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蒼き剣のアリス  作者: 門司柿家
1章
3/30

二.分厚い梅雨雲が空を覆って

 分厚い梅雨雲が空を覆って、どんよりと暗い色彩を地上に投げかけている。

 ぐんぐんと根を張っている稲苗が、生ぬるい風に揺れている。そうこうしているうちに蛙の声が方々から聞こえて来て、ぽつぽつと雨が降り出した。

 イスルギは海底火山が隆起してできた島であるせいか、山から海に向けてなだらかな斜面が続く。人々は長い暮らしの中で石垣を作り、水路を作り、水を引いて田を起こした。


 田んぼに足を突っ込んで前かがみになっていたアリスは、腰に手を当ててうんと背を反らした。笠から雫がぼたぼた落ちる。


「ふう、あつ……」


 遅い梅雨だった。

 なかなか梅雨雲が来ないとみんなやきもきしていたが、ようやくの長雨にため池や川の水もかさを増し、あちこちの田んぼに潤いを満たした。しかし日夜じとじとと湿気がまとわりつくようにもなり、今も汗なのか何なのか、服が肌にくっつくようだ。


 草取りの時期だ。たっぷりの水と夏の気温は、野菜だけでなく雑草も旺盛に育てる。

 稲が勢いづく前に雑草に覆われては困る。蓑笠を身に着けた百姓たちは田んぼに足を突っ込んで身をかがめ、泥を引っ搔き回して白い草の根を浮かした。


 ブリョウの民の主食は米で、水を張った特殊な畑、田んぼで育てる。初夏に植えられた稲苗は水に浸りながら成長し、秋には黄金色の実りを迎える。

 アリスは金銭を得る手段としては鍛冶と冒険者をしているが、家で持っている田んぼがあって、自給用の米をそこで育てている。それほど広くはないとはいえ、主食が自給できるのは大きい。この時期は野鍛冶とダンジョン探索に加えて田んぼ作業が日常に入って来る。


 アリスは額の汗をぬぐい、畔際の方にいたナルミに声をかけた。


「ナルミ、ちょっと休憩しよっか」

「うん」


 畔に上がって、水路で手足を洗った。ふやけた足は妙に熱く、水に浸すと気持ちがいい。

 爪の間に入った泥がなかなか取れない。汗と雨とで体がじっとりと湿っているのだが、それでいて暑いから何となく茹だったような気分だ。


 木の下に入る。霧雨だからこれで十分雨がしのげる。蓑を脱いで振ると水滴が跳ね散らかった。

 さらさらとそぼ降る雨が、視界をけぶらせている。

 茣蓙に腰を下ろして漫然と田んぼを眺めていると、「おーい」と声がした。

 目をやると、傘を差して竹籠を下げた少女が大きく手を振りながら歩いて来る。アリスの幼馴染のヤスハである。軽く束ねて右肩から前に垂らした黒髪は、明るい所では茶色がかって見える。


