三.空から灰色の雲が垂れ下がっているが
空から灰色の雲が垂れ下がっているが、雨は降っていない。何となくもったりした空気が地表近くに溜まっているようで、霧とも靄ともつかぬものが、時折ゆらゆらと揺れながら通り過ぎて行く。
アリスは濁った泥水に足を突っ込んで腰をかがめ、ばしゃばしゃと泥を引っ掻き回し、それから眉間にしわを寄せて唸った。
「ぐあー……どうしよう」
「姉さん、雑にやるなよ。後で大変なんだから」
近くで同じく腰をかがめていたナルミが非難がましく言った。
アリスは口を尖らして、泥水を手で跳ねさした。
「うわっ、やめろ!」
「ふんだ。姉さんの悩みがわからん弟め」
「悩む頭があるの? 脳みそまで筋肉のくせに」
「うっさいな、もう。後で覚えてろよ、ナルミ」
ナルミは眼鏡を拭って知らん顔をした。
田草取りの日々は相変わらずだったが、コテツが持って来た剣の新造の依頼がアリスを悩ませていた。
魔石の埋め込まれた剣は、普通の剣とは違って特殊な加工が必要である。技術的には問題なくできるのだが、コテツ達を見返してやろうという思いがあるから、ついこだわりが強くなる。
刀身に使う鉄の種類や、鍛錬のやり方で効果が違って来るというから、あれこれと考えているうちに行き詰ってしまった。こういう時に相談できる相手がいないのは厳しいものがある。
じりじりしていても時間は過ぎる。納品の期限は待ってくれない。
ともあれ、部屋で頭を抱えていても埒が明かないし、田草取りは食糧自給の大事な仕事だ。少し気分転換しようと顔をしかめながらも田んぼに出て来たが、どうにも集中できなくて困る。
切りのいいところで畔に上がって、ぐったりと頭を垂れた。
「あー……どうしよ」
「何に悩んでるの? 姉さんなら問題なくできるんじゃない?」
とナルミが竹の水筒を差し出しながら言った。アリスはそれを受け取りながらぶうたれる。
「普通の剣ならね。でも今回は魔石入りだから、加工の仕方が少し特殊なんだよ。使う鉄の種類も考えなきゃいけないし、組み合わせもあるし」
「ふーん」
「魔導鉄の魔力伝導……心鉄を魔導鉄にしても……皮鉄まで魔導鉄じゃ硬度が不安だしなぁ。でも普通の鉄じゃ魔石の効果が十分に出ないし……鉄を二つ重ねて……その場合半々でいいのかな? それとも比率を……うーん、でも魔石優先だったら全部魔導鉄の方が……? 鋼の実じゃ魔石と喧嘩しちゃうから使うわけにもいかないし……」
ぶつぶつ呟くアリスを横目に見ながら、ナルミは水筒の水を飲んだ。
「……心鉄が魔導鉄である必要はないんじゃない?」
「はあ? あんた鍛冶師にはならないんでしょ、何がわかるの」
「ならないけど、武器の魔力伝導の事に関しては知ってるよ。魔法書にも載ってるし」
「本当に? 魔力伝導って言っても、使い手の方の話じゃないよ? 魔石を刀身に埋め込んで、その力を刀身に伝わせる為なんだよ」
「そうだよ。魔法使いの杖に魔石を入れたりするでしょ。要はそれと似たような話じゃないの? 魔石の効果を発動するトリガーは結局使い手の方になるんだし」
言われてみればそうである。アリスは面食らったようにナルミを見た。
「そ、そりゃそうかもだけど、杖は木でしょ? 剣とは違うって」
「杖に魔石を仕込む時は、木の繊維に沿って魔力が流れるんだよ。太く全体に流れるよりも、そういう細かい流れが幾つもあった方が杖自体が頑丈になったり、魔法効率がよくなったりするんだってさ」
「細かく……じゃあ、魔導鉄と普通の鉄を合わせて折り返せばいいのかな?」
「そうじゃない? 心鉄も別に魔導鉄にする必要はないと思うな。そもそも普通の剣にだって魔力は流せるんだし……あ、でも魔石に向かって魔力が流れるような道筋をつけたいわけか。だとしたらそれこそ心鉄を魔導鉄にはしないで、同じように魔導鉄と鉄を組み合わせて、硬度だけ変えれば、剣全体の魔力巡りが安定すると思うけど……そうだ、魔導鉄も、魔獣由来のものだと効率がいいらしいよ。ここら辺の魔獣だと矢車貝の殻とか、潮返しの甲殻とか、そういうのを溶かすと魔導鉄が採れるとか……そういうの、姉さんの方が詳しいかな? あとは補助的な魔術式の刻みを……」
講義でもするようにとつとつと語っていたナルミの手を、アリスはがしっと握りしめた。目がきらきらしている。
「ナルミあんた、ちゃんと勉強してるんだね」
「あ、当たり前だろ!」
「見直した! 姉さん嬉しいぞ! いい子いい子!」
「だ、抱き着くなってば! 汗臭い!」
