二十九.暗い工房の奥に、父の背中が
暗い工房の奥に、父の背中が見えた。
前で燃える炉の火がぼんやりとその姿を浮かび上がらせている。鞴を動かすその姿の他は、不思議に黒く染まって見えない。
アリスはもじもじしながら、そっと父に歩み寄った。
父さん。
口から音は出なかったが、確かに呼んだ。
父はぴくりと動きを止め、ゆっくりとアリスの方を向く。その視線は冷たく、侮蔑の光を含んでいた。
アリスは怖気づいて後退る。
父は何も言わない。ただ、冷たい目だけをアリスに向けている。
アリスは何か言いたかった。しかし何と言えばいいのかわからない。
不意に父が立ち上がった。そうしてくるりと背を向けて行ってしまう。
アリスは追いかけようとした。足は動いた。しかし走れど走れど、父の姿は遠くなるばかりだ。やがて父の姿は闇の中へと消えてしまう。
父さん!
ぐらぐらと視界が揺れるように感じた。
いや、実際に誰かに揺すぶられているらしい。
アリスはハッと目を開けた。
「おねぇ! おねぇ、起きて!」
ムツキが必死になってアリスを揺さぶっていた。アリスは覚醒しきっていない頭で上体を起こした。
「むっちゃん……なに? どうしたの?」
「おにぃたちが危ない!」
アリスは跳ね起きた。傍らにあった剣を引っ掴んで、雨戸を蹴破るように開けて外に飛び出す。
今まさに魔獣たちがナルミたちに飛び掛かろうとしているところだった。
間に合わない!
それでもアリスは剣を抜きながら必死に駆けようとした。
その時、頭上がきらめいたと思いきや、まるで流星のように矢が雨あられと降って来た。
それらは正確に魔獣の急所を射抜き、十数匹はいたと思われる魔獣たちをたちまち絶命せしめた。
アリスは足を止めて呆然とした。まだ夢の続きを見ているのだろうかと思う。
しかしそんな風に意識が覚醒するにつれて、夢の内容はたちまち溶けるように消えて行った。
立ち尽くすアリスの前で、誰かが木から飛び降りて来た。弓を携えた女である。鍔広のトラベラーズハットの下から栗色の髪が見えている。
「おにぃ!」
ムツキが飛ぶように駆けて行って、ナルミに抱き着いた。
それを見て、アリスもハッとしたように走って、ナルミたちの所まで行った。誰も怪我していないようだ。アリスはホッと胸を撫で下ろし、同時に情けなさに肩を落とした。
「みんな、ごめん……こんな時に呑気に寝ちゃうなんて……」
「仕方がないだろう。結界もあったのにこれだけ入って来るのは想定外だ」
ヒイラギがやれやれといった面持ちで肩を回し、栗色の髪の女の方を見た。
「助かったよ、ありがとう。あんたは冒険者かい」
「ああ、アネッサだ。無事で何よりだよ」
とアネッサはベルトから下げた冒険者のプレートを示した。AAAの文字が彫られている。
アリスは歩み寄って頭を下げた。
「ありがとうございます、アネッサさん。おかげで助かりました」
「気にしないで。間に合ってよかった」
アネッサは弓を持ち直し、辺りを見回した。
「やっぱりこの辺りは結界が緩くなっているみたいだな……」
「何か知ってるんですか?」
とナルミが言った。
「うちの魔法使いが、結界は一部だけ直しても、周囲の装置とのバランスを整えないとその部分が脆くなるって言ったんだよ。それでわたしが様子を見に来たってわけさ」
アネッサは懐から小瓶を出して一口含んだ。濃い酒精のにおいがした。蒸留酒らしい。ヒイラギが頭の手拭いを巻き直した。
「川の方に魔獣を集めてるんじゃなかったのか?」
「実際集めていて、そちらではかなり大規模な戦いになってるよ。ただ魔獣の数が多いから、こうやって別の方に漏れて来るのもいるってわけだ」
