七.高波が暴れていた。沖から
高波が暴れていた。沖からひっきりなしに打ち寄せ、引く潮とぶつかって宙に舞い飛ぶ。
空から灰色の雲が垂れ下がって、雨こそまだ降っていないがそこいらは暗く、生ぬるい風が四方八方から吹きつけた。
一艘の小舟が今にもひっくり返りそうになりながら、イスルギの海岸に辿り着いた。帆のない舟だ。乗っていた小さな人影が転げるように舟から降りた。その直後、ひときわ大きな波にさらわれて小舟はたちまち沖合に流されて行った。
「はあ、はあ……」
長衣を着、笠を目深にかぶった影はよろめきながらも、布に包まれたものを大事そうに抱え直した。
その時、不意に背中に衝撃が走った。胸に突き抜けるような不快感の後に痛みが来る。焼けるように熱いのに奇妙に冷たい。
背後には奇妙な影が立っていた。
全身を覆うボロボロの黒いマントが風にあおられている。そこから伸びて背に当てられた手には、腕までびっしりと符が貼られていた。腕に符が貼られているのか、それとも符が腕を形作っているのかさえ判然としない。
「アァ……ァァアァ……」
そのうめき声を聞くと足が萎えるようだ。
「くっ……」
人影は転がるように影から距離を取ると、小さく何かを詠唱した。光弾らしいのがいくつも浮かび上がり、影に殺到した。ぱしんと弾けるような音がして、影は砕け散った。輪郭が溶けるようになって消えて行った。
人影は痛みに顔をしかめながら背中を丸めて走り出した。
それから数刻後、船の着いた所にまた別の影があった。ひょろ長い体躯を犬のようにかがめて何かを探っていた。呻くような声で何か呟いていた。
やがて何かを探り当てたのか、影は滑るように最初の人影の向かった方へと駆け出した。
〇
前々からそんな気配はしていたのだが、どうやら台風が近づいているらしい。港の船はすべて帆を畳み、高波に流されぬように太い綱で係留されている。風はそこかしこから吹き荒れて、木々は右に左に頭を振った。
風に乗って灰色の雲が分厚く垂れ込め、やがて大粒の雨を落とし出す。軒から落ちる水が小川のようにいくつもの筋を作って、低い方へと流れていた。
外に桶なんか出しっぱなしにしておくとてきめんに吹っ飛ばされるので、アリスたちは雨が本降りになる前に外に出ているものをあれこれと室内に片付けて、畑の野菜たちを収穫し、鶏小屋を補強して屋敷の雨戸を締め切り、台風が過ぎるのを耐え忍ぶ準備をした。
「おねぇ、蝋燭どこ」
「いつも使ってるのは台所の棚で、予備は物置の入口横」
「姉さん、水瓶の補充した?」
「あ、まずい。ナルミ、お願いしていい?」
「はいはい」
雨戸を締め切ると室内は昼間でも真っ暗だ。
蝋燭だって無駄遣いしたくないので、きょうだいは三人で座敷に集まり、ナルミの部屋にあった黄輝石のランプを灯した。
「やれやれ、もう今年は来ないと思ってたのに」
とぼやきながらアリスは薬缶のお茶を注いだ。
台風は貯水池に水を補充してくれるから、時期によってはむしろありがたい事もあるが、今回のように時季外れのものはあまり嬉しいものでない。
「お米、倒れちゃうかな」
とムツキが言った。
稲はたわわに穂をつけて頭を垂らしている。このタイミングで台風に当たると稲が傾いで、悪くすれば茎が折れて田んぼに絨毯のように平たくなってしまう。そこに雨が溜まれば稲穂が水に浸かって、悪くすれば傷む。
いずれにせよ稲刈りがしづらくなるので、歓迎できない事であるのは確かだ。
アリスはやれやれと頭を振った。
「心配だけど、こればっかりはね」
文字通り嵐を過ぎるのを待つしかない。
今回の台風は少し足が遅いらしく、明日になれば台風一過というわけにもいかなさそうだ。