「おつかれー。お茶淹れて来たよー」

「おー」


 竹籠には水筒と蒸し芋が入っていた。


「薬缶で冷やしといたから冷たいぞー」

「ありがと」

「ヤスハちゃん、下はどう」


 とナルミが言った。ヤスハは肩をすくめる。


「半分は済んだかな。今モサクさんとこのをやってる。ナルちゃん、早く式神とか使えるようになってよー。草取りとかやれるんでしょ、あれって」

「あんなの超高等技術だよ。俺なんかまだまだ」

「ふーん。まあ、将来に期待ですなあ」

「人、足りてる?」


 とアリスが言うと、ヤスハは腕組みした。


「どうかな。でもアリスたち、手伝い来れるの?」

「必要なら行くよ。どのみち、この時期は野良に出ないといけないし、みんなには助けてもらってるからお返ししないと」


 とアリスは蒸し芋を手に取った。

 ヤスハが蒸し芋をかじりながら言った。


「鍛冶仕事やらないで大丈夫?」

「今はそんなに仕事も来ないんだ。剣鍛冶は相変わらず頼まれないし……そもそも草取りは今頑張らないと後が大変だもん」


 田の草は一日見ないだけで驚くほど伸びる。初期除草に精を出すか否かで、その後がかなり違って来るから、農民たちはこの時期は泥にまみれて一生懸命働く。

 ヤスハは膝を抱えながらアリスを見た。


「相変わらず、本家とは折り合い悪いの?」

「まあ、うん」


 ゲンザのいない今、名工ゲンタツの跡を継ぐのは弟の、つまりアリス達の叔父であるユウザという事になっている。

 ユウザの工房はイスルギでも最大手で、ユウザは鍛冶師ギルドの理事でもある。

 イスルギ産の武器の流通や生産などの管理を任されているわけなのだが、元々ゲンザとユウザは折り合いが悪かった事もあって、その流通と仕事のラインにゲンザの名前はなかった。


 それでもブリョウ一の名工として名高かったゲンザの元には、鍛冶師ギルドを通さずに直接足を運ぶ者も多く、それで十分に仕事は成り立っていたのだが、その父がいなくなった今では、わざわざアリスに仕事を頼む剣士はいない。

 ゲンザの事を訪ねて来た客も、彼がいないとわかると帰ってしまう。あるいはアリスが剣を仕上げても、期待に沿えずに受け取ってもらえない事も多かった。ゲンザの腕を期待して来る客は求める品質が恐ろしく高い。

 加えて、ゲンザたち兄弟の折り合いの悪さが災いして、鍛冶師ギルドがアリスの方に仕事を回して来ない。邪推かも知れないが、意図的に仕事の斡旋を差し止めているような節さえある。


 鍛冶師として身を立てるならば、依頼がなくとも新造の武器や農具などを作って売ればいいのだが、農具はともかく、武具はただ作れば売れるというものではない。

 イスルギの武器屋は鍛冶師ギルドが取り仕切っているし、冒険者ギルドで売ろうと思っても、そこには既に大手の武器屋や工房が入っていて、アリスが新規で入る余地はない。

 材料の鉄や燃料の松炭を買うのにも金はかかる。そして、そういった材料の仕入れルートを持っている分、大手工房はアリスが作る武器と同等の品質のものを、アリスよりも安く売る事ができる。

 そのせいで余計にアリスには武器の依頼がない。依頼があっても品質と値段の折り合いで頓挫し、別の大手の工房に客は流れてしまう。売れないものばかり作るわけにもいかず、結局鎚を握る時は農具や漁具を打つ時ばかりだ。


 ゲンザの娘、というのは一つのステータスかも知れないが、アリス自身にはまだ剣鍛冶師としての実績は皆無だ。幼かった頃は神童と言われた腕前も、この歳になった今では数多い鍛冶師の一人としてしか見られない。

 加えて剣鍛冶が蔑む野鍛冶をやっているから、同業者からの評判はあまりよくない。所詮は拾われっ子だともささやかれている。そういう時、アリスは自分の金色の髪と青い目が嫌になった。


 生活の為に野鍛冶をしているが、アリス自身は野鍛冶よりも剣鍛冶に魅力を感じている。

 鍛冶師として独り立ちするならば、野鍛冶よりも剣鍛冶がいい。

 野鍛冶から学べる事もたくさんあるけれど、剣を打つ時と鍬を打つ時とは、何かが違うように思われる。

 ゲンザも真剣さこそ変わらないとはいえ、剣を打つように他の刃物を打ったりはしなかった。

 傍目には同じに見えても、同じ鍛冶師の目で見ればずいぶん違う。そもそも日用品の刃物には鋼の木の実は勿論、武器で使うような高品質の鋼を使ったりもしない。


 何よりも、用途が違うだけで鍛冶師の力の込め具合が違うのだ。

 農具だから手を抜くというわけでない。しかし、武器という戦いの道具は、それを打つ鎚に籠る力の質が、生活の道具に込めるそれとは違うように思われた。


 技術や方法論は、アリスは十分に知っている。幼い頃からゲンザの傍にいたからだ。

 しかし、父が武器を打つ時に放っていた感じ。あれだけは、自分が本格的に鍛冶師の道に入ってから、はっきりと違いがわかって来た代物だった。理屈やロジックで会得できるものではない。見て、感じて、実際にやってみて、体に沁み込ませなければならないものだ。