「勝てそうですか?」
とナルミが言った。アネッサはふっと笑った。
「負けはしないだろう。こう言っちゃ何だけど、わたしらはもっとやばい修羅場も潜って来てる。少しばかり魔獣が溢れて来たくらいじゃ平気さ」
「アンジェとかミリィちゃんもそっちで戦ってるのかな……」
とムツキが呟いた。アネッサが驚きに目を見開く。
「アンジェとミリィを知ってるの?」
「ん……アンジェとはお話ししてないけど、ミリィちゃんが教えてくれた」
剣術大会の客席でミリアムと知り合い、一緒にアリスとアンジェリンの試合を見たのだ、とムツキから聞いて、アネッサはからからと笑った。
「そいつらがわたしのパーティメンバーだよ。乱入して来たエルフもそうさ」
「あ、確かマルグリットさん……」
とアリスが言った。
「そう。わたしらはマリーって呼んでるよ。そうか、何だか急に親しみを覚えるな」
と言いながら、アネッサは庭の縁の方に目をやった。下の方から怒声やら破裂音やら、何やら騒々しい物音が聞こえて来る。
「もしかして、鍛冶場町にも魔獣が入って来てるの?」
とカヤが怯えたように言った。アネッサは頷いた。
「そうだが、こっちにも冒険者や衛士隊はいる。街中の方がむしろ大勢で対処できるさ。こうやって少数で離れていると危ないよ」
ヒイラギが頭を掻いた。
「工房を荒らされたくなかったんでね……短慮だったと思うか?」
「いいや。結界の事だって想定外だったようだから仕方がないと思うよ。ともかくもう言いっこなしだ。無事だった事に変わりはない」
アネッサは矢筒を確認し、アリスの方を見た。
「アリスさんだったね。アンジェとやり合えるって事は、戦える人だろ?」
「え、あ、はい。一応冒険者でもありますので……いえ、あの、アンジェさんには全然敵わなかったです」
「はは、そうか。まあ、あいつは少し別格で強いんだよ。まともにやり合えるのはマリーか……わたしらの故郷の師匠筋の人たちくらいだな。あー、と、話が脱線するといかんな。わたしはこれから結界を確認しに行くが、アリスさん、よければ手を貸してもらえないかな? 前衛にいてもらえると有難いんだが」
行きます、と返事しかけてアリスは口をつぐんだ。自分が出てしまうと、ここにいる家族が危険だ。壊れた部分以外からも結界を抜けて来る個体だっている。
アリスは申し訳なさげに頭を下げた。
「すみません、家族が心配なので……」
「いい。行って来い」
とヒイラギが言った。アリスは驚いてそちらを見る。
「でもヒイラギさん……」
「この騒動を解決する方が先だ。俺らは町に下って衛士隊の詰め所か冒険者ギルドの支所にでも避難しておく。その方が余計な心配も要らんだろう」
それで話はまとまった。アリスは装備を整え直し、家族を見送った。
アネッサが頭を掻く。
「すまないな、何だか無理を言っちゃったみたいで」
「いえ、これが解決しない事にはここに籠っていても同じなので」
アリスは息を吸って、吐いた。悪い夢を見たとはいえ、一寝入りした分体は少し楽である。
「行きましょう」
「うん、行こう」
それでアネッサと二人、屋敷の裏手から山に入り込んだ。
ここいらの木々は針葉樹が多く、また背の高いのも多いので、広葉樹も競うように背が高くなり、日の光はかなり遮られて鬱蒼とした雰囲気が漂っている。
地面にはそれらの葉が分厚く降り積もって、踏むと何となくふわふわしていて走りづらい。
それでも山に慣れているアリスと、旅が長いアネッサは何の苦もなく先へと進んだ。
結界があるとはいえ、そこに行くまでの道が整備されているわけではない。ただ、点検や非常事態の時の為か、所々に結界装置への道しるべがあって、一つ見つければそれを辿ればよさそうだ。