そんな時節柄だから、稲刈り鎌などの依頼が数件来ていたが、鍛冶場と行き来できないので野鍛冶の仕事も中断である。ムツキがごろりと座布団の上で丸くなった。
「今日、衛士隊お休みかな? ミサねぇ、来るかな?」
「どうかな。こういう時こそ衛士隊も忙しいかもよ」
ミサゴはすっかりアリス達が気に入ったようで、ちょっとした時間の隙間に菓子なんかを持って遊びに来る事が増えた。そのおかげできょうだい揃って仲良くなり、ムツキは勿論、ナルミさえも気安い口を利くようになった。
アリスがミサゴの隊に卸した剣は評判がいいらしく、今後は武器の依頼も入って来そうな気配がある。
稲刈りも済めば農作業の頻度は減るので、より鍛冶に集中できるだろう。忙しくなりそうだ。その前の小休止ととらえれば、こういう日も悪くはない。
雨戸ががたがたと揺れ、屋根瓦を雨が叩く音が天井を通して聞こえて来る。
軒先から垂れた水が庭先を流れて行く音もする。
ムツキはこの非日常感が楽しいのか、何だか面白そうな顔をしながら畳の上でごろごろ転がりながら、薄明かりのランプの近くで本を広げ出したナルミの脇腹を突っついたりしている。
ナルミは面倒くさそうに身を捩じらした。
「やめろ」
「おにぃ、目ぇ悪くなるよ」
「そうだよナルミ。しかも眉間にしわが寄ってるぞ」
とアリスも手を伸ばしてナルミの眉の間をつついた。
「やめろってば」
「なんだよー、本なんかよりも姉さんにかまえー」
弟の抵抗に合うとアリスの悪戯心には却って火がつく。机に向かっているナルミの背中から覆いかぶさって両手で頬をむにむにとつねった。
「む、にきび発見」
「やめろって!」
意地でも本にかじりつこうとしていたナルミだが、もはや本どころではない。
なまじアリスの力が強いせいでナルミの方も全力を出すから、二人して畳の上にひっくり返った。そこにムツキがのしかかった。三人はもつれながら転げまわった。
散々じゃれ合って、ようやく離れた時は三人とも汗まみれだった。
姉と妹ははしゃいでいるが、弟は息も絶え絶えである。
「あっちぃ……ただでさえ蒸すってのに……」
大の字に転がったナルミがうんざりしたようにつぶやいた。秋になっているとはいえ、雨戸を締め切った室内はじんわりと汗ばむくらいには暑い。
「ごめんごめん」
とアリスとムツキはくすくす笑った。
しかしながら確かに暑い。風も入って来ないし、湿気がある分余計に肌がべたつくようだ。今暴れたせいで余計に湿度が上がったようにも思われる。
雨戸ががたがた鳴っている。どこかに隙間があるのか、微かに空気の動きがあるが、涼風という感じはない。かといって雨戸を開ければ暴風に室内を蹂躙されるからそれもできない。
今日は水浴びもできないし、共同浴場に出かけるわけにもいかない。
手拭いを濡らして体を拭こうかと思っていると、ぐんと家が揺れた。かなり強い突風が屋根を揺らしたらしい。
驚いてきょうだいが身を固めていると、今度は庭の方で物騒な音がした。聞くだけで総毛立つくらいだ。
「な、なんだ?」
ナルミが困惑したように立ち上がった。
アリスはハッと思い当たって、大慌てで家の外に飛び出した。風は強いが、雨はさほど強くはない。
「あーッ!」
アリスは愕然とした。鍛冶場の屋根が壊れかけている。
見れば折れて飛んで来たらしい大きく太い枝が茅葺の屋根に突き刺さり、それが風を受けて屋根ごとひっぺがそうとしているらしい。
「うわっ、これやばくない?」
続いて出て来たナルミが言った。
「な、何とかしないと……あの枝を抜かないと」
屋根によじ登ろうとするアリスを、ナルミが慌てて引き留めた。
「やめろ姉さん! 危ないって! 吹っ飛ばされるよ!」
「だ、だけど」
右往左往するアリスの横にムツキが来た。
「おねぇ、ちょっとどいて」
「え、なに……」
