り込んで来る可能性もゼロじゃない。カンナさんも一度撃退してるんでしょ」
「おねぇ、どうする?」
とムツキが言った。アリスは腕組みした。
敵の正体がわからない以上、下手に動くのも危ういように思われるが、屋敷に籠っていても安全とは言えない。ノロイが三体も四体も一斉に現れれば危険である。
一度戦ったおかげでノロイの性質はある程度把握できたからアリスも遅れは取らないつもりではあるが、三人を守りながらでは明らかに分が悪い。
しかも鍛冶場がめちゃくちゃだ。片付ければ仕事はできるだろうが、ようやく片付いた頃にノロイがまた襲撃して来たのでは何にもならない。
アリスはしばらく考えていたが、やにわに立ち上がった。
「ナルミ、むっちゃん、出かける準備して。カンナさん、申し訳ないですが、休んでいる場合じゃなさそうです」
「どうするのさ」
とナルミが言った。
「ミサゴさんに相談してみる」
「衛士隊を動かしてもらうの?」
「状況次第じゃそうならざるを得ないかもだけど……ともかく話をしてみないと」
ばたばたと動き出した。
アリスはひとまず雨戸の穴に板を打ち付け、手早く冒険者装束に着替えて、手鎚と梃子、やっとこなどを道具袋に入れる。この工房がすぐに使えない以上、他の工房を借りる事も考える必要がある。そうなった時に、手に馴染んだ道具がなければ仕事がしづらい。
それから鋼の木の実のある部屋に行った。
残り少ない実たちは棚の上で冷たく光っている。
アリスは封印の剣を持ち、実の前に立って大きく深呼吸した。そうして一つずつ、刀身を近づけた。
「……よし」
一つの実を選んで手に取る。刀身を近づけた時にかすかながら感応があった実だ。役目を引き継ぐ意思のある実、という事になる。
そうやってアリスが荷物をまとめる頃には、他三人も準備を終えていた。銘々に荷物を持ち分け、また足取りが微かにおぼつかないカンナはナルミが支えるようにしてやった。
少しずつ日暮れが近づいているらしく、雲が日を遮るのとは違った薄暗さが辺りを覆い始めていた。だらだらの下り坂は雨の細い流れがあり、油断すれば転びそうだ。
町に人影はない。どの家も雨戸をぴったりと閉めている。休日だと割り切って家の中で過ごしている者ばかりなのだろう。アリス達だってこんな事にならなければのんびり過ごしていたに違いない。
今日は立て続けに色々な事が起きるな、とアリスは思った。
それでも衛士隊の詰め所だけは開いていた。無論、雨戸がつけられてはいたが、急な事件などに対応する為なのか、一か所は人が出入りできるようになっていて、その向こうに煌々と明かりが灯っている。
入ってすぐは土間である。そこに二、三人の衛士が漫然と腰を降ろしていた。アリスを見るとおやおやという顔をする。
「やあ、君は確か鍛冶師の」
「アリスと申します。すみません、こんな時に。ミサゴ様はいらっしゃいますか」
「ミナモト隊長かい。いるよ」
それで奥の部屋に案内してもらうと、ミサゴは執務机で難しい顔をして書物に目を落としていた。
「隊長、お客さんですよ」
「おや、この嵐の中を――やや、アリスじゃないか! あれっ、ナルミにむっちゃんまで! なんとまあ、どうしたんだい。ほら、入って入って」
アリスを見とめるや、ミサゴはたちまち顔を輝かしてアリス達を部屋に招き入れた。西方意匠の部屋で、執務机の前に来客用の低い机とソファとが置かれており、本棚には書物や書類などがきちんと整頓して収められている。
アリス達が来たのが嬉しいのか、何となくうきうきした様子のミサゴだったが、ナルミに支えられたカンナがふらつきながら椅子に腰かけたのを見て剣呑な雰囲気を感じ取ったのか、怪訝そうに眉をひそめた。
「どうも遊びに来たわけじゃなさそうだね。何か問題ごとでもあったのかい? そちらの方は?」
「こちらはカンナさんといって、キオウからいらしたんです」
「キオウ?」
当然、ミサゴもキオウは上陸できぬ島だと知っている。
「冒険者かね?」
「い、いえ……」
カンナはやや萎縮しつつも、事の次第をミサゴに説明した。
「それで……ゲンザ様を訪ねて来たのですが」