アリスは握った手をそのまま引っ張って、ナルミを抱き寄せてよしよしと撫でた。
アリスの胸元に顔をうずめられたナルミは真っ赤になってじたばた暴れたが、体勢が悪いのもあってやはり抵抗になっていない。
ひとしきりナルミを撫で回したアリスは、ぱっと立ち上がった。
「よし! ちょっと材料を集めて来る! 後よろしくね!」
「え? ちょ、待てよ! 草取り! おい、俺一人かよ!」
家に駆け戻ったアリスは、足を洗うのももどかしくといった風に冒険装束に身を包んだ。
昼餉の支度をしていたムツキが目を丸くする。
「どしたの、おねぇ。お昼まだ早いよ」
「仕事の材料を集めて来る! 夜わかんないから、気にしないでいいから!」
「ダンジョン行くの?」
「そう!」
「ちょっと待って」
ムツキはお櫃の米で手早く握り飯をこしらえて味噌を塗り、竹皮で包んでアリスに寄越した。
「お腹空いたら力出ないよ」
「ありがと、むっちゃん。行って来ます!」
ここいら一帯の魔獣の事は頭に入っている。矢車貝や潮返しはイスルギのダンジョンに生息しているから、ハブカやマユヅミといった大型ダンジョンのある島まで行く必要はないだろう。
ナルミの提案で頭の霧が晴れると、アリスの頭脳は自らの知識を以て次々にアイデアを出し始めた。糸口さえ掴めれば、そこから完成形を導き出す事はそう難しい話ではない。速足でダンジョンに向かいつつ、頭の中であれこれと素材の組み合わせや構造を考える。
雷石の魔力ならば、水生魔獣の素材は確かに相性がよさそうだ。Sランク冒険者でなければ取れないような高位ランク魔獣の素材がなくとも、組み合わせ次第でいくらでもいいものが作れそうである。
アリスはわくわくしながらダンジョンの入口に辿り着いた。勢いよく頭を下げる。
「こんにちは!」
守衛のギルド職員が目を丸くした。
「おお、アリスさん。探索かい?」
「はい! いつも通り一人です、よろしくお願いします!」
「う、うん、気を付けて……あっ、今日は魔力が濃そうだから、本当に気を付けて!」
「はい!」
意気揚々とダンジョンに踏み込んで行くアリスを見て、職員は「あんな溌剌とした子だったかな」と首を傾げた。
イスルギのダンジョンは場所によって地下洞窟か海底洞窟かになる。今回は海側を目指して、水生魔獣を狩る予定だ。
アリスは腰の剣を軽く叩いた。
「目当てのがいたら、教えてね」
剣は小さく震えてそれに応えた。
アリスは微笑んで、カンテラに火を灯す。
滑らないように注意しながら、ゆっくりと進んで行くと、やがて夜光虫のような青白い光が壁面や天井のあちこちに明滅するようになった。カンテラを消しても、足元が見えるくらいに明るい。
周囲に剣呑な気配が満ちるにつれて、アリスも落ち着いた。子供みたいにはしゃいでしまったな、と少し照れ臭くなる。
しかし長々と頭を抱えていた事に光明が差せば、つい心が沸き立ってしまうのも仕方があるまい。
水音がし、潮の臭いが濃くなった。
足元の湿り気が増したと思ったら、青白い光を照り返して黒々と揺れる水面が見えた。気を付けなければ水に足を突っ込む羽目になる。
水中の見通しは悪いから、魚人のような魔獣が急に飛び出して来てもいいように、剣の柄には手を置いていた。
何度かの戦闘を経て、握り飯を頬張ったりしながら奥へ奥へと進むうちにだらだらの下り坂になって、水が波のように打ち寄せるようになった。ところどころから岩が水上に覗いているから、奥の方まで浅く続いているらしい。
腰の剣が小さく震えた。
波の揺らぎの中に、時折見えるものがあった。
「水の中か……引き潮の時間なんだけど、今日は魔力が濃いって言ってたし、そのせいかな?」
海に面したダンジョンは潮の満ち引きによって表情を変える。
この場所も引き潮の時は歩いて奥まで行けるのだが、ダンジョン内の魔力の多寡により空間や時間がねじれるせいか、外の潮汐と多少のズレを生じる場合がある。
いずれにせよ、標的は見えている。かといって水の中でやり合うのは得策ではない。
アリスはその辺に転がっていた石を拾って放り投げた。いくつか投げた挙句、目的にこつんとぶつかる。そいつはぶるりと震えると、飛沫を上げて水の中に沈んだ。
アリスは素早く剣を構えた。
やにわに、水の中から大きな平貝が飛び出して来た。円盤形で、しかし縁にはいくつも鋭い突起がついている。それが回転しながら向かって来るから、巨大な手裏剣でも飛んで来ているようだ。
アリスは貝から目を離さないようにしながら身をかわす。