途中で何度か魔獣と遭遇したが、危なげなく撃退した。
アネッサの弓の腕は驚異的で、立木が多く、見通しの悪いこの森の中でも、針の穴を通すような正確さで、遠くから魔獣の額を射抜いた。
向こうでクロマシラがひっくり返るのを見届けて、アネッサが振り返る。
「これで全部かな?」
「そうみたいですね……アネッサさん、物凄い腕ですね」
「ふふ、アリスさんもかなりのものだね。安心して後ろを任せられる」
言葉の調子にお世辞が入っていない。アリスは照れ臭くなって頭を掻いた。
やがて結界の辺りに辿り着く。斜面の途中が一部平坦になっている所で、雪解けの頃に降った雨で地滑りが起きたらしかった。その崩れてえぐれた所をまたぐように魔力の線がつながっている。
「……新しいのは、これか」
アネッサが装置の一つを見た。外の箱も新しく、開いて見ると中の魔石や術式の装置なども新しい。
魔石などはかなり眩しい光を発している。しかし周囲から来る別の魔力とのバランスが悪いらしく、時折ジジッと音を立てて魔石の光が明滅した。
「他のに比べて型が新しいのかな……作動はしてるけど、たまに弱くなったり消えたりするって感じか」
「アネッサさん、わかるんですか?」
「魔法使いみたいにはいかないけど、色々現場は見て来てるんでね。それに、一応対策は教わって来た」
アネッサは腰のポーチから符を出すと、確かめながら術式の一部にそれを貼り付けた。すると魔石の光が弱まり、眩しいほどではなくなったけれど、明滅する事はなくなった。
「これでよし」
「凄い……後はよさそうですか?」
「ああ、いいと思う。どのみち、結界を抜ける奴は抜けるし。ただまあ、さっきみたいに十何匹も大挙して入り込むって事はないだろうな」
その時、アリスの腰の剣が唸って震えた。
アリスもアネッサも、さっと同じ方を見やる。
何か巨大な塊が震えるようにして動いていた。生き物が溶けて混ざったかのような感じで、手足に当たるであろう部分からも顔のようなものが覗いたり、背中や腹の部分から別の手足が生えていたりする。そうしてそれぞれの顔の口から、黒い靄のようなものを吐き出していた。
「あれは……」
「何かの変異体だな」
とアネッサは目を細めた。
「瘴気を発してる。まずいな、あんなのが来たら、あれに引き寄せられて魔獣がこっちに流れて来るぞ。あれじゃ結界も役に立たん」
「倒してしまえば何とかなりますか?」
とアリスが言うと、アネッサは面食らったように目をしばたたいた。
「そりゃ何とかなるけど、やれるか?」
「やってみないと仕方ないでしょう」
アリスは剣を引き抜いた。刀身が蒼く輝いて唸り声を上げる。アネッサは驚いたように剣をしけじけと眺めた。
「まさか、生きている剣か?」
「はい。鋼の木の実から打ちました」
「そうか、これが……グラハムさんの剣以外のを見たのは初めてだな」
「え? グラハムさんって……」
「ふふ。無事に帰ったらゆっくり話してあげるよ。ともかくあれを何とかしよう」
アネッサは素早く矢をつがえると、大きく引き絞って放った。
矢は弧を描くように飛んで行ったが、空中で急に幾本もの矢に分かれて、およそ十数本の矢が変異体の魔獣に突き刺さる。様々な種類の声が混じった悲鳴が上がった。
「わ、凄い……」
「ちょっとした魔法の矢だよ。しかしまあ、大して効果はない、か。アリスさん、あの魔獣の手足やらを斬り落としてみてくれるか? 再生するかどうか、それ次第で対策が変わるから」
「わかりました」
アリスは剣を構えて、一直線に魔獣へと突進した。下から斬り上げて、魔獣の腕を斬り飛ばす。