ムツキは投げ縄をひょいと放った。強風の中にもかかわらず、縄は見事に枝に巻き付く。
「引っ張る」
「ナイスむっちゃん! ナルミも手伝って!」
「お、おう」
それできょうだい三人、力いっぱい縄を引っ張った。風にあおられていた枝はかなり重かったが、それでも何とか引きずり下ろす事ができた。
ホッとしたものの、屋根の穴はそのままだ。雨は容赦なく降り込んでいるし、壊れた所が風を受ければ予期せぬ二次被害が出るかも知れない。
現にささくれ立った茅葺が風を受けて大きくあおられている。事によると飛ばされて穴が広がりそうだ。
アリスは急いで工房に駆け込み、鍛冶道具を運び出した。
「ううー……よりにもよって炉の上が……」
一番濡れて欲しくない所が穴の真下である。
アリスは消沈しながらも、ナルミとムツキにも手伝ってもらって何とか運び出せるものを運び出した。
母屋の土間に並んだ鍛冶道具や松炭の袋を見て、ムツキが感心したように言った。
「結構道具あるね」
「こうして見ると意外にあるもんだね」
とナルミも言った。アリスは上がり框に腰かけて嘆息した。
「……あーあ、屋根の修理費用、かさむなあ……」
アリス達は困窮しているわけではないが、余裕のある生活というわけでもないから、急な出費は困る。
鍛冶仕事に伴う素材の購入費は、武器や道具を仕上げれば収入として戻って来るが、屋根の修理はそれ自体が即座に収入となるわけではない。しかし直さなければ鍛冶仕事は無理だ。だとすればしばらくは冒険者としてダンジョン通いの生活になるだろう。
これから鍛冶が忙しくなりそうだぞ、と期待できる流れが来たと思った矢先にこれである。
どうにも自分はいつも運が悪い。座敷に戻ったアリスはがっくりと肩を落とした。
ナルミがタオルを持って来てアリスにかけた。
「拭かないと風邪ひくよ」
「うん……」
「元気出しなよ。別に姉さんが悪いわけじゃないんだし、言えばみんな助けてくれるよ」
「……うん」
落ち込むアリスを見て、ナルミは肩をすくめた。ムツキがアリスの頭をよしよしと撫でる。
「おねぇ、大丈夫だよ」
「うー……」
アリスはムツキをむぎゅうと抱きしめた。ムツキはアリスを抱き返して背中をさすってやっている。
ナルミが呆れたように言った。
「二人して濡れたままで何やってんのさ。着替えてからやりなよ」
その時、玄関の戸が叩かれた。風が叩いたのではない。アリスはドキッとして顔を上げた。ムツキも怪訝そうな顔をしている。
ナルミが首を傾げた。
「誰だろ?」
「……ナルミ、むっちゃんから離れちゃ駄目だよ」
アリスは剣を手に取り、玄関へと降りた。戸は叩かれ続けている。
「どちらさまでしょうか?」
アリスが大声で呼ばわると、戸を叩く音が止まった。
「あの、あの、ここはゲンザ様のお宅で相違ないでしょうか」
おずおずとした声がした。女の声だ。若い。アリスは怪訝な顔をしながら戸に一歩近づいた。
「そうですが……この嵐の中、どういった御用ですか」
「仕事を……仕事を頼みたくて。どうか開けてください」
声は弱弱しかった。
わざわざこんな悪天候の日に仕事の依頼を? とアリスは戸を開ける事をためらった。よからぬたくらみを持つ者であったならば、自分だけならばともかく、弟と妹を危険にさらす事になる。
「入れてあげよ」
不意に声がした。ムツキが傍らに立っていた。
「むっちゃん、でも」
「悪い人じゃない。困ってる」
ムツキは確信に満ちた口調で言った。
妹は勘が鋭い。もはや第六感と言っていいくらいだ。
アリスは剣をぐっと握ってみた。
「どう?」
――ムツキの言う通り。
応えた。
アリスは瞬き一つの逡巡を置いて、つっかえ棒を外した。
戸が開かれると同時に、戸にすがるようにしていたのだろう、強風と一緒に誰かが転がり込んで来た。笠の下から長い髪が風に暴れて、濡れて汚れた長衣の裾がはたはたとひらめいた。