「ふむ、なるほど……キオウの守り人か。ボクも話にだけしか聞いた事がなかったが、実在するとはね。しかし、これで最近魔獣が活発化している理由がわかったよ。ボクたちとしても放っておけない話のようだ」
ミサゴはアリスを見た。
「では、アリスがその剣を新たに作るという事になるのだね」
「はい。けれども言ったようにノロイという妙なものの襲撃があって……わたしが鍛冶をしてしまうと襲撃に対応できないと思ったものですから」
「それで衛士隊を頼って来たわけか」
「はい。不躾なお願いですが、剣が完成するまで護衛していただけないかと……」
おずおずと、アリスは言った。
衛士隊は冒険者ではない。公的組織は手続きがあれこれとあるせいで緊急時の動きは鈍いから、こういった頼みをするには少々憚られる存在である。しかしミサゴは鷹揚に頷いた。
「無論構わないよ。まあ、衛士隊全部を動かすのはさすがに無理だから、ボクの隊の何人かで守ろう」
「……頼んでおいてなんですが、手続きなんかは大丈夫ですか?」
「心配ない。外回り任務もないし、基本的にボクの小隊はボクの裁量に任されているからね。ふふ、友人に頼ってもらえるのは嬉しいものだね」
とミサゴは近くにいたムツキをよしよしと撫で、それからアリスを見た。
「だがアリス、君の工房は屋根が壊れてしまったんだろう? 仕事ができるのかね?」
アリスはふうと嘆息した。考えはある。しかし気が乗らない。だが今は自分の好き嫌いをどうこう言っている状況ではあるまい。
「叔父の工房を頼ろうと思います」
ナルミがぎょっとしたようにアリスを見た。
「コテツの奴に頭を下げるの?」
「仕方ないよ。状況が状況だもの」
それに、嵐のさなかも稼働できるような鍛冶場はユウザの工房にしかあるまい。おそらく、今日も鍛冶場に籠っている職人はいる筈だ。
ミサゴが眉をひそめた。
「君の名前を出したがらなかった工房か。折り合いが悪いらしいが、大丈夫かね?」
「仲が悪いのは確かですが、道理のわからない相手ではない筈です。放っておけばキオウから魔獣が溢れる可能性もあるわけですし、意地を張っている場合じゃありません。説明すれば大丈夫かと」
「……そうか。君がそう言うならそうなんだろうな」
とミサゴは頷いた。
それで衛士二人に一緒に来てもらう事になって、アリスは荷物を持ち直した。鍛冶道具、自分の剣、それにカンナが持って来た封印の剣だ。
カンナが恐縮したように言った。
「すみません、アリス様。本当に色々とご迷惑を……」
「いえ、これはもうカンナさんだけの問題じゃありませんから……行って来ます。ミサゴさん、すみませんが皆をよろしく頼みます。カンナさんは背中に怪我もしているので、休ませてあげてください」
「うん、任された。十分に気を付けるのだよ、アリス。カンナさんだけでなく、その剣を狙って来るかも知れないんだから。リュウゼン、トキワ、しっかり護衛するように」
「はい」
「お任せください」
衛士二人は敬礼した。アリスは頷いて、詰め所を出た。
相変わらず台風は猛威を振るっている。風雨の音の隙間から、高波が打ち寄せているらしい音が聞こえる。
「この剣、あなたが作ったんだって?」
出し抜けに声をかけられた。
アリスはびっくりして横を向いた。並んで歩く衛士の一人が腰の剣を示している。二十半ばといった容姿の女性だ。名をトキワといった。
アリスが頷くと、トキワは微笑んだ。
「とても使いやすいよ。重さも丁度いいし、手に馴染む。ねえ、リュウゼン?」
「ああ、うん。前に支給された剣は少し軽過ぎたからな」
もう一人の衛士も言った。名をリュウゼンといって、トキワとそう変わらぬ年らしい男だ。
ミサゴの部下の二人は、先日アリスが仕上げた剣を支給されたようだ。使い勝手はいいらしく、称賛の言葉が出たのにアリスはホッとした。
リュウゼンは口数が少ないようだが、トキワは話好きらしく、歩きながらあれこれと話しかけて来た。
「ミサゴ隊長、あなたの事を随分褒めていたよ。剣士なんだって?」
「ええ、一応……」
「自分の剣も自分で打ったんだってね。凄いなあ。やっぱり自分で作ると違う?」