思ったほど手応えがなく、返す刀でそのまま足まで叩き切った。
変異体はぐらりと体勢を崩し、ずしんと音をさして横倒れになった。
「危ない、下がって!」
後ろからアネッサの声がした。アリスは驚いて後ろに飛び退る。
さっきまでいた所に、真っ黒で大きな手が叩きつけられた。見ると、変異体の背中の方から長い腕が伸びている。
「こんなのあったか……?」
アリスは冷や汗を掻きながら剣を構え直す。
見ていると、斬った傷口から瘴気が湧いて、靄状のそれが次第に形を作って質量を持ち出し、再び腕や足へと変貌する。
アリスは舌を打った。振り返らずに大音声で呼ばわった。
「アネッサさん! こいつ再生します!」
「切った部分が戻って来るか!? それとも内側からか!?」
「内側です! 瘴気が形になります!」
立ち上がった変異体から、触手のように大小の腕が生えてアリスに向かって来た。アリスはそれらを斬り払いながら後ろに下がる。
矢が飛んで来た。変異体に直撃したそれらは、矢とは思えぬ威力で変異体を後ろに押し戻す。
アネッサが隣にやって来てアリスの肩を叩いた。
「少し面倒なタイプだな。一旦下がろう」
並んで距離を取りながら、アリスは口を開いた。
「わたしたちだけじゃ攻め切れませんか?」
「核を中心に再生するタイプならまだわかりやすいけど、こいつは多分瘴気の塊が魔獣の形になってるタイプだ。核があればいいけど、ない場合は瘴気がなくなるまでダメージを与えるしかなくなるから、根競べになる。でも瘴気タイプは大体核がないんだよな……」
アネッサは困ったように頭を掻いた。
「一番強力な矢が切れてるからな……魔法使いを連れて来るべきだったか」
曰く、アネッサはエルフのマルグリットと一緒に、山の中に魔獣の発生の原因を探りに行っていたのだが、その途中で魔獣の群れと遭遇し、そのまま戦闘になった。その時に手持ちの術式刻みの矢の大半を消費してしまったという。
中でも魔獣数十匹をまとめて吹き飛ばせる威力の矢が、もうなくなっているという。
「一度危ない状況があってね、つい使っちゃったんだ。刻むのに時間がかかるから、戻って来てから作れてなくてね……」
「……その術式、今刻むのは難しいですか?」
アリスが言うと、アネッサはおやおやという顔をした。
「できなくはないけど、わたしは本職の魔法使いじゃないからな。どうしても小一時間はかかってしまうが……」
「やってください。わたしが時間を稼ぎます」
「だが、危ないぞ? 近接だと瘴気の影響も受けるだろうし、他の魔獣が来る可能性だってある。一度町まで引き上げて応援を呼んでも……」
「そうなると、町の山手のあの辺りが戦いの場になってしまうでしょう?」
従兄の工房を壊したくないんです。とアリスは頭を下げた。
「お願いします」
アネッサはふうと息をついて苦笑した。
「そうまで言われちゃ仕方がない。でも十分に気を付けてくれよ」
「わかっています。命までは賭けませんよ」
「よし、やろう! 少しの間、頼む!」
アネッサは矢筒からただの矢を抜き出すと、腰のナイフを抜いて柄の部分に何やら細かく刻み始めた。
変異体が雄叫びを上げる。一度攻撃を受けたせいか、体中から手やら顔やら、次々に生えてひどく気味が悪い。
アリスは剣を構えて前に出た。
伸びて来た腕を青い刀身が斬り払う。
落ちた腕はしばらく動いているが、次第に黒い靄になって、溶けるように消えてしまう。アリスは顔をしかめた。
魔獣自体が発している瘴気に加え、斬れば斬るほど、傷口や切った部分が瘴気になってそこいらに漂い出す。息苦しく、体が重くなるように思われる。