押し戻されるような風の勢いにアリスはたたらを踏んだが、急いで戸を閉め直し、つっかえ棒を戻した。閉められた戸ががたがた鳴った。
玄関の土間にひっくり返った人影は、荒い息を整えながら顔を上げた。
薄明かりに照らされた顔は少女のものだ。アリスより少し年下に見える。薄茶色の髪の毛は風と雨で乱れてくしゃくしゃで、顔も泥や落ち葉で汚れて、何だか憔悴しているように見えた。
「だ、大丈夫ですか」
アリスが抱き起すと、少女は苦し気な顔でそこいらを見回した。
「あの、あの、ゲンザ様は……」
「父さんも母さんも、もういませんよ」
とナルミが素っ気なく言った。少女は困惑したようにアリスを見上げた。
「そ、それは、どういう……」
「えっと……五年前に」
とアリスは口をもごもごさせた。少女は目を見開いた。
「えっ、亡くなった……ああ、そんな……」
少女はふっと意識を失い、アリスの腕の中でぐんにゃりと伸びてしまった。気を失ったらしい。
完全に脱力した人間は重い。一気に重量が増した少女を、アリスは慌てて支えた。抱きかかえていた包みがするりと落ちる。
「ちょ、ちょっと! しっかりしてください!」
「寝かしてあげよ、おねぇ。疲れてるんだよ」
と言いながらムツキは少女の笠を取った。
アリスはハッとした。つんと立った獣の耳があった。獣人だ。耳の形からして、恐らく兎の獣人であろう。
ナルミが「へぇ」と言った。
「髪の色が珍しいと思ったら、そういう事だったんだ」
「ナルミ、突っ立ってないで座敷に布団敷いて」
「はいはい」
「むっちゃん、姉さんの着物、何でもいいから持って来て。濡れてるから着替えさせなきゃ」
「ん」
着物を脱がせると、背中に火傷のようになった黒い痕があった。そこが痛むらしく、少女はくぐもった声を上げる。注意しながら少女の服を着替えさせ、濡れ布巾で顔を拭いてやり、布団に寝かした。
アリスは改めて少女をまじまじと見た。苦し気にしかめられているが、可愛らしい顔をしている。どことなく品の良さも感ぜられて、案外高貴な身分なのかも知れないと思う。
主として大陸南部に多い獣人はブリョウでは、特に群島部においては珍しく、あまり見かける機会はない。とはいえ、海外からの冒険者や商人などに獣人がいる事もあり、アリス達も見た事がないわけではない。こんなに間近では初めてだが。
この娘はゲンザに会いに来たらしい。となると、海外から来た武器商人か何かだろうか。
「……この子、どこから来たのかな?」
と呟くとナルミが肩をすくめた。
「さあね。父さんと母さんの事を知らないんじゃ、海外の人じゃないの」
「うん……でも着物はブリョウのだし」
しかも怪我までしていた。何だかわからないな、と思っていると、少女がくぐもった声を上げて、うっすらと目を開いた。
「大丈夫?」
とムツキが言うと、少女はのろのろと上体を起こした。
「ごめんなさい、ご迷惑を……」
「構いませんよ、ご無事で何よりです。あ、わたしはゲンザの娘のアリスと申します。こっちは弟のナルミと妹のムツキです」
「ありがとうございます。わたしはカンナと申します」
「あの、カンナさんは父に仕事を頼みたいと仰っていましたが……」
とアリスが言うと、カンナは俯いた。
「はい。けれどもお亡くなりになっていたとは……存じ上げませんでした」
アリスの脳裏にあの晩の事がよぎった。
父は依頼主からの仕事を終え、シヅと二人でやや遠方の島へ納品に出かけた。
アリスは留守番をしながら、弟妹と夕飯の支度をしていた。
もう連絡船が着いていい時間なのに一向に帰って来ない両親を不思議に思っていると、近所のおじさんが駆け込んで来た。連絡船がイスルギの沖合で大型の魔獣に襲われて転覆した、と。