貝は向こうの岩に直撃した。しかし貝自体は傷ついていない。岩の方が砕けて崩れてしまった。
貝が再び飛び上がろうとする前にアリスは一気に距離を詰めて、わずかに開いた貝の隙間に剣を突き込んだ。
殻が閉じて剣を挟み込むが、そのままこじるようにして貝柱を断ち切る。途端に貝は力を失ってごとんと地面に転がってしまった。
「ふう……」
――乱暴すぎ。
剣が不満そうに震えた。
アリスは苦笑しながら、刀身を布で拭った。汚れを拭くと、刀身には傷一つない。
「ごめんごめん。でも絶対大丈夫ってわかってたから」
剣は刀身をかすかに光らせて、静かになった。
アリスは改めて獲物を見た。
大きさは梅干しを干す笊ほどもある。上から見ると、表面の凹凸の模様が、まるで矢羽根がぐるりと丸くなっているかのように見える。矢車貝の名の由来だ。
魔力によって飛翔し、魔導鉄を含んだ殻で獲物を切り裂く。大型の個体を相手にしては、安物の武器では逆に破壊されてしまう程度には危険な魔獣である。
殻自体が強靭であるため、これくらいのサイズになればそのまま加工して盾に利用する事も多いが、今回は炉にくべて魔導鉄を抽出する予定だ。
「ずいぶん大きいな、これ。いくつか集める予定だったけど、これ一つでいけるか……」
いつも見る矢車貝はもっと小さい。潮が満ちていたせいで、大型個体が水際にまで寄って来ていたのだろうか。魔力の濃さも関係していそうだ。
「このまま背負ったら……汁が垂れるな」
帰り着いた時に貝汁まみれでは格好がつかない。
貝柱を断ち切って貝を開き、身を殻からこそいで放り出した。食える貝だから勿体ない気もしたが、今回の目的は身ではない。
アリスは海水で洗った貝殻を重ねると、紐をかけて背負えるようにした。そうして再び足元に気を付けながら帰路を辿る。
これを砕いて炉にかけ、魔導鉄を精製する。量が足りなければ再びダンジョンに入る必要があるが、ともかくそうして別の鉄と組み合わせて鍛錬すれば、良質の素材になる筈だ。
ダンジョンを出ると日が暮れていた。
守衛の職員に挨拶し、町まで出ると、そこいらは宵の口の喧騒に満ちていた。軒先や露店で串焼きや煮込みが売られ、漁師や職人たちが立ったまま一杯二杯引っかけている。
イスルギは他の島に比べて小さいが、それでも賑やかだ。
尤も、港は島外の人々も多く集まるから、それも相まっての賑わいである。日が暮れたとはいえ、居酒屋も露店もまだまだ客足が絶えそうもない。
畜産は盛んでないから肉は多くないが、魚介類は豊富だ。
魚のすり身を揚げたのと根菜などを出汁で煮込んだ、おでんというのがあちこちで売られている。鼻腔をくすぐる出汁のにおいが腹を刺激する。店によって具材や味付けが微妙に違い、お気に入りの店が人それぞれにあるのが面白い。
串に刺さったのをその場で頬張る人も多いが、鍋を片手に出汁ごと買って行くのも散見される。家に帰って食べるのだろう。アリスも、よく夕飯のおかずとして鍋を持って買いに来る事があった。
もうナルミとムツキは夕飯を済ませただろうか。
アリスはちょっと迷ったが、見知りのおでん屋の軒先に顔を出した。
「こんばんは」
「ありゃ、アリスちゃん」
額に汗を浮かべたおかみさんが笑った。
「ダンジョン帰りかい」
「はい。あの、持ち帰りたいんですけど今日お鍋なくて。明日返しに来るのでお借りしてもいいですか」
「もちろんだよ。何にする?」
「ええと、ちくわと大根と……」
それで鍋を出してあれこれと具を入れてくれる。頼んだよりも多いからアリスが目を丸くすると、おかみさんはからから笑った。
「おまけおまけ、ナルちゃんとむっちゃんに沢山食べさしておやりな」
「ありがとうございます」
アリスははにかんで鍋を受け取った。アリス達の事情を知っている近所の人たちは何かと気にかけてくれる。
「ああ、今度包丁の砥ぎ直しをお願いしたいんだけど、いいかねぇ?」
「ええ、喜んで。何なら今お預かりしてもいいですよ」
「おや、そうかい? ちょっと待ってておくれ」
おかみさんは奥に行って、布に包んだ包丁を持って来た。
「じゃあよろしくね。鍋は急がなくていいからね」
「はい。ありがとうございます。おやすみなさい」
町を出ると夜道に街灯はない。
アリスはカンテラに火を灯した。田んぼの水にカンテラの灯がうるんだように映った。
蛙の声が柔らかな夜風と共に流れて来る。日中は汗を掻くほどでも夜になれば涼しい。
不意に海の方から道を辿るようにして風が吹き上がって来た。
アリスがふりかえると、海辺の町の灯がきらきらした。