向こうが様子を見ている時は距離を取り、前に来ようとする時は攻撃して足止め、というのを繰り返しながら、アリスはちらとアネッサの方を見た。矢に向かって一心にナイフを動かしている。まだかかりそうだ。
その時、魔獣の腹の所からグレイハウンドの頭が牙を剥いて向かって来た。
アリスは慌てて剣で受け止めたが、押されて尻もちをつくように倒れる。剣が怒ったように唸って光るが、グレイハウンドの頭は刀身に噛みついて放そうとしない。
動きが止まったアリスに向かって、大小の腕がわっと殺到して来た。
「くうっ……!」
アリスは剣から手を離して横に転がるようにしてそれらを何とかかわし、腰の小刀を引き抜いて、グレイハウンドの目に突き立てた。雄叫びが上がり、口が緩む。
アリスは剣の柄を握ってさっと引き抜いた。
よかった、取り戻した。
そう思って少し気を抜いたのが悪かったのか、二の腕に鋭い痛みを感じた。腕の一本が先端を蛇の頭に変えて、アリスに牙を突き立てたのである。
「いっ……! こンのおッ!」
アリスは蛇の頭を斬り飛ばし、ぐんと地面を踏み込んで飛び退った。
血が滲み、体内に入ったであろう瘴気の影響かずきずきと傷む。山を行くのだし、慣れていないからと帷子を脱いで来たのが仇になった。
まずい。これでは。あとどれくらいだ?
その時アネッサの声がした。
「すまん、待たせた! 下がって!」
頭で考えるより前に、アリスは素早く後ろに下がって、下がって、膝を突いた。
顔を上げて見ると、アネッサが弓を引き絞っていた。物凄い魔力が渦のように体を取り巻いて、周囲の枯葉などが巻き上げられている。
「行くぞ!」
放たれた矢はまるで魔弾のような勢いで、らせん状に魔力を放ちながら飛んだ。
変異体の身体の中心に当たったそれは、突き立つどころか突き抜け、加えて矢を取り巻くらせん状の魔力が肉体を粉々にしながら巻き込む。
そして矢が地面に着弾するや、爆発したように土煙と木々の残骸が飛び散らかった。
変異体は跡形もなくなっていた。
瘴気もそこいらじゅうに跳ね散らかされて、薄い残渣が微かにただようばかりだ。それも次第に薄れて消えてしまうだろう。
アリスが呆気に取られていると、アネッサが駆け寄って来た。
「アリスさん、大丈夫? 怪我しただろ、見せて」
「えっ、あ、わっ」
有無を言わさずに着物の前を開けられ、腕の方まではだけさせられる。
牙の突き立った所から微かに血が滲み、その周辺が青黒く腫れ上がっていた。
「ちょっとごめんよ。我慢してくれ」
アネッサはさっとアリスの傷口に唇をつけた。
「いっつ……!」
アリスは痛みに顔を歪めた。
アネッサは吸い出した血を地面に吐く。瘴気混じりの血はどす黒かった。
何度か毒を吸い出し、それから腰のポーチから薬を出して塗り、包帯を巻いた。まだずきずきとするが、痛みはかなりマシになった。
「……これでよし。もう大丈夫だろう」
「ありがとうございます、アネッサさん」
「礼を言うのはこっちの方だよ。おかげで仕留められた。これで川の方が決着すれば今回の騒ぎも片が付くだろ。歩けるか?」
「ええ、大丈夫です」
「わたしはもう少し先まで様子を見て来るから、先に町に戻っていてくれ。結界も戻したし、魔獣の心配はない筈だ」
「一緒に行きますよ、歩けますから」
「いや、もう大丈夫だ。そろそろ日も暮れそうだし、家族の傍にいてあげなよ」
「……そう、ですね。そうします。ありがとうございます」
アリスは微笑んで頭を下げた。
アネッサは小さく笑ってアリスの肩を叩いた。
「また会おう!」
そう言って、アネッサは疲れなどないような足取りでさらに奥の木立の方に姿を消した。