結局両親の死体は上がらなかったが、生きてはいるまい。
アリスは頭を振った。もう過去の事だ。明るく振舞う事ができるようになったとはいえ、思い出すとやはり悲しい。ナルミはムスッとしており、ムツキはジッとカンナを見ている。
「……ともかく、そういう事情でして。父にしかできない仕事であればお受けする事ができません。わざわざ来ていただいて申し訳ないのですが」
「どんな依頼なの」
アリスの言葉を遮るようにムツキが言った。
カンナはやや逡巡したようだが顔を上げ、ちらと傍らを見た。布に包み直された剣が置いてあった。そっと布をめくって口を開く。
「この剣を、直していただきたいのです」
「……直すの無理でしょ、これ」
とナルミが言った。
アリスも頷く。経年劣化なのか、風雨にさらされていたからなのか、刀身の劣化が激しい。錆が浮いて何も切れそうにない。錆はかなり食い込んでいるようだし、研ぎ直せばかなり細く、折れやすくなるばかりだろう。打ち直すのも難しい。
「……やはり難しいですか」
カンナは俯いた。アリスはおずおずと口を開く。
「その、大事な剣なのですか?」
カンナは困ったように眉をひそめた。
「大事、と言えばとても大事なものです。これはあるものを封印する為に使われていた剣でして……」
「封印……」
「はい。わたしはキオウという島から参りました」
「え、キオウ? まさか」
アリスは困惑した。
キオウはイスルギの近くにある小さな島で、全体を深い森が覆っている。昔から禁足地とされており、周辺の島の住民は勿論、冒険者さえも近づかない。
そもそも島周辺の海流が複雑で航行が困難であり、島の周囲もほとんどが断崖、近海も岩礁地帯になっている。
よしんばそれを乗り越えて近づこうとしても、島が人を拒むように海が荒れ出す。船で近づくこと自体が危険なのである。
周辺住民は、何かしらの魔法の結界の力を囁き合い、昔からキオウには近づくべからずとした。
カンナは着物の襟元から、首飾りを出した。精巧な細工の枠に濃い赤色の石がはめ込まれている。
「キオウには中の者を外に出さず、外の者を中に入れない結界が張られています。この首飾りはその結界を抜ける為のもので、封印の守り人となる者を探したり、外での用を足したりする時に使います。それも頻度は少ないですが……」
「封印?」
とムツキが首を傾げた。カンナは頷いた。
「はい。ソロモンの魔王が封じられていると伝えられています。わたしたち守り人が暮らす集落も、はるか昔、ソロモンの大陸支配が破れたのち、勇者が魔王の一柱を封印したと伝えられる所にあるんです」
「キオウに? 確かにブリョウは各地にそういう伝承があるけど、キオウにもあったなんて知らなかったな。禁足地って、そのせいなのかな?」
とナルミが言った。
かつてあらゆる魔法や錬金術に精通し、自らに従うホムンクルス――七十二柱の魔王を率いて大陸を支配した異端の魔法使いソロモンは、最後には時空の彼方に消え去ったと言われる。
その後主を失った魔王たちは狂気に呑まれ、大陸中を破壊した。ソロモンの遺産もその時にほとんどが失われたとされている。
その後、魔王たちは主神ヴィエナの加護を受けた勇者によって残らず斃されたと伝えられており、彼らの残した瘴気が魔獣を生む原因となったという。大陸各地に魔王の魂を鎮める祠などもあった。無論、ブリョウにもそういったものがある。
ナルミは少し納得できなさそうに腕組みしている。
「でも、他の魔王の祠にそんな事があるなんて話、聞いた事ないけどな」
「おそらく、鎮魂の為のモニュメントと、実際に封印されている場所の違いではないでしょうか」
「そうか、そういう事か。実際キオウには瘴気があるって事だよね?」