「そうですね。やっぱり馴染むというか……」
「だよねぇ? そっか、剣士でもあるから、どういうのがいいかわかるって感じか」
トキワはうんうんと一人で納得したように頷いている。年上の筈なのだが、何だか可愛らしく感ぜられて、アリスは表情を緩めた。少し緊張感が薄れたように思われて、それが少しありがたかった。
そうしてユウザの工房に着いた。
表の直営武具店は閉まっている。工房に入る表門も閉ざされていた。しかし工房の方から、嵐の物音を突き抜けて槌音が聞こえている。
どんどんと戸を叩いて案内を乞うていると、女中が勝手口から顔を出した。
「なんだい、こんな日に」
「火急の用なんです。ユウザさんかコテツに会いたいんですが」
女中は怪訝な顔をしていたが、アリスが衛士と一緒なのを見て、実際に急ぎの用と思ったらしい。ひとまず工房の軒下まで案内してくれた。
しばらく待たされた後に、浴衣姿のコテツがのっそりやって来た。水でも浴びていたのか髪の毛まで濡れている。
「何の用だ、こんな時に」
「ごめん、それは悪かったよ。でも今じゃなくちゃいけない用なんだ」
顔をしかめているコテツに事の次第を説明すると、ふんと鼻を鳴らした。
「お前にできるのか?」
「やってみるよ。それしかないでしょう」
コテツはちらと脇に立つ衛士二人を見て、それから勿体ぶったように踵を返した。
「来い。鍛冶場を使わしてやる。ま、お前なんぞにうちの炉が扱えるかわからんが」
「……」
言い返したいのをぐっとこらえて、アリスは黙ったままコテツの後について行った。トキワとリュウゼンは顔を見合わせてその後について行く。
思った通り、鍛冶場は休んでいなかった。
とはいえ、普段よりは人が少ないのだろう。幾つも並んだ炉の一つか二つばかりに職人がかがんでいる。
近くを通った時、鞴を動かしていた職人が顔を上げた。
「ありゃコテツさん。まだ続きをなさるんで?」
コテツはじろりと職人を睨んだ。アリスは怪訝そうにコテツを見た。
「あんた、鍛冶場にいたの? 何してたの」
「うるさい」
コテツはそう言って炉の一つをさした。
「ここを使え。散らかすんじゃないぞ」
「わかってるよ」
アリスは荷物を降ろした。それから剣を抜いて土間に突き立てた。剣は薄青い光を放ち、そこいらを淡く照らし出した。鍛冶場にいた職人たちが、驚いたようにそれを見、ひそひそと囁き交わした。
衛士二人は少し離れた所に立った。
コテツは懐手をして偉そうにアリスを見降ろしていたが、アリスが鋼の木の実を出すと、驚いたように目を見開いた。
「実で打つつもりか?」
アリスは答えずに炉に火を入れる。松炭を重ねて鞴を動かす。暗い鍛冶場の中で、赤々とした炭の色が明るい。
炉に向かったアリスは一心に炭の色を見つめている。放つ雰囲気が一種の鬼気を帯び始め、トキワとリュウゼンは思わず息を呑み、コテツは面白くなさそうに眉をひそめた。
その時、工房の隅の暗がりから奇妙なうめき声が聞こえた。外の嵐の物音の中にも、奇妙に耳に響いて来る声だ。鍛冶師やコテツがぎょっと顔を強張らせる。
トキワが剣を抜いた。
「来たね。リュウゼン。あなたは守りをお願い」
「うん」
暗がりからノロイの影がずるりと這い出て来た。鍛冶師たちが驚いて右往左往するのを、リュウゼンがなだめて後ろに下がらした。
アリスの剣の光のせいか、ノロイは苦し気に呻いている。動きも鈍いようだ。
「――ふっ!」
這い寄って来るノロイに、トキワが剣を振り下ろした。鋭い剣閃がノロイを寸断する。トキワはふんと鼻を鳴らした。
「なんだ、大した事ないじゃない」
「トキワ、まだだ」
とリュウゼンが言った。見れば、暗がりには別の影がいて、うずくまるようにしてぶつぶつと何か呟いている。トキワは肩をすくめて剣を構え直した。
アリスはそちらには目もやらない。
鞴を動かしながらひたすらに炭の色を見、鋼の実を入れるタイミングをひたすらに窺っていた。
「……ここだ」
アリスは実を炉へ入れた。炭をかぶせ、さらに鞴を動かす。
高温に当てられた実の表面が七色に輝くのが見えた。
夜になろうとしている。