もうそこいらは暗くなり始めていた。
○
夜が訪れる頃には、トゲツの混乱は随分落ち着いていた。どうやら川の上流での戦いは首尾よく勝利し、魔獣の群れは残らず退治されるか山へと追い返されたらしい。特にSランク冒険者のパーティの活躍は目覚ましかったのだと噂が流れて来た。
アネッサと別れて町まで戻ったアリスは、皆が避難している冒険者ギルドの支所へと向かった。
そこで一夜を明かし、翌日になると、町は活気を取り戻していた。
避難していた連中は自宅の無事を確かめに次々と帰路に就き、そんな連中を相手に商売しようという振り売りがたくましく口上を述べ立てながら歩いている。日常はすぐに戻るだろう。
アリスたちもヒイラギの屋敷まで戻った。
庭先の魔獣の死骸はそのままだったが、あれから魔獣が来た形跡はなく、ヒイラギは工房の中を確かめてホッと胸を撫で下ろしていた。
「さて……とりあえず、掃除だな」
「ですね」
魔獣は素材にもなるから、ひとまとめにしておいて後で冒険者ギルドに渡せば幾ばくかの金になる。
それで魔獣の死骸を片付けていると、シンラとカヤが連れ立ってやって来た。カヤは昨夜のうちに迎えに来たシンラと自宅に帰っていた。
「やあ皆さん、ご無事で何より」
「カヤねぇ」
「むっちゃん!」
ムツキとカヤは互いに駆け寄って手をつないで楽しそうにぴょこぴょこ跳ねている。すっかり仲が良くなったようだ。ナルミはジトっとした目でそれを見ている。
ヒイラギが箒にもたれてシンラを見た。
「あんたも無事だったか」
「何とかね。まあ、前線に行ったわけじゃないからさ」
シンラは避難所であれこれと雑用をしていたらしい。怪我はしていないがくたびれているように見える。
「とりあえず避難令も解除されたから、僕も一旦は手が空いたよ。まあ、この後事後処理があれこれあるんだろうけど……」
「オオツキとのあれこれはもう大丈夫なの?」
とナルミが言った。シンラは苦笑した。
「何とかね。ひとまず賭けに関してはなかった事にしてもらったよ」
「よかったですね」
とアリスが言うと、シンラは深々と頭を下げた。
「いや、本当にアリスさんのおかげだよ。ありがとう。今すぐは無理だけど、近いうちにきっとお礼はするから」
「い、いえいえ、こっちが頼んで出さしてもらったんですから、気にしないでください」
「いや、そういうわけには」
「いえいえ、本当に……」
互いに頭を下げ合う二人を見て、ヒイラギが呆れたように言った。
「馬鹿やってないでさっさと片付けるぞ。あんたらも来たんなら手伝え」
アサクラ家の兄妹が来たから人手も増えて、昼を過ぎる頃にはすっかり片が付いた。
このままギルドまで行こうかと思っていると、また誰かがやって来た気配である。
「あ、いたいた」
「ひゃー、長い石段だねぇ」
「お前、体力落ちてんじゃねーか?」
「こんにちは、アリス」
手を振っているのはアンジェリンである。アネッサ、ミリアム、マルグリットの姿もある。
アリスはおやおやと思いつつ、ドキドキしながら駆け寄った。
「アンジェリンさん、皆さん」
「顔色はいいな。怪我は大丈夫か?」
とアネッサが言った。アリスは頷く。
「もうほとんど痛みもなくて……アネッサさんの処置がよかったんですよ」
「そうか。よかった」
「大活躍だったんだってね、アリス」
とアンジェリンが言った。アリスは頭を掻く。
「いえ、そんな事……」
「何言ってるんだよ、アリスさんがいなかったら、こっちの町でもう一戦闘起きてたし、今日こうやってのんびりするのも無理だったぞ」
とアネッサが笑いながらアリスの肩をぽんと叩いた。アリスは照れ臭くなって俯いた。