「はい。封印がなければ島ごとダンジョンになってしまうのではないかと思います。古くから、守り人はブリョウ各地のみなしごで素質のある者が引き取られて来るんです。わたしたちは島で修行しつつ、自給自足の生活を送っていました。魔王の力は魔獣を引き寄せるのか、キオウは魔獣の数が多いんです。それらが溢れないように、討伐して回るのもわたしたちのお役目になっていました」
本来、そういった場所は冒険者が探索を行う事で自然と魔獣の数が減らされていくものなのだが、キオウに関しては封印の結界による上陸の困難さによってそれが行われない。ダンジョン化こそしていないものの、過酷な環境である事は間違いないようだ。
カンナは俯いた。辛そうに目をぎゅうとつむっている。ムツキが背中をさすってやった。
「大丈夫?」
「今、キオウは大変な事になっているんです。封印はまだ完全に破れてはいないのですが……」
曰く、先日キオウ周辺で地震があり、それから急激に瘴気が溢れるようになって、魔獣がその質と数を増した。
これはおかしいと封印地を確認したところ、祠の土台の石が崩れており、封印の要として突き立てられている剣が地面に倒れ、刀身がボロボロになっていた。どうやら、地震の時に土台が崩れ、それで突き立ててあった剣も倒れてしまったらしく、それから封印が弱まった。そうして溢れて来た瘴気に浸食されて劣化しているという事であった。
剣が既に意味を為さなくなっていた為、守り人たちは全力を挙げて結界を維持しつつ魔獣と戦い、戦う力に劣るカンナが剣を預けられ、イスルギまでやって来たとの事である。
「その剣を父に……?」
「はい。およそ三十年前に一度、ゲンザ様が剣を打ち直してくださったそうです。だから剣に異常があればイスルギのゲンザ様を頼れと言われていて……まさかわたしたちの代にそんな事が起きるなど、想像もしていませんでしたが」
父さんが打ち直した剣なんだ、とアリスはボロボロの剣を見た。
「おとう、やっぱりすごいね」
とムツキが言った。
「父さん、そんな仕事もしてたなんて……」
アリスは嘆声を漏らした。名実ともにブリョウ最高峰の鍛冶師だったわけだ。
カンナは悲し気に頭を振り、剣を布に包み直した。
「けれど、お亡くなりになっていたのでは……」
と言いながらふらふらと立ち上がろうとする。まだ足元がおぼつかない様子である。
アリスは慌ててカンナを押しとどめた。
「駄目ですよ、まだ体力が戻っていない様子ですし、この嵐の中じゃ」
「いえ、戻ってみんなを手助けしなくては……直せないならば新造をと思ったのですが……ご迷惑をおかけしました」
「おねぇがやれるよ」
とムツキが言った。
カンナが驚いたようにムツキを見、それからアリスに視線を移した。
「アリス様が……? 鍛冶師なのですか?」
「は、はい。一応……」
カンナはぱあっと表情を輝かしてアリスの手を握った。
「そういえば娘御だと……では、ゲンザ様から鍛冶を?」
「うっ……た、確かに父から鍛冶は教わりましたが……」
「そうならばどうかお願いいたします。封印の剣を修復してくださいませ」
そう言ってカンナはすがるような目でアリスを見つめる。
アリスは一瞬鼻白んだ。かなり責任重大な仕事である。自分にそれができるかどうか、満腔の自信を持って頷く事ができなかった。
改めて封印の剣を手に取ってしけじけと見る。
ボロボロだが、ゲンザが作ったとだけあって、かつては素晴らしいものだったのだろう。瘴気にかなり浸食されてしまったのか、刀身から柄まで錆に覆われてほとんど朽ちかけている。
アリスは錆のついていない部分にじっと目を凝らした。かろうじて残る鋼はかすかに光っているように見えた。
「……かなりシンプルな作りだけど」