 剣の依頼、入って来ないかなあ、と物思いにふけっていたアリスの頬を、ヤスハがむにっと突っついた。


「しかめっ面するなよ、くせになるぞー」

「んん……そういうつもりじゃないんだけど」


 難しい顔をしていたらしい。ヤスハはにまにましながらぐいぐいと頬を押して来る。


「相変わらず、アリスさんの肌はすべすべですなあ」

「やーめろー」


 アリスの方もお返しにヤスハを突っつく。つい思考が下向きになりがちだが、そういう時にこの幼馴染の存在はありがたかった。

 きゃっきゃとはしゃぐ女子二人を、ナルミが呆れた目で見た。


「何やってんだか……」

「あーん? なに澄ましてんだ、ナルミー」


 目ざとくそれを見つけたアリスは、たちまち矛先を弟に転じて、ぐいとナルミを羽交い絞めにした。ナルミはじたばたした。


「いちいち抱き着くのやめろよっ」

「む、姉さんに向かってその口の利き方はなんだ。お仕置きだ、うりうり」

「や、やめ……っ! は、放せってば!」


 ナルミが反抗すればするほど、アリスの方は面白がってその逆を行く。冒険者なぞやっていて力があるから、本の虫ナルミの抵抗は抵抗になっていない。

 少しばかりの取っ組み合いの後、ようやく解放されたナルミは真っ赤な顔でずれた眼鏡を元に戻した。怒っているのか照れているのか判然としない表情をしている。アリスはけらけらと笑ってばかりいる。それを眺めていたヤスハが、「……ナルちゃんの性癖、歪められてないかなあ」と呟いた。


 その時、坂道を誰かが上がって来るのが見えた。ナルミが「げ」と言って嫌そうな顔をした。

 来たのは若い男である。背が高く、整った顔立ちをしているが、何となく意地が悪そうな目つきをしている。後ろには荷物持ちらしいのがいて、自分が濡れながら男に傘を差していた。


「コテツ……」

「ふん、相変わらず貧乏くさいな」


 従兄のコテツは蔑んだような目でアリスたちを見た。ナルミは勿論、ヤスハさえむっとしたような顔をしている。

 コテツはユウザの息子で、二十一歳とアリスよりも年上だ。

 ゲンザと仲が悪かった叔父の影響で、最初からアリス達を見下したような態度で接して来たから、幼い頃はよく喧嘩になり、しかもアリスが勝つものだから余計に向こうの神経を逆なでして、今でも関係は良好とは言い難い。

 今は病床に臥せっているユウザとブリョウ本島の工房に勤めている兄に代わって工房の運営を仕切っており、イスルギの名家の息子という立場から来る傲慢なところがさらに目立つようになった。

 だからアリス達きょうだいに限らず、特に幼少期を共に過ごした同世代の連中からはあまり好かれていないが、取り巻きも大勢いるから本人は大して気にしていないらしい。


 コテツはずかずかとやって来て、傲然とアリス達を見下ろした。


「忙しそうだなぁ、アリス」

「農繁期だもの。あたりまえでしょう」


 アリスが言い返すと、コテツはわざとらしく額を叩いた。


「いやはや、そりゃ失礼した。どうやら鍛冶師として鎚を握るより泥に足を突っ込む方が性に合っているようだな。せっかく仕事を持って来てやったのだが、こりゃ無駄足だった」