ムツキがミリアムに抱き着いて、髪の毛をふかふかと揉んでいる。
「ミリィちゃん、ようこそ」
「おー、むっちゃん。昨日は怖くなかったー?」
「怖かったけど、平気」
「そりゃ偉い! あ、カヤちゃんもいる。おーい」
カヤはドギマギしながらも、ちょっと澄ました風に手を振った。
アンジェリンが庭先を見回しながら、言った。
「急に押し掛けて、お邪魔じゃない?」
「いえ、今片付けが終わったところで……」
「ごめんな、片付けもしないで」
とアネッサが頭を掻いた。アリスはわたわたと手を振る。
「いえいえ、全然……あの、死骸、もらってもいいですか?」
「勿論、好きにしてくれ」
マルグリットがむうと口を尖らした。
「何だよ、みんな知り合いなのか? なあ、アリス、おれの事覚えてんだろ?」
「はい、もちろん。マルグリットさん」
「へへっ、安心した!」
とマルグリットは破顔した。滅多に会わぬエルフの事はそうそう忘れはしないだろう。
ヒイラギがやって来て口を開いた。
「賑やかだな。何の用事かね」
「お昼食べた?」
とアンジェリンが言った。
「いや、まだだが」
「一緒にどうかと思って」
よく見れば、アンジェリンたち四人はそれぞれに包みや酒瓶をぶら下げていた。店売りのものを色々と買って来たらしい。
ヒイラギは「ほう」と言った。
「ありがたいが、いいのか? それにあんたらはオオツキに雇われてると思ったが」
「別に行動まで制限はされない。オオツキ家はちょっと居心地悪いの」
とアンジェリンは言った。
それならば断わる理由はない。
天気もよいので、庭に筵を敷いてそこに銘々に腰を降ろした。
Sランク冒険者のパーティは流石に折も質が良い。煮物、焼き物、山菜の天ぷらに寿司まである。量もたっぷりあって、アリスたちは勿論、シンラとカヤも嬉しそうである。
がやがやと雑談に興じつつ料理をつつき、飲む者は酒も飲み、どんどん場が陽気になる。
酒でほんのり頬を染めたアンジェリンが、アリスの横ににじり寄って来た。
「あのね」
「はい」
「鋼の実の剣って、どんな感じ?」
「そうですね……仲のいい、相棒っていう感じです。頼りになるし、こっちも力になってあげたいと思うような」
「そっか……いいね」
アンジェリンは手元の湯飲みから一口飲んだ。
「わたしも欲しいんだ。アリス、打ってくれる?」
「は、はい……でもあの、アンジェリンさんに合った実があれば、ですが」
「そうなんだ。楽しみ……」
アンジェリンたちと話していると、昨日の出来事がありありと思い出されて来る。
剣術大会に始まり、魔獣の討伐戦と何だかひどく濃い一日だったと思う。楽しかったなどとは言えないけれど、最悪だったとも言えない、奇妙な日だった。
色々と思うところもあった。自分の鍛冶師としての価値観が揺さぶられたような日でもあった。
まだ悩んでいるし、一朝一夕で答えが出るものでもあるまい。ヒイラギの手伝いで来た以上、仕事になれば鎚は振るわねばならぬ。
しかし、自らの仕事として武器を作る事の意味合いを、アリスは見失いかけていた。
アンジェリンの剣を手掛ける事が、果たして今の自分にできるだろうか?
そんな事を思う。
だが、今は後ろ向きな考えにふけりたくはない。
守り抜けた家族と、新たな友人たちと、今は春の日を楽しもう、とアリスは後ろ手に寄りかかって、抜けるような空を見た。
2章終了です。お待たせしてすみませんでした。
書き溜めがない事もあり、確定申告だの何だので忙しくなるのもあり、またしばらくお休みします。
小説投稿サイトにはね、他にも沢山小説があるんですよ、皆さん。