独り言ちながらためつすがめつしていると、不意に耳元で何かささやくような声が聞こえた。
アリスは思わず近くに立てかけた自分の剣を見たが、そちらは黙っている。
まさか、と改めて錆びた剣の束を握り締めてみると、消え入りそうな声がした。微かに聞こえるが、何と言っているのかまではわからない。それほどまでにか細い声だ。
「鋼の実か……!」
意志ある剣だからこそ、魔王の封印という大役を務められていたのだろう。だとすると、新造の剣も鋼の木の実で打たねばならない。
心臓が早鐘を打つのを感じた。自分の剣以来、一人で実の剣を打った事はない。しかし、これを打つ事ができれば、一歩父に近づく事ができる。これを尻込みしては、余計に父母の背中が遠のく。そんな風に思った。
アリスはカンナの目をまっすぐに見つめ返した。
「わかりました。父のようにできるかはわかりませんが、全力を尽くします」
「ああ、よかった……」
カンナはホッとしたように微笑みを浮かべ、ふらりとよろめいてアリスにもたれかかった。気が抜けたらしい。
「ひとまずきちんと休んでください。体がよくないと、戻るものも戻れませんよ」
「はい……」
カンナは弱弱しく微笑んだ。
さて、そうなれば嵐の最中ではあるが鍛冶場に入らねばなるまい。キオウの状況は一刻を争うようだ。台風だからといって便便としている法はない。
「……姉さん、でも工房が」
「それは……ともかく何か考えるよ」
その時、壁に立てかけてあったアリスの剣が唸って震えた。ムツキも怪訝な顔をしてそこいらを見回している。
「変な感じ。何か来た」
「……今度はお客さんってわけじゃなさそうだね」
アリスは剣を手に取った。
「ナルミ、戦闘用の符があったら準備しときな。使わなくてもいいけど、一応ね」
「わかった。どうする、姉さん。ただの強盗ならまだしも、カンナさんを狙って来たようなのだとすれば、厄介な相手かもよ」
剣が反応したという事は、何かしらの悪意を帯びた者である可能性は高い。知恵ある魔獣のようなものであれば、人間の強盗よりも厄介だ。
カンナがおびえたように身を縮こました。
「ご、ごめんなさい、ご迷惑を……」
「気にしないで。ナルミ、カンナさんとむっちゃんを守ってあげてね」
そう言ってアリスは剣を抜いた。蒼い刀身が光を放ち、黄輝石の光と共に座敷の中を淡く照らし出した。
ムツキがさっと立ち上がった。
「おねぇ、向こうの部屋の隅」
ハッとして見ると、襖を開けたままの向こうの座敷の暗がりに影があった。ずるずると動いている。呻くような苦し気な声で何か呟いていた。
「さむい……さむい……」
「誰!」
アリスが立ちはだかるようにして怒鳴ると、影は這うような格好で、そのままアリスたちの方に向かって来た。さながら人間大の蜘蛛を彷彿とさせるようで、アリスは少し肌を粟立たせながら正眼に構えた。剣の輝きが強くなり、影は苦し気に呻いて、そのまま後ろに飛び退った。
「……アンデッド?」
アリスは威嚇するように刀身を相手に向けた。青い光に照らされると、影は苦しそうに逃げ惑う。しかし室内だから光から逃げられない。
アリスは獣を追い詰めるようにじわじわと距離を詰めて、影をカンナから遠ざける。
カンナが困惑したように呟いた。
「ノロイ……? どうして……確かに海辺で倒した筈なのに……」
「知ってるの?」
とムツキが言った。カンナは頷いた。
「はい。実体を持った呪殺の化け物です」
「魔獣とは違うんですか?」
とアリスが言った。カンナが答える前に、縮こまっていたノロイが、まるで弾丸のように跳ね飛ぶや、縁側の雨戸を突き破って外に飛び出した。
「うわっ、やば! ナルミ! 雨戸直しといて! 外には出ちゃ駄目だよ!」
そう言いながら、アリスは風に逆らって外に飛び出した。