 アリスは怪訝そうにコテツを見た。


「仕事?」

「そうとも、うちの工房の下請けだがね。うちは困った事に鍛冶仕事が忙しくてねぇ。猫の手も借りたいというやつだな」


 と「鍛冶仕事」のところを嫌に強調して言い、手をひらひらさせる。

 後ろの荷物持ちがさっと書類らしいのを差し出して来た。

 アリスは警戒した顔で受け取り、濡らさないように気を付けながら書面に目を走らせた。


「……魔石の埋め込み」

「そう。雷石を刀身に埋め込んだ特注品を作ろうと思ったんだが、お前には難しかったかな。はは、それに忙しいようだからこの話はなかった事に」

「待って!」


 書類を取ろうと伸びて来たコテツの手を逃れて、アリスは改めて仕事の内容をまじまじと見る。

 外部の依頼者から持ち込まれたものではなく工房の下請けだ。先に武器を作って、それから店頭に並べるなり直接営業に行くなりして販売するらしい。

 アリスはちらとコテツを見た。にやにやしている。断れば断ったで意気地のない奴だと吹聴し、いざできた剣の質が悪ければ腕が悪いと罵倒するだろう。

 もしアリスがしくじっても、ユウザの工房には優れた職人が大勢いるから取り返しは利くだろうし、外部依頼でない分工房の評判が落ちる事もない。


 回りくどい嫌がらせだ、とアリスはうんざりした。しかし同時にこれはチャンスだとも思った。向こうがこちらを侮っているならば、逆に舌を巻くほどのものを作って見返してやればいいだけの話だ。

 アリスは書類を畳んで懐にしまった。


「受けるよ」

「ほう、そうかそうか。てっきり田んぼが忙しいと思ったが」


 アリスは「田んぼ」を強調して言うコテツを睨みつけた。


「そっちこそ、わざわざこんな所まで自分で来るなんて、暇なんだねコテツ。それとも腕が足りなくて鍛冶場に入れないの?」


 たちまちコテツの顔が歪んだ。コテツは大工房の息子だから威張っているが、本人の鍛冶の腕はいいところ二流と囁かれている。後ろでナルミとヤスハがくすくす笑った。


「偉そうな口をきくな、拾われっ子が! ろくに仕事もできない分際で!」

「……」


 アリスは黙ったままジッとコテツを見つめた。コテツはうろたえたように視線を泳がし、やにわに踵を返して大股で去って行った。

 荷物持ちがすっとやって来て、何か包みをアリスに手渡してコテツの後を追って行った。ヤスハがあかんべえと舌を出す。


「馬鹿コテツ、二度と来んな」

「木偶の棒だよね、あいつ。姉さん、大丈夫?」


 ナルミが心配そうにアリスの背中を撫でた。

 アリスは包みを開けた。魔石である。透明な石の中で小さな稲妻が明滅している。

 しばらく黙って魔石を見つめていたアリスだったが、やにわにこぶしを握り締めて「うおー」と言った。


「やったるぞー! 絶対に見返してやるんだから!」

「そうそう、その意気だぞー、アリス」


 ヤスハがやんややんやと煽り立てる。

 ナルミは少しはらはらした様子だったが、彼も思う所は同じだったようで、嘆息混じりに「頑張って」と言った。


 草取りの続きを二人に任せ、アリスは猛然と屋敷に駆け戻った。

 留守番をしていたムツキが箒を片手にきょとんとした顔でアリスを出迎えた。


「おねぇ、どうしたの」

「むっちゃん、姉さんお仕事入ったから! 悪いけど田んぼよろしくね!」

「ダンジョン行くの?」

「ううん、鍛冶! 剣作るから!」


 おお、とムツキは目を輝かした。


「頑張って、おねぇ」

「ありがと!」


 アリスは服も着替えずに自分の部屋に戻ると、机に向かって剣の設計図をしたためた。

 とはいえ、魔石を埋め込むのは難しい作業だ。ゲンザならば当然難なく仕上げてしまう仕事だが、同じようにできるとは思っていない。


「刀身に穴を開けなきゃだけど……剣の強度もあるからあまり大きくは無理だし、刀身に魔力を伝わす為には……思った以上に難しいぞ、これ。父さんはどうやってたっけ……」


 アリスは乱暴に頭を掻きながら、ぶつぶつ呟きながら鉛筆を走らせた。

 ああでもないこうでもないとしているうちに、外からは雨音が大きく聞こえて来た。


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― 新着の感想 ―
[良い点] トルネラの農作業描写に負けず劣らず、イスルギの稲作描写が丁寧でリアリティがありますね。特に雑草取りの大変さには、共感しかない! [一言] むすえす同様タイトル名が、最初の一文節になってるん…
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